仕入屋錠前屋56 ANTHEM 4

 三科が美也の肩を抱き、店へ戻る道へと促す。大人しく連れて行かれる美也のうつむけたうなじの白さが薄汚れた路地の暗がりに眩しかった。
「お前、何でここにいるんだ」
 哲は美也から視線をはずして秋野を見た。問いかけを発した秋野の視線は哲ではなく、二人の背中に据えられている。
「猪田ってやつの従兄弟がそこの店でソムリエやってんだ。で、飯食いにきた」
「そうか」
 それ以上何も聞かず、秋野はようやく哲に目を向ける。詳しい事情には興味がないか、そうでなければ後で三科に聞くのだろう。
 先ほどまでと同じ内心を伺わせない顔で佇む秋野の唇の端が赤黒い瘡蓋になっている。一昨日の夜、哲が噛み切った場所だ。三科と会っていたせいか小奇麗な格好と相反するその傷が、整った顔に妙な迫力を与えていた。
「で、その猪田くんは」
「知らねえよ。店で従兄弟と話でもしてんだろ。俺も戻るから退け」
 横をすり抜けようと一歩踏み出した哲を、秋野が遮る。長身が路地の向こうを塞ぎ、一瞬光が途切れて視界が暗転したような錯覚に陥った。人の悪い笑みを浮かべた秋野は、僅かに首を傾けて、哲の顔を正面からまじまじと見た。
「何だよ」
「別に。いい女だろ」
「だな。面倒そうで興味ねえけど。お前に惚れてんじゃねえの?」
 哲が言うと、秋野は長い前髪をぐしゃぐしゃと掻き乱した。セットされた髪が崩れ、それと同時に雰囲気の真っ当さも崩れ、獰猛さが色濃くなる。爽やかとは程遠い秋野の顔を眺め、哲は何となく一歩下がった。
「本人は錯覚してるかも知れんが、どう考えても本気じゃないね。誰にでも縋るんだ、あの手合いは」
「お前、ほんっと言うことに容赦ねえよな。敵作るぞ、そこら中に」
「そうか」
「で、ナイフ持って襲ってくんのな」
 哲が言うと、秋野は苦笑してポケットに手を突っ込んだ。
「……お前こそ、容赦ないね」
「俺のとお前のとじゃ種類が違う。なあ、何で賛美歌よ」
 目の前に立ち塞がる秋野を睨みながら、哲はふと思いついたことを口に出した。
 秋野の薄い色の目が哲を見下ろす。どうでもいいが、さっき食ったのは前菜だろ、と胸の中で呟いた。秋野の眼の色のようなオリーブオイルがかかった野菜のグリル。別に空腹でどうにかなるというほどでもないが、中途半端に口にした分、妙に腹が減っていた。
「知らんね。女の感傷が俺に理解できるか」
「だから、お前のそういうところがなあ」
「文句あるか」
「ねえよ、ろくでなし」
「お前に取り繕ったって始まらんさ」
 そう言いながら秋野は、哲が開けた一歩の間を悠然とした態度で詰め、目を眇めた。何故か緊張した空気に息が詰まる。
「なあ、消毒……ってのは、冗談が過ぎるか?」
「ぁあ? 何…………!」
 みなまで言い終わらないうちに、一瞬口の端を曲げて笑った秋野が急に哲の唇に齧りついた。二日前に哲が傷つけたのと同じ場所。明らかに意趣返しだ。美也のつけたグロスが残っているのか、唇がやたらと滑る。左手で顎を掴まれ無理矢理口を開かされる。濡れた舌が潜り込みざま音を立てて絡んできた。
 エロジジイ、と罵る声は声にならない。犬が噛み付き合うような激しさで口付けられ、呼吸困難と怒りで目の前が白くなる。
 押されるまま後ずさり、また背中が壁につく。さっきまでと同じ体勢、状況にいい加減うんざりしながらそれでも差し込まれる舌に噛み付き吸い上げた。
 秋野の長い脛が、何度目かの蹴りに耐え切れずに位置を変えた。あの男は一発でくずおれたが、さすがに秋野はそう簡単ではない。だが、本気で叩き付けたこちらの足の甲もかなり痛むから、秋野の向う脛は明日には痣だらけになるに違いない。せめてものお返しだ。
 後頭部をまさぐっていた秋野の掌が、出来たばかりの瘤に辿り着く。やばいと思った瞬間に指で押され、哲は秋野の口の中に声にならない悪態を吐き出した。
 暴力と紙一重の荒々しさに、まるで抱かれているかのように息が上がった。押し当て擦りつけられて濡れる舌に怒声が絡む。滅茶苦茶にされる、そんな強迫観念すら覚える口付けに、突如としてがくりと哲の膝が抜けた。いきなり力を失った体が垂直に落ちたが、秋野はすぐに反応して哲を抱え直す。
 脚の間に入り込んできた身体に圧迫され、口付けのせいもあって息が苦しい。大きな掌が尻を掴む。蹴り出した脚は空振って、マカロニアンの踵がアスファルトを強く擦った。
 僅かに開いた唇の隙間で秋野が囁く。
 ——賛美歌なんて、結婚式でもなけりゃ、聞かないだろう?
「クリスチャンじゃないなら、賛美歌、なんてのは日本人の日常の語彙にないんだよ。キリスト教系の学校にでも行ってたってんなら別だが、そんな話は聞いたこともない。結婚からの単純な連想だ、あれは」
「だったら、何だっつーんだ……!」
 股間に伸びてきた手にからかうように弄られる。苛立ちのまま秋野の脇腹に肘鉄を食らわすと、こもった笑いが秋野の喉の奥を震わせた。
「別に。だから、俺の知ったことじゃないっていうんだ。彼女は彼女なりに不幸だと思うが、だから何だ」
「お前って奴はほんと……」
「クソ野郎、だろ」
「……くたばりやがれ、この…………退け!」
「因みに、俺の母親はクリスチャンだけどな。俺は、宗教は否定しないが興味がない。別に無神論ってわけじゃないぞ。無宗教だな」
「んなこと知るか! このくそったれがところ構わず盛るんじゃねえ!」
 怒鳴りつける哲の形相を一瞥し、秋野はまるで哲の罵声など聞こえないかのように唇の端を吊り上げた。
「食事は済んだのか?」
「前菜しか食ってねえよっ」
「吼えるな、喧しい。終わったら寄れよ」
「手ぇ退かせつってんのが聞こえねえのか、くそったれ」
「なあ」
「うるせえな、誰がてめえの」
 含み笑いを漏らしたろくでなしに怒鳴りかけ、そうして発見した秋野の身体の向こうに見える人影に、体中の血が下がった。
「…………てつ?」
 窺うような声に反応した秋野は、声の主ではなく哲の顔を見下ろした。

