仕入屋錠前屋76 99.9%の 7

 電話越しの哲の声は普段どおりの愛想のなさだったが、後ろから誰かの声がした。
 あまりよく聞き取れないが「行け」とか「書類」とかいう単語が聞こえてくる。どうやら以前会ったことがある高校の同級生が一緒にいるようだった。
 夕方この間亡くなった漆の娘が来ていたのだが、彼女を置いてほんの短時間外出した間に立ち寄っていった男がいたらしい。彼女によると男は名乗らなかったようだが、風体を聞いて哲だと分かった。そもそもここに秋野が住んでいることを知っているのはほんの数人しかいない。
 何か用事があったようだ、と聞いていたので電話をかけた。これから寄れと言ったら最初はああだこうだ言っていたが、友人に横から色々言われて面倒になったのか、最後には不機嫌そうな唸り声をひとつ残して電話が切れた。
 多分、不本意ではあるが用があって仕方ないからこの後寄るという意味だろう。秋野も動物の言葉が分かるわけではないので──錠前屋は半分動物みたいなものだ──定かではなかったが。

ドアを蹴飛ばされるのは分かっていたので先んじて開けると、足を振り上げかけた錠前屋はものすごく面白くなさそうな顔をした。
「何開けてんだよ」
「開けないと蹴るだろう。入れよ」
「何で分かんだ、来たって」
「足音がした。ついでにどうして蹴るのが分かったかって言うといつも蹴るからだよ、馬鹿だね。いいから入れ」
 哲はまたぐるぐる唸り、ドアを押さえる秋野を避けるようにして大股で室内に進んだ。まるで犬だ。
「夕方来たんだってな」
「ああ。これ川端のおっさんから預かった」
 封筒を受け取って中身を取り出したら先日頼んだ書類だった。さっと目を通し、後できちんと読むことにして封筒にしまってベッドに放り、そのままそこに腰を下ろした。哲はほろ酔いのせいか何となく眠そうな顔をして、上着のポケットに手を突っ込んで立っていた。
「お前が来たときはちょっと外に出ててな」
「客用の茶くらい買って帰れよ、お前。女一人で待たせて」
 哲は面倒くさそうに煙草を取り出した。漆の娘が何を言ったかは本人から聞いていた。説明しようと口を開いた秋野を遮るように哲は続けた。
「つーか、あのお姉ちゃんと結婚すんだって?」
「あのな」
「弁解しなくたって分かってるっつの。どうせ永住権とか何か、そっちの関係だろうが」
 眉を寄せて銜えた煙草に火を点けた哲は、これまた億劫だという顔で煙を吐いた。誰だって少し考えれば分かることだ。元々誤解をされるほどの話でもない。それでもどこか安堵して頷いた。
「ああ」
「見た目は日本人っつっても分かんねえけど、イントネーションおかしかったしな」
「漆頌英って言って、知り合いの娘だ」
「シツショウエイ? ショウエイが名前?」
「そうだ」
「字が難しそう。絶対読めねえな」
「そうでもないよ」
 明らかに興味なさげな顔をしている哲が嫉妬をするはずもないし、腹を立てるはずもない。そんなことは秋野自身誰よりもよく知っているが、こちらも数ヶ月前に愛情だ何だと言ったばかりだ。口から出任せだったと思われたら癪だから、要らぬ弁解だなと思いながらも続けて言った。
「この間父親が亡くなって、知り合いから頼まれて……断ったんだが、どうもその知り合いが独断で彼女に言っちまったらしい。いきなり本人から連絡が来て礼を言われたからさすがに慌てたよ」
 相槌はなく、哲は黙って煙草の灰を払った。
「出先で話そうかとも思ったんだが、その辺でする話でもないしな。彼女が子供の頃から知ってるから、顔見てちゃんと説明しようと思って呼んだ。お前が帰った後に話したから、会ったときはまだそういうふうに思ってたんだろう」
「ああ、そう」
