仕入屋錠前屋76 99.9%の 9

 中二階への階段へ回り込み、秋野はぎょっとして立ち止まった。
 暗がりの中に人影があったからで、そんなはずはないとはいえ、また頌英ではないかと思ったからだ。
 一瞬後にはぼんやりとだが輪郭が見えてそれが華奢で小柄な女のものではないと分かったが、今度は別の意味でひどく驚いた。
 傘もささず、階段の柵に凭れて立っていたのは哲だった。いつからそこにいたのかずぶ濡れで、前髪と顎の先からまるで点滴のように同じリズムを刻みながら雨の雫が滴り落ちていた。
「哲?」
 声をかけたらゆっくりこちらを向いた顔は普段と変わらなかった。まるで雨なんか降っていませんとでもいうような無表情が貼り付いた顎先からまたひとつ、水滴が落ちる。
「よう」
「何やってるんだお前は」
 呆れつつも歩み寄って傘をさしかけようとしたらうるさそうに払われた。雨粒が安っぽい傘の表面を激しく叩く音が耳につく。
「おい、哲」
「いらねえよ。今更だし、すぐ帰る」
「こっちが気になるよ」
 哲の手を避けるようにして傘を掲げる。確かに今更と言いたくなるほど濡れているとはいえ、少なくとも見ている方は若干心が落ち着く。哲は片手で乱暴に前髪をかき上げると、秋野を見上げた。
「ちょっと言っときてえっつーか、聞きたいことがあってよ」
「そんなことで──電話するとか、勝手に鍵開けて入ってるとかすればいいだろう」
「別に部屋に入る用事ねえし」
 用事の有無ではないだろう、まったく理解しがたいと思い、秋野は濡れた哲の顔に目をやった。どちらかというと普段は常識的な行動を取る哲だが、こちらが唖然とするようなことをやってのけることも確かにある。だが、これはそういうこととは少し違う気がした。
 傘くらいその辺のコンビニでいくらでも手に入るのだ。少しくらい雨に濡れても気にしないのは秋野も同じだが、これだけ降っているのに気にならないなんて少しおかしい。
「哲、お前大丈夫か? 今までどこにいたんだ」
「何で」
「別に詮索する気はないが──何かあったのかと思っただけだ」
「どこって、昼過ぎから用事あって外出てて」
 哲は束の間虚ろな目を秋野に向けて、ゆっくりと瞬きした。睫毛の先からごく細かい飛沫が散るのが見えて、意味もなくどきりとする。
「さっきあれ見たんだけどよ」
「あれ?」
 哲の声は普段どおり、あまり抑揚がなくて低かった。
「あの、結婚の話がまとまったってやつ」
「ああ──」
 説明しようとしたが、言葉を発したのは哲の方が先だった。
「俺は99.9パーセントも持ってる、って思ってりゃいいのか、それとも、0.1パーセントは他人のものになっちまったと思えばいいのか、どっちが正解だ?」
 訊かれたことの意味を掴めずに混乱し、突風に傘が煽られそうになって意識が逸れる。
 一体何を訊ねられているのか、唐突すぎて頭が回らなかった。飛ばされかけた傘を掴み直しながらほとんど反射のように分からないと答えたら、哲はあっさり頷き「そうか」と平素と変わらない声で言った。
「そんならなるべく腹が立たねえ方にする」
 さっさと踵を返そうとした哲の腕を咄嗟に掴む。ついさっき頌英に同じことをされ振り払ったということが頭を過り、すぐに消えた。
「哲、一体何しに来たんだ」
「だから、訊きたいことがあったっつったろ。用は済んだからもう帰る」
「何──そのまま帰るな、風邪引く。来い」
 腕を引っ張って肩を掴み、悪態を吐きもがく哲を半ば抱え引き摺りながら外階段を上った。もうどうでもよくなったビニール傘を放り投げ、鍵を開けてドアを押し開けた。屋内に足を踏み入れたら床に点々と水滴が落ちた。まるで濡れそぼった犬のような錠前屋の低い唸り声を聞きながら無理矢理浴室まで連れて行く。
 掴んだ腕を放り出すように浴室に押し込み、シャワーの栓を捻る。勢いよく水が迸り、哲は掌で顔を拭って憤怒の滲む罵声を発した。
「どうせ濡れてんだから放っとけ、くそったれ!」
 哲の顔は冷えたせいで蒼白だった。まだ暖かくなりきっていないこの季節に濡れ鼠になれば冷え切って当然だ。
「同じ濡れるなら温まったほうがまだマシだろう。真っ青な顔してるんだから、大人しく入ってろ」
「いちいち指図すんな。むかつくんだよ、てめえのそういうところが」
「指図じゃない」
「指図じゃねえか」
「分かってるくせに絡むな!」
 思わず上げた怒鳴り声に、哲は白っぽく色が抜けた唇を引き結んだ。
 片手で覆い、仰向けた顔に水の筋が降りかかる。温まって来た水が湯気を上げ始めた。唇の端を、鼻梁を、手の甲を伝って流れ落ちる透明な川。焦点を失い溢れ出すままの言葉の流れに酷似したそれ。
