仕入屋錠前屋76 99.9%の 10

 突然スイッチが入ったように動き出した秋野は、哲の身体を押しやると湯船の栓をして湯はりのボタンを押し「服のままでもいいから浸かれ」と素っ気なく言って出て行った。そう言う本人もずぶ濡れだったが、まるで濡れてなんかいないとでもいうように、普段どおりに、颯爽と。
 さすがに着衣のまま風呂に入る気はしない。哲は傾けると冗談のように水が溢れ出してくるスニーカーを脱ぎ捨て、濡れて身体に貼り付く衣類をやっとの思いで剥がし──途中で癇癪を起しそうになったが堪えた──湯船に入って腰を下ろした。
 とはいえ、そんな短時間で水が溜まるわけもないから、お湯は尻を温めるくらいの深さしかなかった。
 興奮したせいで血圧が上がったのか後頭部が重たいくせにふわふわし、頭痛がした。
 痛む頭で水道代が勿体ねえなとぼんやり考えながら、シャワーを出しっぱなしのまま浴槽に尻をつける。身体のほとんどを湯の外に出した間抜けな格好で、哲は額にかかる前髪を両手で乱暴にかき上げた。
 俺のものだ、と思う。
 あの通り魔に秋野が刺されたときに初めて思った。もっとも、そのときはそう思ったことにすら気づかなかったが。
 だが、それはそれだ。猪田にも秋野にも言ったが、たかが戸籍、役所に提出する紙ぺら一枚の話。秋野自身の名前ですらないそんなもの、常識的に考えてどうだっていいはずだ。
 それなのに、秋野の一部を誰かが所有するということにここまで反応する自分が滑稽で、そしてどうしようもなく腹立たしかった。
 確かにあの男の錠をこじ開け、すべてを見たいと望んでいる。それは随分前に自覚したが、それとこれとは同じなのだろうか。
 溜息を吐き、もうこれ以上考えるのは止めだと決めてぼんやりと流れていく湯を眺め、どうせだからと浴槽を出て髪と身体を丁寧に洗った。浴槽の半分くらいまで水位が上がったのでシャワーも止め、暫く浸かって温まってから風呂場を出た。
 脱衣所には秋野のものと思しきシャツとワークパンツ、それから何故か新品の下着のパックが置いてあったのでそれを身に着けて脱衣所を出た。
「なあ」
 裸足なのでラグの部分を踏むようにしてソファとベッドの方に向かう。秋野は長い脚を投げ出すだらしない格好でソファに座っていたが、哲が近づくと顔を上げた。
 秋野の髪は乾かしたと見えて普段と変わらなかった。さっきまでの濡れた服を黒いスリムパンツと黒いニットに替えたせいか、薄茶の目の色ばかりがやけに目立つ。
「濡れた服はどうすりゃいい──」
 浴室に置いておいていいのか、それとも近場にコインランドリーでもあるのか。
 口に出そうとしていたことが、その顔を見た瞬間何故かすべて吹っ飛んだ。何を言われたわけでもない。ただ、秋野の濃くて長い睫毛が瞳の上に影を落とすのを見ていただけ。
 過去数年に亘る付き合いの中でも数回見たことがあるかないか、仕入屋のまったく取り繕わない不機嫌面。酷く険しい目つきや眉間に刻まれた皺、引き結ばれた唇の硬い線を見ていただけだった。
 引き寄せられるようにゆっくりとソファに近づく。普段はいつも面白がるような表情を浮かべているのに、その顔は酷く厳しくそして冷淡に見えた。
 広げた脚の間に立って見下ろしたら、秋野は頭を支えていた手を外した。僅かに首が傾いて額に落ちかかった前髪が揺れる。睫毛と前髪が作り出した陰影が一瞬その瞳を覆い隠した。
「──……!!」
 気が付いたらソファの上で仰向けにされていた。
 どうやったのか、何をされたのかも分からない。首を右手一本で押さえられているだけなのに起き上がれず、哲は締めあげられて狭くなっている喉から唸り声を漏らした。普段なら唇を曲げて笑うだろう秋野は何を言うでもなく無表情に見下ろしてくる。
 喉を押さえる手を掴み、引き剥がそうとしてみたが動かすことは叶わなかった。秋野が身体を屈めてくる。ソファの座面についた秋野の膝が沈み込むのを腿のあたりで感じ取った。
