仕入屋錠前屋57 押し問答 2

 こいつは実は悪人で、どこかに連れていかれて金を出せと脅されるのではないかとか、そんなことは頭を掠めもしなかった。それほど男は淡々としていて、二人には何の興味もなさそうだったのだ。浩太と洋輔は後部座席に並んで座り、何となく黙り込んでいた。洋輔が家の住所を告げると大体分かった、と頷き、男は車を発進させた。
「あ」
「何だ?」
 洋輔が急に大きな声を上げ、運転席の男がルームミラー越しに後ろを見た。
「……や、その、コンビニ寄りてえなって……」
「——すぐそこにある。ちょっと待て」
 浩太が見詰めても洋輔はこちらを向かなかった。この至近距離で視線に気づかないことなどないだろうに、頑なに手の中のペットボトルに視線を落としている。諦めて息を吐き、顔を上げると、ミラー越しに男の鋭い目と目が合った。

「お前ら、学校の友達か」
 コンビニは五分も走らない距離にあった。男は店の前の駐車スペースに車を入れ、行って来い、と洋輔を促す。自動ドアの向こうに消えていく洋輔の背中を見たまま、運転席から男が言った。
「……てか、幼馴染」
「ふうん」
 伸びをした男の手が、ヘッドレストに回された。浩太は骨ばった手をぼんやり見ながら語を継いだ。
「親が離婚して」
「お前の? あっちの?」
「向こう。で、あいつ何か新しい親父に馴染めないみたいで。今葬式で親出かけてるから車動かしてえ、なんつってさ……別に運転したいとかじゃないと思うんだけど」
 初対面の人間に何を言っているのかと思ったが、知り合いには知り合いだからこそ言えないこともある。浩太はコンビニの棚の間を動く洋輔の頭の天辺を視線で追いながら思い切って続けた。
「親父と、嫌だったら母親と話せば、つっても喧嘩になるからやだつってきかねえし、お前には分かんねーよ、って言われたらもう返せねえし。俺は両親揃ってて、あいつの気持ち分かんねえのはほんとだから。でもなんか、そうやってもう一年で、あいつ段々暗くなってきて、それで」
 不覚にも、一瞬目の前が滲んで見えた。慌ててパーカーの袖で目元を拭う。改めて口にし、この一年の洋輔の様子をどれだけ心配していたか自覚した。洋輔は大事な友達なのだ。多分、学校の奴らはまだ気づいていない。しかし、花が確実に萎れていくように日々元気を失っていく洋輔をどうしていいか分からなかった。
 レジの前に立つ洋輔の後ろ頭が半分、ガラスの向こうに見えている。浩太は両手で顔を擦り、唇を引き結んだ。男は何も答えず、自動ドアが開いて洋輔が現れた。逆光になっていて顔は見えないが、どうせ浮かない顔をしているに違いない。後部座席のドアを開けた洋輔に、男が思いついたように声を掛ける。
「そうだ、お前こっち乗れ。最後、ナビしてもらわないとなんねえから」
 洋輔は車内に入れかけていた身体を戻し、大人しく助手席のドアを開けた。
「……うわっ!?」
 物凄い速さで男の手が伸び、胸倉を掴まれた洋輔は助手席に引きずり込まれた。仰向けになり、シートの間を乗り越え男に膝枕されるような格好になっている。半ドアになったせいでルームライトが洋輔の間抜けに開いた口の中をうすぼんやりと照らしている。
「ちょ、てめ」
 浩太が慌てて立ち上がりかけ、天井につかえてもがくと男はゆっくりこちらを向いた。
「大事なお友達には何もしねえよ、黙ってろ」
 その顔の冷静さに、浩太の怒鳴りかけた口もまた、開いたまま固まった。
「親が再婚したって?」
 息を呑んで目を瞠った洋輔が、次の瞬間浩太を睨みあげてくる。浩太は気まずくなって目を逸らし、隠れるように座席に腰をおろした。
「新しい親父と折り合い悪ぃのか」
「——別に」
「こいつはそう言ってるぞ」
「…………別に」
 不貞腐れたような洋輔の声は低く尖っていて、まるで知らない誰かの声に聞こえた。
「まあ、もう少し待て」
 男の低い声は相変わらず淡々として面倒くさそうで、洋輔の姿が見えないと今の状況を忘れそうだ。
 男は左手を助手席のヘッドレストに回してリズムを取るように軽く叩いた。浩太が見る限り、リラックスして助手席の彼女とでも会話しているように見える自然さだった。シートで隠れているものの、実際には洋輔は胸倉を掴まれて男に押さえつけられているにも関わらず。
 洋輔の返答はない。男の声が車内に響く。低い声なのに、それは随分はっきりと耳に届いた。
「お前くらいん時ってよ、世界の中心は自分なんだよな。学校の奴らと親と、あとちょっとの知り合いだけのちっせえ世界」
「……小さくて悪かったな」
「誰も悪いなんて言ってねえ。どうせ何年かしたらすぐ、自分で把握しきれねえくらい広いとこにおっぽり出される。その時もう一回親父を見てみりゃいい」
「あんたに」
「俺に、お前の気持ちはちっとも分かんねえよ」
 洋輔を遮って言った男が小さく笑う。
「俺の親も離婚して、母親はガキん時出てった。親父はいいだけ飲んだくれて、俺がお前くらいの時に肝臓で死んだ。その後一緒に住んだ祖父さんも、交通事故で呆気なく死んじまった。似たような家庭環境って言えばそうだけど、俺にお前の本当のところは分からねえな。お前が俺の気持ちなんか分からないのと同じだ。誰も他人が何考えてるかなんて知らねえから、せいぜい想像してやってくしかねえ。想像するには経験がいる。お前のたかだか十何年の経験で親父を量るのは、ちょっと早えんじゃねえのかと俺は思うね」
「…………」
 男は洋輔を放し、正面を向いた。ゆっくり身体を起こした洋輔と一瞬目が合う。すぐに逸らされた目は、涙こそ浮かべていなかったが真っ赤だった。男はエンジンをかけ、ミラー越しに浩太を見た。
「他人を受け容れるってのは案外難儀だぜ。お前の親父は、少なくとも努力はしてる」
 浩太を見ながら洋輔に向ってそう言って、男はそれ以上何も喋らなかった。そうして洋輔の家の車庫に車を入れるまで、洋輔がぼそぼそと口の中で呟く道順に短く答える以外、男は何ひとつ言葉にはしなかった。

