仕入屋錠前屋76 99.9%の 8

 レイから頼んでいた書類を受け取った秋野は、他の用を済ませてようやく関口の葬儀屋に足を運んだ。
 外が曇っていて暗いせいか、事務所の中は蛍光灯が煌々と点いていて、屋外とは逆に昼間のような明るさだ。葬儀屋が暗いものだというのは間違ったイメージだろうが、それにしたって眩しいくらいだった。
「……アキ、これはお前が結婚するって話じゃないだろう」
 事務所のソファに浅く腰かけた関口は、そんな明るさとはまったくそぐわない表情だった。一週間前に会ったときとは打って変わって顔を顰め、秋野が渡した封筒から取り出した書類を睨みつける。特別迫力があるわけではないもののやはり抜けきらない過去の何かが若干滲んだその顔から、秋野はあえてゆっくりと目を逸らした。
「俺じゃないですけど、俺と違って本物ですよ」
 関口がテーブルの上に放り出した書類は、数名の経歴書だった。添付されている写真はそれぞれ数枚ずつ。どれも証明写真ではなく所謂隠し撮りされたものだ。
 あの後秋野はレイにも頼み込んで伝手を頼り、数日かけて頌英の結婚相手になりそうな男の候補を探していた。
 結婚相談所にでも登録すればいいのかもしれないが、頌英は外国籍だしまだ若い。おかしな男に食い物にされたら秋野だって寝覚めが悪いし、女衒みたいな真似をするつもりもない。
 病気で若くして妻を亡くしようやく前を向く気になった夫、仕事が忙しすぎて出会いがないエンジニア。探してきたのは秋野自身ではないから、彼らの人間性までは分からない。だが、レイはそういうところで悪意を発揮する人間ではないから、彼が探せる中では間違いなく条件のいい人間が揃っているはずだった。
 勿論、頌英が彼らを気に入るか、彼らが頌英を気に入るかなんて分からない。これが親切なのかも正直言ってかなり疑問だが、これ以上のことは思いつかなかった。
「大体、どこの馬の骨かも分からん奴らの──」
「やめてください。この中に、俺以上にどこの馬の骨か分からん奴なんていないのは関口さんもよく知ってるでしょう」
 この間出されたのと同じアルミの灰皿に灰を落としながら言うと、関口は口を噤んだ。
「身元はしっかりしてるはずです。それこそ、俺よりずっとね」
「──お前がそう言うんなら、それは間違いないんだろう」
 むっつりと押し黙っていた関口は、灰皿の中で崩れた白い灰に目を向けたまま言った。
「だけど、こいつら性格は? 変な趣味はないのか? 親御さんは」
「それは俺だって同じでしょう」
「お前はいい子だって、俺が知ってる」
「関口さん」
「俺はお前にも、あの子にも笑っていてほしいんだ!」
 関口は書類の上から掌でテーブルを強く叩いた。
「どうしてそう思うことがいけない! ただお前たちに幸せになって欲しいだけだ!」
 秋野は昔聞いた話を思い出した。それはごくありふれた、全国至るところで毎日起きているような交通事故だった。関口の妻が運転する車、後部座席には幼い姉弟。どこにでもある悲劇。
 失った家族の代わりに誰かの幸せを願うことが悪いことだなんてこれっぽっちも思わない。それでも、秋野は関口の息子ではないし頌英は娘ではない。
「ありがとうございます」
「……誰かいるのか」
「はい?」
「女がいるんだろう。どんな女か俺が見定めてやる。今度こそお前を裏切らないかどうか、俺が──」
 秋野は灰皿の底に煙草を押し付けて殊更丁寧に火を消した。最後に一瞬立ち上がった煙が絡まる絹糸のように見える。
 力なく書類の上で開かれた関口の指が微かに動いた。秋野が端を引っ張ると、関口の掌の下の書類は呆気なく抜けた。救い出された紙の束を揃え、テーブルの端に置く。
「俺も、誰にでも何でも知られたいわけじゃないんですよ」
「そんなことは分かってる! 俺は何も……ただ──すまん」
「あの子がかわいそうなのも、肩入れしたくなるのも理解できるつもりですよ、関口さん」
「……」
「でも、俺は頌英と結婚するつもりはない。例えそれが書類上の事実でしかなくてもです。もしもっとずっと前に同じ話があったら、もしかしたら俺の答えも違ったかもしれません。でも今はこれが俺にできる精一杯です」
 一番上に載った写真は、三十くらいの男が駅から出てくるところを撮影したものだった。確かこれが忙しすぎて出会いがないというエンジニアだ。すでに終電なのか、人がまばらな駅前を黙々と歩いている一人の男。彼の名前や人生を秋野は知らない。駅ですれ違っても分からない。
 もしかしたら哲ともそうやってすれ違っていたのかもしれない、と時折思う。
 もし、哲が依頼を受けようと思わなかったら。もし、秋野が他の鍵師に頼もうと思っていたら。もし同じようにあの仕事を終えていても、哲が秋野に興味を示すことがなかったら。
 もし、もし。
 もし、多香子が秋野を愛し続けてくれていたら。
 もし、父が母から逃げなかったら。
 仮定になんか意味はないと分かっていても、誰もが胸の内でそれを繰り返す。誰もそれを責めたりできないし、多分、無駄なだけの行為ではないとも思う。
「納得してくれなくてもいいです。俺だって、関口さんの気持ちを理解してるとか言った傍からそれでも受け入れないって言ってるんですから」
 関口がもう一度小さく「すまん」と呟いて、何かを堪えるように両手を握り締めて俯いた。

