仕入屋錠前屋76 99.9%の 6

「待ったか、悪ぃな」
 小上がりに上がって来た哲は、猪田の向かいに腰を下ろして「先に頼んで食ってりゃよかったのに」と言いながら煙草のパッケージを取り出した。何かの書類なのか、持っていた茶封筒をテーブルの端に置く。
「俺も来たばっかりだから。呼んでいい?」
「ああ」
 哲が煙草を銜えて火を点け、上着を脱ぎながら煙を吐く。猪田は短くなった煙草を灰皿に捨てて店員の呼び出しボタンを押した。割合大きな電子音が店の中に響き、店員が元気よく応える声が聞こえてきた。バイト学生か何かだろうか。居酒屋だから高校生ってことはないか──なんて考えたら、昔のことを思い出した。
 哲は高校の一年先輩だが、出席日数が足りずに留年して猪田の同級生になった。一緒に学生生活を送ったのは一年だけだが、その間は大体哲と過ごしたと言っていい。
 ヤクザ以上におっかない先輩として他学年にも名を轟かせていた佐崎先輩は、実際にはちっとも怖くなかった。というか、少なくとも猪田たち同級生の前ではどこまでも真っ当な生徒として振舞っていた。
 例えそれが哲の本質ではなかったとしても、だからと言って遠ざけられていたとは思わない。もっとも、あの当時そんなことを考えていたわけではないが。
 誰だって剥き出しの自分を他人に見せて回るわけではないし、必要もない。見境なく押し付けられるほうが迷惑なことだってあるのだ。哲は、あの頃からそういう部分は大人だった。
 猪田は大学を出て就職し、転勤になったこともあって三年くらいは哲とも疎遠だった。だが、こちらに戻ってからはまた以前のように気安い付き合い──と、猪田は勝手に思っている──が復活していた。
 その間に、あの頃には見えなかった哲の隠された部分を見る機会も何度かあった。それが決して、哲自身が見せたいと望んだものではないにせよ。
 おっかない佐崎先輩の面目躍如な喧嘩も目の当たりにした。それから、恋愛ではないにしても自分にとって大きすぎ、特別すぎる存在を扱いかねて困惑する姿も。
 店員に哲のビールと食べ物を頼み、仕事の進め方で迷っていることについて少し話した。哲は所謂サラリーマンであったことはないのだが、仕事のことを相談したら的確な答えが返ってくることが多かった。お互いの業界について細かいことは分からなくても社会の常識や人間関係についてはどこもそう変わらない。
「そういえばさ」
 二杯目に地ビールを頼んだ猪田は、グラスの中の濃い琥珀色の液体を見てなんとなく口に出した。
「秋野さんは元気?」
「……」
 哲があからさまに嫌そうな顔を向けて寄越すから吹き出しそうになった。これが照れ隠しの類ではないのは、長い付き合いだからよく知っている。本当に勘弁してくれと思っているのだろう。
「元気なんじゃねえの」
「何でそんな嫌な顔すんだよ」
「そりゃお前、どいつもこいつも人の顔見りゃあの野郎は元気かって聞きやがって。そんなに知りたきゃ本人に訊けっての」
 ぶつくさ言って、哲は銜えていた煙草の灰を乱暴に払った。
「仕方ないんじゃねえ?」
「仕方なくねえし」
 返ってきた声がひどく刺々しくて驚いた。思わず箸を止めて哲を見ると、しまった、とでも言いそうな表情が一瞬その顔を過ってすぐに消える。
「何だよ、なんかあったのか」
 多分、何でもねえよ、と言おうとしたのだろう。哲は口を開きかけ、猪田が引き下がらなさそうだと思ったのか小さく溜息を吐いて口を開いた。
「──ここ来る前、用があって寄ったらなんか可愛い感じの子がいて」
「秋野さんの自宅に?」
 なんとなくタワーマンションにでも住んでいそうだなと思いながら訊ねる。哲は煙草を銜えたまま億劫そうに頷いた。