 硬い歯がやわらかな顎下に沈み、哲は鋭く息を飲んだ。ふざけて甘噛みされるのとはまるで違って、食い込む歯の力に容赦がない。ついさっき自分も──場所は違うが──同じことをしたと気づいたが、気づいたからと言って離してもらえるわけでもなかった。
 他に物音がしない広い空間に自分自身の喘鳴だけが響く。何度も角度を変えながら噛まれているうち、痛みで目尻に涙が滲んできた。
 まるで虎が獲物を食うように圧し掛かられて齧られて、涙が出るほど腹が立つ。それなのに、逃れたいとも逃れられるとも思わないことにもう驚きはしなかった。
 往生際悪く秋野の手首を掴んでいた手を離し、自分に食いつく顎に指を這わせた。削げた頬の輪郭を通って後頭部の髪に両手を差し入れる。秋野が不意に顎の力を緩めて顔を上げ、間近から哲の目を覗き込んで来た。
「──秋野、お前は俺のだ」
 喉を掴む手の力が緩む。掠れて自分のものではないように響くか細い声が、冗談みたいな台詞を続けて吐いた。
「ほんの少しでも、誰かにやるのは、嫌だ──」
 涙が出た。苦痛で滲んだそれが溢れ頬を伝う。まるでさっきまで身体の上を流れていたお湯のように生温い涙が。
 いつかすべて失うなら、その時は仕方がないと諦めるつもりだった。それなのに、今、ひとかけらを誰かに持っていかれるのが嫌で堪らない。
 かわいくて輝くような笑顔の若い女。あの女こそバラして捨ててきてくれと一瞬でも思ってしまった自分が嫌で堪らなかった。
 人として間違っているとかそんなことはどうでもいい。どうせまともな性根なんか持っていない。そうではなくて、この男しか見えない自分が嫌だ。それだけだ。
 引き倒されたときと同じくらいあっという間に立ち上がらされて乱暴に首を掴まれた。そんなふうにいとも簡単に動かされるのは業腹で、殴りつけようと持ち上げた右手を素早く掴まれる。
 万力で挟まれたことなどないが、万力のようと表現するしかない馬鹿力で拘束された右手は僅かも動かせず、握った拳が宙に縫い留められたように錯覚した。
「──どうして最初に、俺に言わなかった」
 地を這うような声がしたと思ったら、突然足裏から消えた床の感触。後頭部に枕の感触。淡く青みがかったグレイの寝具の無機質な色味のせいで、一瞬現実感を見失う。
「最初に知る権利があるのは俺だろう」
 秋野の長い指に顔の骨ごと掴まれ、覗き込まれた。血色が透けているせいなのか瞳の色が普段より濃く見えて、ああ、こいつも腹を立てているのかと唐突に腑に落ちた。

 圧迫感に吐きそうになる。そうは言っても本当に吐いたことは嘗て一度もないのだが。
 哲は普段以上に喚き散らしながら抱かれた。そうでもしないと、また余計なことを口にしてしまいそうだったから。
 ついさっき身に着けたばかりの服をむしり取られる間も、荒っぽく──且つ慎重に──隅々まで暴かれる間も秋野を罵倒し続けた。
 秋野の息がうなじにかかる。
 身体の左側が下になっていて、左肩と、自分の胴体の下敷きになっている左腕が痛かった。
「──っ!」
 身じろぎしたら身体の中のものの角度が変わって声が漏れたが、構わず無理矢理右手を伸ばし、ベッドサイドのテーブルに置いてあった秋野の煙草を手に取った。
 パッケージを取り落としたが、弾みで飛び出した一本を銜え瘧に罹ったように震える指で火を点けて、ライターとパッケージを薙ぎ払うようにして床に放った。
 吸い込むのと同じリズムでゆっくりと打ち込まれ、軽い酩酊状態になる。
 灰が落ちそうだ、と思った瞬間に煙草を取り上げられた。文句を言う前に脚と腰を抱え上げられ向きを変えられたので、横向きに受け入れていた身体が突然秋野に正対した。引き摺るように中を移動する異物に向かって思わず吐き出した呪いの言葉に、秋野が微かに笑った気がした。