 商店街を抜けたあたりで雨が降り出した。天気予報では確か明日の朝から降ると言っていたが、雨雲の足が予測より速かったのかもしれない。
 薄暗いのは陽が沈みかけているからだけではなくて雨雲のせいだろう。墨色の雲が空を覆っていて、空が低くなったように感じる。激しく降り出す前の曇天というのは、気分を天候に左右されることのない秋野のような人間でもやはり気が滅入るものだ。
 食事のことが頭を過ぎったが、腹が減っているわけでもなかったし何かデリバリーでも頼めばいいと思い直す。頼めば来てくれるだろう知り合いの店を幾つか思い浮かべつつ、本格的に降り出す前に戻りたいなと思いながら空を見上げた。
 歩き出しかけ、哲に連絡を入れておくかと思い立って足を止めた。この間哲と話さなかったら、今回のことは再度断るだけで終わっていただろう。それが悪いとも今の方法が最善だとも思わないが、頌英の役に立つ可能性は少なくともゼロではなくなった。
 細かいことは後で説明すればいい。長々とメッセージを入力するのが面倒で「結婚の話、まとまった」とだけ打って送った。
 送信した後に自分のメッセージを見て結婚するみたいだなと思ったが、誤解されるにしても、別人名義の戸籍をひとつ譲ると思われるだけだ。そもそもあの無関心っぷりで、今更哲がこの話に興味津々になるとも思えなかった。
 返信がこないのはいつものことなので、既読になったかどうかも確かめずに歩き出した。一旦部屋の方に戻りかけ、まったく別件を思い出して踵を返す。仕事の関係で頼んで いたものを受け取らなければいけない。ますます怪しくなってきた空模様を伺いながら、秋野は足を速めて歩き出した。

 頭上に圧し掛かるような、煤煙を思わせる雲から降り出した雨はあっという間に勢いを増していた。
 出先でタクシーを使い、最寄り駅で降車して駅構内のコンビニでビニール傘を買った。外に出ると強い雨は土砂降りと言っていいくらいになっていて、車のライトを照り返す濡れたアスファルトが眩しかった。
 傘もささず、水を跳ね散らかしながら走っていく高校生らしき少年。傘からはみ出るバッグを気にして抱え直す若い女性。その向こうから、透明なビニール傘をさして歩いてくる頌英が見えた。
 タクシーのヘッドライトに照らされた秋野を見つけた彼女は決然とした足取りでこちらにやってくる。部屋に行ったが留守だったのでここで待っていたのだろうか。思わず嘆息したが、雨音で頌英には聞こえなかっただろう。もし聞こえたとしても、今の彼女が気にするとは思わなかったが。
「アキノさん!」
 確かに可愛らしい女性だ。顎が細い卵型の輪郭に、アジア人にしては白い肌。父親の面影もあるが、どちらかというと母親似なのかもしれない。形のいい眉、アーモンド形の目。関口の言うとおり、誰もが振り向くような美貌ではないが、十分に綺麗だと思った。
「わたし……やっぱり、どうしても──」
 日本語が出てこなかったのか、頌英は眉根を寄せて秋野を見つめ、英語に切り替えた。
「アキノさんに恋人がいるならこんなしつこくしたりしません……でも、恋人はいないって言いましたよね? だったら、助けてください! どうして」
 彼女のどこか幼稚な、自分勝手な訴えが雨音に途切れて聞こえる。図々しいともいえるその主張を、しかし秋野は笑えなかったし厭えなかった。
 この国は自分にどんな権利も与えてくれないのだという消せない思い。身の置き所がないような、拠って立つものがないような、心許ないその感覚を知っているからなのだと思う。この国が悪いわけではない。結局は、両親が悪いのだと分かっていても。
 「──どうして私じゃ駄目なの!?」
 路面を叩く雨音、足音、車のタイヤが道路を擦る音。誰かの話し声、傘に当たる水滴の音。雑多な音が切羽詰まった叫びを霞ませる。だが、例え静寂の中で聞いたとしても彼女の叫びは自分の心の底には届かないのだと秋野には分かっていた。
 共感はする。否定はしない。だけどその女は欲しくない。
 他人にはよく優しいと言われるが、本当のところ自分は薄情なのだとまた思う。
「恋人はいない。でも俺にとっては君よりずっと重要で、失くすわけにはいかない人がいる。その人にさえ渡していないものを君にはあげられない。その人には要らないって一蹴されることが分かっていてもね」
「……」
「関口さんに、君に役立ちそうな書類を渡した」
「わたし」
「本当の意味で結婚してくれるかもしれない人たちの名前や写真が入っている」
「──!」
 傷ついた顔をされたが、構わなかった。本音を言えば、彼女が傷つこうがどうしようが、どうでもいい。
 正直に言ったら彼女は泣いてしまうだろうか。その方がいいのだろうかとふと思ったが、さすがにそこまで、と思い直した。
「関口さんに連絡して。何度俺に訴えられても、これ以上何もしてあげられない」
 立ち竦む頌英の脇を擦り抜けながら水溜まりを避けた。
「ほんと、何回同じこと説明させんのかって話なのよ」
「店長がさあ」
「うちの子が口きいてくれなくて」
「嫁さんいないから、飲みに行かないか?」
「あの動画見た? やべえから見ろよ」
 耳に入っては流れていく会話の断片に半分意識を持って行かれながら、靴の先から跳ねる水滴をぼんやり眺めた。
 頌英と一緒になれば幸せになれる、と関口は言った。そうなのかもしれない。だが、幸せになりたいわけではない。
「待って……!」
 後ろから腕を掴まれた。
 細い指の感触に、瞬間的に取り繕うことを放棄した。
 剥き出しの何かが浮かんだ目で見下ろされた頌英が弾かれたように手を離した。身を翻し足早に遠ざかる頌英が何を見たのか分からなかったが、別に知りたいとも思わなかった。