「あの野郎とケッコンすんだって、嬉しそうに言ってた。婚約者なんだとさ」
「……それって、え?」
「何か、永住権とかそういう関係の──偽装結婚? そういうんじゃねえかと思う。ただ、その女の子がどう思ってんのかまでは知らねえけど」
 言いたいことは色々あったがうまくまとまらなくて、猪田は哲と自分の間で揺らめいている紫煙をぼんやり眺めた。
 哲が彼──秋野という名前だと聞いている──と関係を持っているのは知っている。ただ、それが感情面ではどういうものなのか猪田には未だにはっきり分からない。多分哲もよく分かっていないか、そうでなければ分かりたくないのだと思えた。
 恋愛とは違う、と本人は言う。哲はそんなことで嘘を吐くタイプでも意地を張るタイプでもないから、少なくとも本人の認識ではそうなのだ。だから猪田も単純にそうかと納得していた。ほんの数ヶ月前、手を怪我した哲と会うまでは。
 繁華街の交差点で通り魔事件があって騒いでいた頃だから、まだ残暑が残る頃だっただろうか。仕事帰りにふと思い立って哲に電話をかけたら近くにいるというから飲みに誘った。珍しく躊躇うような間があったが、結局断らなかった哲と、今日のように居酒屋で待ち合わせた。
 怪我をしたボクサーみたいに右手に包帯を巻いていたのも驚いたが、それ以上に顔色の悪さに驚いた。哲は頑丈な質なのか、高校時代から風邪を引いた姿すらほとんど見たことがなかったからだ。
 いくら頑丈な哲でも人間だからたまにはそういうことはあったけれど、あの時のようにやつれた顔は見たことがなかった。
 どこか悪いのかと訊いても別に、としか言わない。怪我のこともあって心配だったが、子供ではないのだからしつこくするのもどうかと思って店に入った。
 だが、哲は一時間もしないうちに真っ青になってふらりと立ち上がると便所に消えた。そして多分、その一時間のうちに胃に入れたものをすべて吐いて戻ってきた。
「……哲」
「ああ?」
「お前さ、あの時」
「あの時?」
 哲は疲れてちょっと体調が悪いだけだと言うばかりだった。何かあったのかとしつこく問い質したら根負けしたのか、低い声で、あいつとはもう会わないことにしたとだけ言った。
 あいつというのが誰かは分かったが、事情はまるで分からない。それ以上は何を訊いても答えないから結局諦め、猪田だけが食い、哲は青い顔をしながらも酒は飲んでいつもと変わらずくだらない話をして別れた。それからどのくらい後だったか、暫く経ってから電話がきてあの時は悪かったと謝られた。
「俺に電話してきて謝ってきたとき」
「──猪田」
 哲は酷く嫌そうに眉を寄せたが構わず続けた。
「言ったよな、逃げ切れなくて結局元通りだって」
「……」
「で、俺が逃げたいのかって聞いたら、お前は、ほんとは違うって言った」
「覚えてねえよ」
 明らかに嘘なのは顔を見れば分かる。そう思われることが分かって言っているのだということも。
「詳しいことは分かんねえけど、物食えなくなってたのも秋野さんと何かあってもう会わないって思ってたからだよな。哲が納得する収まり方だったのかまでは知らねえけど、でも今普通なのは少なくともあの人と会えなくはなってないからってことだよな」
 灰皿の縁で煙草の灰を払う。あの時の憔悴した顔とは違う、いつもと同じ哲の顔。高校時代猪田に見せていた穏やかな顔もまた哲の顔のひとつだろう。友人として見せる当たり前の同年代の顔も、決して作られた哲ではない。だが、多分あの時垣間見た哲は、猪田が見た中でもっとも哲の本質に近かったのだと思う。
「この間、弁当もらったときに思ったんだよ。哲の扉がちょっと開いたーって」
「──何だそりゃ」
 哲は銜えた煙草から立ち上る煙を透かして猪田を見た。
「今は違うけどあの時は照れてたろ」