 黙り込んだまま背を向けた洋輔に声をかけ、浩太は男と一緒に洋輔の家を出た。
 幸い洋輔の両親はまだ帰っておらず、何事もなかったように車庫に戻された車からは、先ほどまでのことを窺い知ることはできないだろう。
「……あんた、どうやって帰んの」
 浩太が話しかけると男はジーンズの尻ポケットから携帯を取り出し、ダイヤルして耳に当てながらこちらを向いた。
「お前はどうすんだ」
「俺、この町内だから。歩いて五分」
「そうか——うるせえ、くそったれジジイが」
 突然男が悪態をついたので驚いたが、どうやら電話の相手に言ったらしかった。それにしても、もしもしも言っていないというのはどうかと思う。暗がりの中で液晶のバックライトに照らされた男の削げた頬が、さっきまでと違って妙に恐ろしく見えた。
「あ? 死ね、阿呆。耄碌してんじゃねえぞ年寄りが。くだらねえこと言ってるってことは暇なんだろ。車出してくれ車。ああ? タクシーだぁ? いねえんだよ、住宅地で……お前な、俺が来てくれってお願いしてんのに断ろうってのか、ジジイ。っせえなあ……おい、ここの住所教えてくれ」
 浩太が答えると男は電話に向かって復唱し、迎えに来てもらうというのに相手を散々罵って電話を切った。先ほどまでの淡々とした態度とは違うその剣幕に驚きつつ浩太は思わず笑ってしまい、洋輔も一緒に笑えたらよかったと、頭の隅でそう思った。
 男は浩太を家の前まで送ってくれた。迎えが来るまで時間を潰せる場所がないかと訊かれ、すぐ近くにある児童公園へ案内した。ベンチに並んで腰かけ、煙草を吸う。浩太がうっかり煙草を銜えても、男は気にする風もない。
「……ダメとか言わねえんだ」
「あ? 何が」
「煙草」
「俺は中学ん時から吸ってた。お前の頃には減煙しようかなとか思ってたぜ」
 浩太の煙草を横目で一瞥し、男は言う。
「お前が肺癌になろうが成長が止まろうが俺の知ったことじゃねえ。自分でやることの責任は自分で取れ」
「……」
 そう言われると、何となく吸う気が失せる。それ以上会話もなく、男の吐き出す煙が暗がりに白く流れた。男の携帯が鳴り、どうやら近くまで来たらしい迎えに男が乱暴な口をきく。浩太はその口調を聞きながら、不思議と穏やかな内心を量りかねつつ、結局殆ど吸わないまま灰になった煙草を踏み消した。
 公園の脇にワゴンタイプの黒い車が止まる。降りてきた人影が公園を照らす明りに浮かびあがって、浩太は思わず口を開けた。
 ジジイジジイと連呼していたからどんな爺さんか、せいぜいオヤジが来るかと思ったのが間違いだった。
 車から降りてきたのはモデルみたいないい男で、ジジイという単語にはおよそ似つかわしくない容姿だった。長い脚と薄い色の目は、多分欧米の血が入っているのだろう。長い前髪が崩れて額にかかっているのがまたよく似合う。唇の端に銜えたままの煙草すら絵になった。それが普段着なのか、それともどこかに出かけていたのか浩太には分からない。ノータイのスーツの着こなしは明らかに勤め人のものではないが、かと言って水商売ともどこか違う。
 その人物は浩太を見て片方の眉を上げ、何も言わずに僅かに笑い、さっさと乗れ、と男に向かって言うとまた車に乗り込んだ。
「じゃあな。車は免許取ってから乗れよ。警察に捕まったら面倒くせえからな」
 経験からくるのか、説教とは些かニュアンスの違う台詞を吐いて男は浩太に背を向けた。
「あ——、すみませんでした。どうもありがとう」
「お前の友達、あれ、親父と喧嘩させてみろ」
 車のドアを開け、寄りかかったまま男はこちらを振り向いた。
「どうなるかは親子の問題だけどよ、腹に溜め込んでいいことなんかひとつもねえんだ。お前らみたいなガキの頃は特に」
「…………」
 澱んでいく、洋輔の心。
 浩太は何となくごくりと唾を飲む。男は浩太の答えも待たず、さっさとドアを閉めてしまった。ブレーキランプが点灯し、車は静かに発進した。あっという間にテールランプは角を曲がって見えなくなった。
 男のアパート傍の自販機で買った飲み物はすっかり温くなっている。浩太の手の中にあるのは、頼りないペットボトルと吸殻一本だけだった。

