仕入屋錠前屋57 押し問答 1

「おい、いい加減うるせえぞ、ガキ!」
 聞き慣れた台詞だ。浩太がその声を聞いた瞬間考えたことはそれだった。

 うるせえぞ、ガキ。子供の頃、しょっちゅうその言葉を耳にしていた気がする。
 その頃、浩太と洋輔の家は向かい合わせだった。洋輔が引っ越したとき——同じ町内ではあったが——何故うちは引っ越さないのかと親を問い詰め泣いたらしいが覚えていない。
 洋輔の父親は何か事業で失敗したのだそうで、その頃はいつも家にいて、そして酷く荒れていた。酒を飲み、鬱屈を晴らす場所もなく、家で腐っていたのだと思う。
 学校から帰り、洋輔の家に行く。玄関で洋輔の名を呼ぶと、大抵「うるせえ、ガキ」と父親に怒鳴られた。そうやって怒鳴りながら父親は心ここにあらずで、そのせいかどうか知らないが、洋輔も母親も暴力を振るわれたことは一度もなかったらしい。
 そんな父親はそのうち当然の如く三行半をつきつけられ、中学の頃洋輔は母子家庭の子供となった。大して不良にもならず、かと言って真面目に勉強もしないで二人はそのまま同じ中学、そして高校に上がった。洋輔の母親が再婚したのは、浩太と洋輔が高校生になってすぐ。それから一年、洋輔は未だに新しい父親に馴染んでいない。
「なあ浩太、お前車運転したことあるよな」
 洋輔は床に寝転がったまま突然そう訊いてきた。さっきまで読むのに熱中しているかに見えた漫画雑誌は放り出されている。長めの前髪を女物のヘアクリップで留めた洋輔は、女子には結構人気があった。
「は? 何それ。あるけど」
 浩太は音楽を止めて答えた。洋輔が最近聴いている外国の女性アーティストの歌声が唐突に途切れ、部屋の中は突如しん、と静まり返る。
「どのくらい?」
「どのくらいって……松山の兄貴が族みたいなことやってんじゃん。去年同じクラスだったから、あの集会みたいのに何回か連れてってもらって……フツーに何回か運転したけど、俺免許ねえぞ」
「当たり前だろ、高校生なんだから。持ってたらおかしいだろ」
「お前が訊くからだろ。ってか何、乗りてえの?」
「だって、オヤ二人ともいねえしさぁ」
「って、もうすぐ帰ってくんだろ。親戚の葬式って今日終わったんじゃなかったか?」
「そうだけど、まだ大丈夫だろ。ちょっと出て、帰ってくる前に戻せば何ともねえって」
「そうだけどよ」
「な、ちょっと行ってみようぜ。夜だし誰が運転してるかなんて分かんねえから」
 多分、洋輔は車を運転したいわけではないのだ。浩太は洋輔の半ば投げやりな顔と、床の雑誌を見てそう思った。
 母親が再婚して一年、明らかに洋輔は様子がおかしい。浩太が見る限り、新しい父親はまったくの善人に思える。洋輔と打ち解けようと努力しているのが傍目にもいじらしいくらいなのだ。だが、洋輔は容易にそれを受け容れることができないと見えた。
「……じゃあ、行くか?」
 立ち上がった浩太を見上げ、洋輔はようやくにっと笑ってみせる。内心溜息を吐きながら、浩太はソファの上からパーカーを拾い上げた。

 喉が渇いたと洋輔が言い、そうだな、と浩太が返す。コンビニには寄れないだろうということになり、自販機を探した。大きい道路で路駐して、万が一にも警察が来たら厄介なことになる。そう思って中通に車を入れた。
 この辺りは飲み屋街から歩いてすぐのせいか、一軒家は殆ど見当たらない。大半が独身者用の、それも新しくないアパートばかりだ。どことなくうらぶれた雰囲気というか、正に繁華街の裏側、という感じである。