「──突っ込まれながら吸うなって何遍言わせる」
「……俺の勝手だろ。返せ」
 秋野が銜えていた煙草を取り返し、吸いつけた。間近に秋野の顔があるから顎を上げて煙を吐き出す。反らせた喉に秋野の舌が触れ、身体が揺れた。
「哲」
「うるせえな……」
「哲」
「何だよ!」
「俺は欠けてない、どこも。ひとつも」
「ああ──?」
 ゆっくりと上下する黒い睫毛。金色の斑紋。虹彩の薄い茶色はアルコールの色によく似ている。
「お前が聞こうとしないから」
「何だって……?」
「あの子にやるのは俺の一部じゃない。他の……俺の知らない、現実に存在して生活してる日本人で、あの子と結婚したいかもしれない男を紹介しただけだ」
「……」
「俺が、お前にも渡してないものを頌英にやったと思ったのか」
 下半身に血が集まって頭がぼんやりと霞みがかる。息と煙をまとめて吐きながら揺さぶられ、秋野の首筋に鼻先を擦りつけた。
「──別に」
「今更誤魔化そうとするんじゃないよ、馬鹿だね」
 哲から取り上げた煙草を吸いつけ、灰皿に放った秋野が低く笑う。喉元にまとわりつく煙。秋野の吐息。液体のように滲み込んでくる秋野の低い声。
 見えなければ何も分からない。見えなければいいのか。自分の腹の底も、腹の底に居座るろくでもないこの男の底も何もかも。
「なあ、哲」
「何だよ……」
「俺はお前のものだ。お前が要らない部分も全部──欲しくなくても、もう逃げるな」
 耳元で囁かれて身体中が勝手に潤む。耳元で秋野が喉の奥を鳴らして笑い、嬉しいんだよな? と呟いた。答えようと口を開けたら唐突に抜き差しを再開されて、堪えたはずの声がだらしなく垂れ流れた。
「ああ、あ……あぁ──」
 誰が喜ばせてやるかくそったれと胸の内で罵って、目の前にある首筋に思い切り歯を立てる。吐き気を伴う快感に食い縛った歯が緩み、堪えきれずに声が漏れた。男に突っ込まれてよがるなんて噴飯ものだと思うのに、気が付いたら腰を捩って喘いでいる。まったく己の身体ひとつままならなくて嫌になる。
 緊張し収縮する身体をこじ開けるように突き立てられ、秋野に串刺しにされる屈辱と喜悦がごちゃ混ぜになって甘ったるい呻きが漏れた。
「──哲」
 唇に吐息が触れ、舌が触れる。ゆっくりと顎を開くと秋野の声と体温が口腔を満たし、何もかも飲み込もうと哲は無意識に喉を反らした。
 上からも下からも咀嚼するような音が響く。気持ち良すぎて眩暈がした。
 ああ、このまま食われたい。何もかも溶けて蕩けて流れて消えてしまえばいい。
 意識が飛びかけ、脈絡がないことを次々と考える。人体の六割は水分なのだと聞いたことがある。六割の水と残りのその他諸々。俺の四割。そのうちの0.1パーセントは多分秋野でできている。俺をバラして欠片も残さず食ってくれ。そうしたら、それ以外の99.9パーセントも多分お前になるだろう。

 

 身じろぎしたら、自分の吐き出したものが腹の上で流れて脇に垂れた。
 これもまた水分か。
「……足りねえ──もっと」
 一体何がだ。譫言のように口にしたが、自分でもよく分からなかった。快感が欲しいわけじゃない。そんなことはどうでもいい。
 ああそうか、水分か。注がれたものはまだ腹の中、だとしたら俺は少しだけ薄くなり、こいつの比率が増えたのか。
 秋野の膝の上に引き起こされ真下から奥を突き上げられて、脳天まで貫かれたような感覚に背を撓らせた。
 頭の中まで掻き回されているようだった。硬いものでぐずぐずに崩されて、まるで溶けて蕩けて流れてしまえというように。
 抜かれる度隙間から漏れ出すものが腿を伝ってゆっくり流れ落ちていく。それすら自分のものだと思い、指を伸ばして掬ったそれを深い意味もなく口に入れた。
 一際強く突かれて視界が歪む。哲はバラバラになりそうな自分をどうにか保ち、目を閉じ秋野の名前を呼んだ。