「はあ? 何言ってんだ?」
「いや、照れてたよな?」
「照れてねえって」
 しらばっくれているわけではない。哲は至極真面目に言って、眉間の皺を深くした。
「照れてました」
「猪田、お前な」
「哲が平気ならいいよ」
 煙草を揉み消し、箸を取って、猪田は刺し盛りから海老の頭をつまんだ。ぶらさがった淡いピンクの海老の身体が所在なさげにぶらぶら揺れる。
「俺は別に秋野さんが書類上既婚者になっても関係ないし」
「俺にも関係ねえ」
「ふうん?」
「だから何遍も言ってっけど」
「愛とか恋じゃないんだろ? ちゃんと聞いてるし、大雑把には分かってるつもりだよ」
 甘海老を醤油に浸すと、あっという間に淡いピンクから醤油の色に染まった。
「哲はいっつも怖いくらい自分を突き放して見てて、自己分析がきっちりできてる。なんか、もしかして逆になんかが足りてないのかもって思うこともあるくらいに。だから哲がそう言うんならほんとにそうなんだと思うけど」
「……何でか分かんねえんだよ」
「何が?」
「俺はあいつに惚れてるわけでもねえし、欲しくて手に入れたわけでもねえ。あいつは俺のだとは思う。けど、それは現実的な何かの話じゃねえし──」
 哲は歯軋りの音が聞こえそうなくらい顎を強張らせ、押し出すようにそう言った。
「だけど名義だけでも誰かと結婚してるってことになったら──それって誰かと共有するってことなのかと思ったら──むかついてよ」
 あっちは俺に好きにすりゃいいっつってんのに、と続けて呟き、哲は天井に煙を吹き上げた。口に出すのが辛かったのか、その顔は酷く不機嫌そうだった。
「そうやって言えばいいんじゃねえの、秋野さんに」
「何を」
「むかつくって」
「言ったからってどうなるもんでもねえだろ」
「何でだよ。そんなことないだろ」
「欲しくねえのにか?」
 既に消えてしまった天井の煙を見ながら、哲は低いがしっかりした声で続けた。
「そういう……うまく言えねえけど、あの野郎の戸籍がどうとか、そういうものが欲しいわけじゃない。やるって言われたっていらねえよ。だったら別に誰かにやったって構わねえ、あいつの勝手なんだし」
「うん」
「だけど頭の隅っこで」
 哲はまるで親の仇の顔が浮かんででもいるかのように天井を睨みつけ、また煙草を吸いつけて煙を吐いた。
「死ね馬鹿、と思った」
 その子にじゃねえぞ、と哲は呟き、酷く年寄りくさい陰気な溜息を吐いた。
「何勝手に俺のもんをどっかの女にくれてやるとか言ってやがんだって……俺の言ってることのほうがおかしいな」
「おかしくはないと思う」
 おかしいどころか、至極真っ当な反応ではないのか。
 そう口にしかけたが、堪えて飲み込んだ。そう言われたところで哲は嫌な気分になるだけなのだろうし、結局他人の考えていることを正しく推し量ることなど不可能だ。
 哲自身が言うとおり、もしも女性と同じようにあの人に守られ愛されることを望むなら、決して望んで手に入れたわけではないものを握り締め放り出せずに呻吟するなんてことはないのだろう。
 人の心というのは不可解だ。猪田からしてみれば、さっさとくっついてしまえばいいだけじゃないかと思うが、そう簡単なことではないらしい。
 それが意地や見栄からくるものなら、そんなものは捨ててしまえと忠告もできる。しかしそうではないのは明らかで、だったら尚更、黙って見ている以外にできることなどないと思った。
「マグロの竜田揚げ食いたいなー。哲も食う?」
 メニューを引き寄せて言ったら、哲は煙を吐きながら目だけ動かして猪田を見た。
「……ああ」
 哲が答える前に呼び出しボタンを強く押す。微かに掠れた低い声にかぶせるように、元気よく返事をする店員の声が明るく響いた。