 実際、住人は水商売の人間が多いらしく、夜になると人通りが少なくなる。住民が夜の仕事に出勤してしまうから、というのがその理由だ。今は十時をまわったばかりだが、静まり返った辺りだけを見ると、もっと遅い時間のように錯覚する。明かりが漏れる部屋は少なく、暗く静まる路地を照らす車のライトもない。頼りなく灯った街灯がいやに明るく見えるくらいだ。ぐるぐる回って迷うこと十分、ようやく街灯の足元にひっそり立っていた真っ赤な自販機を見つけ、車を停めて立ち寄った。
 いけなかったのはその後だ。まさかインロックとは。
 買ったペットボトルなど放り出して二人でドアを引いてみたが、当然のことながら引こうが押そうが開くわけはない。お互い焦ったせいでお互いを詰ることになり、それぞれの後ろめたさから却って引っ込みがつかなくなって怒鳴り合う。その最中にかけられた言葉が、うるせえぞガキ、であった。

「ああ?」
 イラつきながら肩越しに振り返ると、若い男が立っていた。といっても、自分よりはかなり年上だろう。二十代の半ばくらいと見えたが、正直浩太にはハタチを過ぎた人間の歳はよく分からない。学生の自分たちよりは大人で、でもオヤジではない年頃。所詮高校生に出来る分類などその程度だ。
「何だよ、あんたに関係ねえだろ。うぜぇんだよ」
 浩太がこうやって凄めば、大抵の大人は不満そうに唇を曲げ、眉間に皺を寄せながらも踵を返す。別に特別ガタイがいいわけでも何でもないし、身長も、顔だってごくふつうだ。だが、黒っぽい赤に染めた短髪と片耳に所狭しと並んだピアスが必要以上に浩太を悪く見せてしまうらしい。
「関係はねえけど、うるせえんだっつの」
 男は、浩太の髪とピアスに何を思っていたとしても表情には出していなかった。
 酷く面倒くさそうな物言いと態度は、およそ気負いとか構えとか言う言葉とは無縁に見える。ジーンズにTシャツ、その上にジャージ風の上着を羽織った男は銜えていた煙草の灰を足元に払った。
「お前らがぎゃあぎゃあ騒いでんのは俺の部屋の窓の真下なんだよ。久々に早く寝ようと思ってんだから勘弁してくれ。騒ぎてえなら他所でやれ」
「好きで騒いでるわけじゃねえよ!」
 洋輔が苛立ちを男にぶつけたが、ぶつけられたほうはあくまでも平静なまま唇の端から煙を吐き出した。
「だから事情は知らねえっての。喧嘩すんなら小声で頼む」
「俺らだって行けるもんならとっくに行ってんだよ」
 思わずそう言うと、男は煙草を銜えたまま「ぁあ?」と言った。
「だから……車が」
「車? エンストか」
「いや、じゃなくて……キーしたままロックされたから」
 男は浩太と洋輔の間の車にようやく目を向けた。この男に事情を話したところでどうにもならない。分かってはいたが、どうしていいかも分からなかった。このままでは洋輔が面倒くさいことになる。これ以上洋輔が親と揉めるのは正直浩太も嬉しくはなかった。
 洋輔の苦しみを、二親揃っている浩太は決して理解してやれない。この一年、幼馴染の顔に翳りが染みのように広がっていくのを苦々しい気分で見続けたのだ。
 浩太は耳朶のピアスのひとつを無意識に引っ張りながら男の足元に目を遣った。緑と赤のラインのスニーカーは、メンズファッション雑誌で見たことがあるものだ。確か、食べ物みたいな名前のメーカーのものではなかっただろうか。
「なんだ、インロックか。騒いでないでJAF呼べよな。電話貸してやるか?」
 男はそう言って肩を竦めたが、浩太が黙っていると首を傾げ、眉根を寄せた。