 

 何で今頃、よりによってこの瞬間に現れるのか。
 思わず右手で顔を覆った哲を秋野が抱えるように立ち上がらせた。触れる腕、肩が細かく震えているのが伝わってくる。笑ってやがる、そう思うと眩暈がするほど腹が立つ。しかし実は拳も膝も出ないくらい動揺しているのだと自分では気づかずに、哲はああ、と覇気のない声で返事をした。
 一体いつからそこにいたんだ。
 訊ねたいが、答えを聞くのが恐ろしい。
 秋野の身体を押し退けた。猪田の視線が哲の目から逸れて、口元の辺りをうろうろと彷徨う。視線を追ってようやく唇に血が滲んでいるらしいと思い当たった。手の甲で拭い、そこについたのが血の混じった唾液であることに気がついてげんなりする。
「野郎……」
 猪田には聞こえない音量で低く吐き出した哲の恨めしげな声に、秋野は明らかに笑いを堪えた顔を振り向けた。
「仕入屋、てめえ、後で覚えてろよ」
「目が据わってるぞ、哲」
「うるせえ…………てめえの腹の上乗っかってもう無理だっつっても降りてやらねえからな、覚悟しとけ」
「……何か言ってることおかしくないか、お前」
「ぁあ? 知るか、とっとと消えろこのクソ馬鹿エロジジイが!!」
 喚いた哲の頭をぐしゃりとかき回し、罵声を背中に浴びて秋野は悠々とその場を去った。
 哲がふと我に返って振り返ると、猪田がすぐ後ろに立っていた。
「哲…………」
「…………飯、続き食おうぜ」
「だな」
 不自然に視線を逸らしながら、哲は猪田の脇をすり抜けた。
「なあ、哲」
 猪田の声に、哲は路地の向こう、ライトアップされた瀟洒なつくりのレストランに目を据えつつ何だよ、と返す。
「えーと、つまり彼女の言う賛美歌っていうのが何を指してるのかはちょっと分からないんだけど、礼拝用の合唱曲っていうことならモテットとかカンタータとかアンセムとかであって、結婚式で歌ういわゆる賛美歌は、あれはまた違うわけで」
「…………つまり、最初から見てたんじゃねえか、お前……」
 肩を落として絶望の溜息を吐く哲の背中に、昔キリスト教系女子高の女と付き合っていた猪田の講釈が続く。歩き始めた哲を追って猪田の足が速まった。猪田は哲を半歩追い越し、振り返ると満面の笑みを見せた。
「ってことで、続きは飯食いながら、ゆっくり、な!」
「——帰る」
 踵を返した哲にええっ、と猪田が大きな声を上げる。
 足もとに転がる栄養ドリンクの空き瓶を力任せに蹴り飛ばす。地面を転がるガラス瓶が、腹の立つことにやけに陽気な音色を響かせた。