 つまらなさそうに頷く哲の横顔はいつもどおりだ。落胆など一切ないと言えば嘘になるのだろうが、そもそも期待もしていないし、そんな目的があったわけでもない。秋野も煙草を銜え、ライターを探したが見当たらない。腰を上げかけたら哲が寄って来て、ライターを投げて寄越した。
「で、納得はしたのか。あの子」
「いや……」
 秋野は重たい溜息を吐いて前髪を掻き上げた。
 泣きながら助けてほしいと訴える頌英の顔が蘇った。まったく、罪なことをしてくれると関口を心底恨めしく思う。
 秋野にとって頌英は知り合いの子供でしかないが、彼女にとって秋野は憧れのお兄さんだったらしい。
 勿論幼い女の子の他愛もない憧れで、彼女自身そんなことはきれいさっぱり忘れていたに違いない。それでも、両親を突然失って藁にも縋りたいときだ。美化された思い出のお兄さんと結婚できるとなれば心が動くだろう。何と言っても彼女は二十歳そこそこの若さなのだ。
 それが、引き受けてしまえ、そうやって幸せになってしまえという関口の親切心でもあるのも分かっていた。
 見え透いたやり方もまた、意図的なものだ。だが、数年前ならともかく──その頃だって話を受けた可能性は限りなくゼロに近いが──今は正直面倒なだけ、言ってしまえば要らぬお世話どころか引っ掻き回さないでくれという気持ちだった。
 目の前に立つ哲を見上げて内心で舌打ちする。いくら哲は何とも思っていないにしても、ようやく色々落ち着いてきたこの時期に勘弁してほしいと心底煩わしく思う。
「……まあ、彼女が納得しようがしまいが結果は一緒だけどな。できれば理解してほしいとは思うが」
 ふうん、と興味なさそうな声を出した後、哲はちょっと首を傾げて秋野を見た。
「お前はどうなんだよ」
「何が?」
「だってよ、結構可愛かったし。残念なんじゃねえの、ちょっとは」
 そう訊ねられて秋野は思い切り眉を顰めた。
「可愛いって言ったって、俺にしてみたら利香が可愛いのと大差ないよ。そうじゃなくても元々あんな若い子に興味はないし、別に残念じゃない」
「けどよ、結婚ったって書類上の話じゃねえか。どうせお前が各種取り揃えて税金払ってる別人名義だろ」
「まあそれはそうだが……何だよ、そのほうがいいと思うのか? 人助けしろって?」
「いや、別に」
 哲は普段どおりの愛想のなさで言うと、煙草を灰皿に放り込んだ。
「好きにすればいいんじゃねえの。人助けしようがしまいがお前の勝手だろ。俺が知るかよ」
 帰る、と吐き捨てるように言って、哲は来た時と同じように大股で部屋を横切るとさっさといなくなった。立ち上がって後を追ったが、急いだわけではない。扉が閉まる音がして、階段を下りていく微かな足音が遠くなった。
 ドアを開けて見下ろすと、道路に出ていく錠前屋の後姿がすぐに物陰に隠れて見えなくなった。
 部屋に戻り、ベッドサイドの灰皿に哲が残した吸い殻をぼんやり眺める。フィルターにへこみがあって、あいつはこんなところまで齧るのかと思いながら、半分上の空で灰皿を手に取った。
 哲の言うとおり、単なる名前のひとつと思えば、嫌も何もないかもしれない。
 真面目にメンテナンスしている戸籍はいくつかあるが、どれも本籍は秋野と縁のない土地で、それぞれの名前にも関わりはない。パスポートや免許証を作るのに使っている名前もあるが、そういうものを除外してもまだ頌英のために使える名前はいくつか残る。
 正直そこまでしてやる義理はないのだ。かつてほんの短い時間、秋野の人生に登場した知り合いのそのまた子供というだけの人物。
 しかし、まだ少女みたいに滑らかな頬を濡らし、必死で不安を訴えた彼女を突き放して気が引けたのも事実ではあった。
 そうは言っても、身分だけ与えてあとは一人で生きていけと放り出すのが果たして本人のためになるのかどうか。まだ長い煙草を灰皿の底で乱暴に揉み消して、秋野は気が進まないながらも腰を上げた。