「——お前らもしかして高校生か?」
「……」
「まさか盗難車じゃねえだろうな」
「じゃなくて、親の」
「お前の?」
「いや、あいつの」
「黙って乗り回してんのか」
「…………そう」
 否定したところで仕方がない。洋輔がこちらを見ていたが、どうせばれるのだからと思って頷いた。男は舌打ちして頭をがりがりと掻き、視線を足下に落とした洋輔と、自分を真っ直ぐ見る浩太に交互に視線を向けた。
「どうしても呼べねえのか、お前」
 男が洋輔を見る。洋輔は意気消沈したのか、前髪を掻き上げてだって、と小さく零す。助手席のドアに身体を預け、洋輔は片手で顔を覆って溜息を吐いた。
「仕方ねぇなあ、まったく」
 洋輔のものより何倍も長くて重い溜息が濃い煙と共に吐き出された。男は煙草を銜えたままポケットに手を突っ込んで浩太と洋輔を見ていたが、数秒後、待ってろ、と言い残してアパートの外階段を上がっていった。
「……なあ、浩太……。大人しくここで待ってんのか?」
 洋輔が訊いてきたが、待っている以外どうしろというのか。いずれにせよ、このままでは二進も三進も行かないのだ。
「仕方ねえじゃん」
「まあ、そうだけどよ」
 もしかしたら勝手にJAFを呼ばれるのかと思ったが、男は部屋に入ったと思ったらすぐに出てきた。手に何か持っているようだが、携帯ではないようだ。
「退け」
 顎のひと振りで浩太を退かせた男は、運転席側のドア横にしゃがみこんで鍵穴を覗く。
「誰か通ったら教えろよ、面倒くせえからな」
 それこそ面倒くさそうに言いながら、男は角度を変えて鍵穴を覗く。何をしようとしているかは一目瞭然だ。だが、自転車の鍵ではあるまいし、素人に開けられるものではないことくらいは馬鹿な自分たちでもよく分かる。
 こいつ頭おかしいんじゃねえの、と言いたいのは浩太だけではないだろう。洋輔がなんとも言えない顔で浩太を見る。浩太が洋輔に肩を竦めて見下ろすと、丁度男が視線を上げて目が合った。
 背筋を這い上がる冷たいものの正体がよく分からず、浩太は無意識に腕を身体に回し、自分を抱くようにして後ずさった。別に睨まれてもいないのに、眉間が痛くなって息苦しい。
「普通」
 気付いたら、寒気から逃げるように口から言葉が零れ出ていた。男は内心を伺わせない無表情で無言のまま見上げてくる。引っ込みがつかなくなって、仕方なく思いつくまま言葉を継いだ。
「普通、こういうのって針金みたいなのを窓の隙間から入れたりすんじゃないの。長くて平たい器具とか。よく映画で見んだけど」
「差し金は古い車でないと使えねえよ。今の車は隙間がねえからな。別に車盗もうと思ったことなんかねえから、スリムジムなんか持ってねえしよ」
 つまらなさそうに言って、男は鍵穴に向き直った。
「——なあ、浩太」
 洋輔が浩太を呼ぶ。諦めたようなその声は、酷く弱々しく覇気がない。浩太は何となく腹が立った。どうしてそんなふうになったんだ。
「もういいよ。俺、親に電話するから。多分一時間くらいしたら家に着くんじゃねえかと思うし」
「ああ? 今更何だよ!」
「スペアキー持って来てもらえば解決だろ。お前にも迷惑かけて悪ぃから」
「何言ってんだよ。迷惑じゃねえよ、別に。それより」
「おら、開いたぞ、ガキ」
 いつの間にか立ち上がった男が会話を遮りそう言ってこちらを見た。二人の目の前で男の手が運転席のドアにかかる。呆気なく開いたドアに半身を凭せ掛け、口を開けたままの浩太と洋輔を見て、男は面倒くさそうにこう言った。
「突っ立ってねえで乗れ。送ってやる」