 降りそそぐ湯に、靴にも水が染みていく。哲が後退ったら、水に浸したように濡れたスニーカーが、がぼりと不穏な音を立てた。
 手を伸ばして抱き寄せると、哲は唸り声を上げて秋野の脛を蹴っ飛ばした。
「さっきのはどういう意味だ」
「……ああ?」
 雨なのか、お湯なのか。哲の顔を流れる水がもはやなんなのかは分からない。さっきより凶暴な色を増した瞳を覗き込み、頬骨の上を指で辿る。嫌そうに顔をしかめた哲は逃げ出せないことに苛立ったのか、もう一度秋野を蹴りつけて動物のように唸った。
「パーセントがどうとかいう」
「どういう意味も何も、言ったままじゃねえかよ。何遍も面倒くせえな、ちゃんと聞いとけ」
「ちゃんと聞いてた。だけど意味が──」
「ああもうしつけえな!!」
 哲は癇癪を起したように苛立った声を上げた。
 ぐいと胸を押されて身体が離れる。哲は掌で顔を拭い、シャワーの湯から逃れるように身体をずらして秋野を睨みつけた。
「結婚すんだろ、お前の持ってる戸籍のひとつが!」
 違う、と言いかけたが口を挟む間もなく哲が語を継ぐ。
「てめえが毎日どっかの綺麗なお姉ちゃんとやりまくったって、アレだろ、てめえが言う雄の本能ってやつ。そんなの俺には関係ねえから勝手にすりゃいい。だけど誰かに名前をくれてやるのはむかつく」
 吐き捨てた哲の声はどんどん低くなっていった。
「たかが紙ぺら一枚の話だろ、戸籍なんてよ。しかもお前の名前でもねえって言うなら、お前って人間の一体何パーだって話だよ。そんなの大勢に影響ねえ、誰も気づきもしねえくらいの不足だって分かってる。それに俺がどうこう言うことじゃねえのも分かってんだよ! 俺は欲しくもねえのに、そんなもの」
 哲の眉間の皺は深く、憎悪が籠っているのではないかと錯覚するほど鋭く険しい双眸が真正面から睨みつけてくる。
「だけど、欲しくなくても俺のなのに」
 唐突にヨアニスの声が蘇った。
──哲が言った。お前は自分のものだって
 ヨアニスにしては酷い深読みか勘違いだと一蹴して、今まで思い出しもしなかった。
 噛み締められた煙草のフィルター。
 苛ついたときにフィルターを噛むのは、哲のではなく自分の癖だ。だから思い至らなかった。
 女をバラして捨てる、それは冗談ではないのだと告げた途端に激しく身を震わせた哲を思い出す。掌に溢れた生温い体液に、その言葉が哲の中の何かを刺激したのだと気づいてはいた。だが、それはもっと怒りに近い──単なる興奮でしかないのだと信じて疑っていなかった。罷り間違っても歓喜なんかであるはずがないと。
 目の端で小さな光点がちかちか光る。
 背骨の付け根が膨れ上がったように感じて鳥肌が立つ。せり上がるものを奥歯で無理矢理噛み潰し、秋野は素早く手を伸ばして硬い身体を抱き竦めた。
 たかが0.1パーセント、それを失うことにすら動揺するのか。それならどうしてそう言わない。お前が望めば何でもするのに。
 もう逃げないと言ったくせに。
 憤怒が渦を巻いて頭の芯が痺れ、揺れて、どんどん冷えていく。濡れたシャツの肩口に顔を押し付けられた哲の「はなせ」というくぐもった声が、胸骨の辺りを震わせる。
「離せ──秋野」
 甘さの欠片もない低い声に名前を呼ばれ、ぞわりと首筋の毛が逆立った。半分白く塗り潰された思考に赤い亀裂が走り、黒いものが滲み出る。
「嫌だね」
「離せっつってんだよ」
「嫌だ」
「秋野」
「喋るな。聞きたくない」
「お前──」
「うるさい」
 哲が物も言わずに秋野の肩に思い切り食いついた。
 シャツの上からでも皮膚が裂けるのではないかというくらい容赦ない力で歯が食い込む。それでも秋野は哲を拘束する手を離さなかった。
 言葉は何かを伝える手段だ。うまく行けば、より多くのものをもたらしもする。だが、果たして今それが必要か。
 それ以前に、この胸の内を正しく哲に伝えることができるのか。
 とめどなく降り注ぐ水。その流れのように溢れる言葉をより分けて、残った小さなかけらを集めるのは今でなくても構わない、そんな気がした。
 腕の中でもがくこの男を怒りに任せて滅茶苦茶にしてしまいたい。バラバラにした哲と一緒に溶けて流れてしまえたらそれで楽になれるのに。そんなくだらないことを思いながら、濡れた服を掴んで一層強くその身体を引き寄せる。
「黙ってろ。動くな。抱かれてろ。言っておくが、指図じゃない」
 噛みつく顎の力が弱まり、そして外れた。却ってひりつくような、焼けつくような痛みが強くなる。湯が染みるその場所に額を強く押し付けた哲は、まるでどこかが痛むかのように低く呻いた。
 水の跳ねる音だけが、狭い空間にこだまする。
 哲が何か呟いたが、水音に紛れて何と言ったのかは分からなかった。