 

「て、わけでさ」
 浩太はソファに凭れて伸びをした。
「その人にお礼言いたいんだよね」
「浩太、それだけじゃ分からんよ。若い男ってだけじゃ、何とも言えん」
 そう言って、向かいに座る男は眉を八の字にしてみせる。自分でもそう思うが、それしか知らないのだから仕方がない。
「アパートの場所は覚えてないのか?」
「だって、ぐるぐる回って行ったからさあ。全然覚えてねえもん」
 浩太の母は和菓子屋で週に三回パートをしているのだが、この男はそのパート仲間の旦那である。母と男の妻は、歳は離れているもののパッチワークの教室に一緒に通う仲のいい友人で、家族ぐるみで付き合いがある。名前が似ているせいか、それとも息子がいないせいか、彼は浩太を可愛がってくれるのだ。人のよさそうな顔を悲しげな表情にして、彼はすまんなあ、と溜息を吐いた。
「……仕方ねえよなあ。自分でも無理って思うもん。ありがと、コウおじさん」
「いや、力になれなくてすまないねえ」
「そんなことねえよ。じゃあ」
「あんまり夜遊びして補導されるんじゃないよ」
 コウおじさんに顔をしかめてみせ、浩太は階段をゆっくり降りた。
 あの翌日、浩太は宿題を見せろとかなんとか言って、夕飯時の洋輔の家に無理矢理上がり込んだ。
 洋輔の両親は浩太が洋輔を構うと酷く喜ぶ。洋輔が昔のまま笑うというのがその理由だ。それをいいことに家族の中に割って入り、母親を笑わせ、親父を褒め、嫌われるのを覚悟で洋輔を煽った。
 押し問答は、長く続いた。
 海老フライの衣がタルタルソースに浸食されてぶよぶよになり、きゅうりの酢の物の塩気が抜けて水が器の底に溜まっていく。洋輔と親父はいつの間にか泣きながら怒鳴りあっていて、それを見ている母親も浩太も涙ぐんで何が何だかもうぐちゃぐちゃだった。
 洋輔と父親が何を言い合っていたのか、正直浩太は覚えていない。ただ、声が嗄れるまで言いたいことを喚き合った二人のほっとしたような顔を、多分暫く忘れないだろうと思う。
 言わずとも分かるなんて、誰がそんな馬鹿なことを言ったのか。気づいて欲しくてサインを送り、読み取ってもらえないと言っては拗ねる。誰だって、浩太だってそうだ。だが、それでは相手には伝わるものも伝わらない。多分、何でも思ったことを言えばいいというものではないだろう。けれども、口に出すというのはとても大切なことなのだ。
 喧嘩させてみろと言ったあの男が何を思っていたのかは、それこそ想像に過ぎないけれど。

「な、ちょっと!」
 ビルの入り口を出たところで、背後から追いかけてきた声に浩太はゆっくり振り返る。コウおじさんの事務所の手伝いの男がそこに立っていた。
「マツさん……松戸さんには内緒にしてほしいんだけど」
「なに」
 浩太が余程怪訝そうな顔をしていたのか、それとも赤い髪とピアスに怯んだのか。男は一瞬迷うように顎を引いたが、手の甲で鼻を擦るような仕草の後、口を開いた。
「君の探してるやつ、知ってる」
「え……」
「連絡先知ってるのは俺じゃなくて友達だけど。マツさんに黙っててくれるなら」
 男の顔を見て頷きながら、浩太は洋輔の顔を思い出した。
 涙でぐしゃぐしゃになった顔をティッシュで乱暴に拭いながら、浩太を見て照れたように笑った洋輔の顔。憑き物が落ちたような洋輔の笑顔を。

カツラギ、と名乗る男に礼を言い、浩太は洋輔に電話をかける。三コール目で洋輔が出た。洋輔にさっきのことを伝えながら、洋輔の家への道を辿る。目についた道端の自販機で冷たいスポーツドリンクを二本買い、鞄の中に放り込む。耳の中に響く洋輔の声に答えながら、浩太はまた歩き出した。