仕入屋錠前屋76 99.9%の 5

 別に何をされたわけでもないのに這う這うの体で川端の事務所を出た哲は、とりあえず最寄りのコンビニに入って煙草を買い足した。外の灰皿の脇に突っ立って、肩を丸めながら一本銜えて火を点ける。
 煙草の入ったビニール袋に塩昆布を突っ込み、煙を吐きながら灰皿にいくつも空いた丸い穴をぼんやり眺めた。
 これから会う猪田にも、川端にも玉井さんにもあんな話はしたくない。結局は、忘れていたいのだ。
 秋野の態度は刺される前も今も変わらないからそういう意味では色々杞憂だったのだが、関係が何ひとつ変わらなかったわけではない。いくら拒否することをやめて丸ごと飲み込むしかないと腹を決めたって、前と同じでいられるわけでもなかった。
 もうあの男を遠ざけようとも自ら離れようとも思わないけれど、縛りたいとも縛られたいとも思わない。それなのにがんじがらめになりそうな恐怖に時々身が竦む。
 その先に待っているのが幸福だとは思えない。不幸になるとか悲劇が起きるとかそういうことが言いたいわけでは別になく、ただ、当たり前に幸せになれるような関係だとは思えないだけだ。
 秋野の大事な人間はこぞって哲の退路を断とうとする。秋野を気遣うゆえなのは理解できるが、だったらもっとまともな幸せを願ってやればいいのに、と毎度思う。それが俺でいいのかお前らちょっとおかしいんじゃないかと叫びたくなることが多々あった。
「あー、くそ」
 誰にともなく悪態を吐き、哲は灰皿の穴に吸殻を押し込んだ。

 秋野の住む建物は駅の裏側にある。工場を店舗に改装中だったのが色々あって頓挫した物件で、外観同様中身も一般家屋とは程遠い。
 空間の広さや外観も勿論だが住んでいる人間が住居に執着しない質だから、延べ床面積に対して物が置いてある面積が非常に少ない。
 それに、住宅向けの地域ではないので夕方以降は人通りがあまりなかった。
 哲のアパートがあるあたりは夜の商売の住人が多く、深夜なんかは仕事中の奴らばかりだから誰もいない。だが、この辺の静けさはそれとはまた違い、住宅がないから住人がおらず、そのせいで人の気配自体が希薄という感じだった。
 女の一人歩きではないから危険も何もないが、そもそも害を及ぼされる以前に人っ子一人いない。晴れていたせいでほとんど暗くなった空に雲がよく見える。
 見える範囲に誰もいないのをいいことに、哲は煙草を銜えてのんびり歩いた。猪田との約束まではまだ少しだけ時間があるし、書類を届けるだけなら、仕入屋本人に会わずとも郵便受けに放り込めばいい。
 そこまで考えあの建物に郵便受けがあっただろうかと思ったが、なければないでドアを開ければいいだけだと思い直した。
 煙草を携帯灰皿に突っ込み、尻のポケットに押し込みながら秋野の住む建物に目を向ける。元々工場なので窓は少なく、道路から見える部分にはドア以外の開口部がなかった。残りの三面には窓があるが、どれも採光のために高いところにある。
 そんなわけで哲のいるところから明かりは見えず、住人がいるのかどうかは分からなかった。
 いちいち確かめるのも面倒で直接裏にある中二階への階段の方に回りかけたものの、一階の扉が開いたのに気がついて哲はそちらへ足を向けた。しかし、あの野郎にしては随分開閉がゆっくりだなと思いながら近寄ったら、やはり扉を開けようとしているのは秋野本人ではなかった。
 重たい扉に苦戦していたのは、若い女だった。ここに限らず秋野の部屋で女と遭遇したのは初めてだったので少し驚き、そういえばこの間と状況が逆だと思ったら笑いそうになった。
 最近は目にする機会がないが、女連れの秋野は特別目新しくもない。しかし、こういうタイプは初めてで興味深かった。
 哲が外側から手を貸して開けてやると、女は踏ん張っていた脚から力を抜き、ほっとした顔を見せた。
「ありがとうございます!」
 哲から見ても、かなり若い。多分二十歳かそこらだろう。秋野の好みは年齢も含め本人と釣り合いが取れる知的な長身美人だ。多香子は少し違うタイプだが、どちらにしても目の前の女のような、やたら若くて可愛らしい感じではなかった。
「こんにちは」
 続けて頭を下げた女は邪気のない笑顔を見せた。イントネーションが少しおかしいから、日本人ではないのだろう。アジア系なのは間違いないが、どこの国の人間かは見た目だけでは分からない。
 アジア系の女という特徴から、ついこの間陶芸家の家で保護した女を思い出した。あの女はまるで笑顔を見せなかったが、目の前の女は屈託なく笑っている。
「あー、どうも……」
 哲は大きな目でじっと見てくる女に向かって、「秋野さんは?」と言ってみた。仕入屋に「さん」付けなんてすると口が痒いが、仕方がない。
「アキノさんのお友達ですか」
 まさにきらきらと目を輝かせて問われたから、思い切り首を横に振った。見知らぬ若い女にでも、あのろくでもない男と仲良しだとは思われたくない。
「いや、違います」
 哲の即答にも、彼女の笑顔は揺るがなかった。
「ええと、お友達は違いますか」
「友達じゃなくて──分かるかな、知り合いです」
 女は友達と知り合いのニュアンスの違いがいまいち分からなかったらしく首を傾げたが、似たようなもんだと思ったのかそれとも結局理解できなかったのか、それについては何も言わなかった。
「アキノさんは私のお茶を買いに行きましたから、すぐに帰ってきます。私も今、見に来ました」
 確かにここには客に出す茶なんて置いていないだろう。それにしても、女を呼んでおいて茶を買いに出るというのも秋野らしくない行動だ。女を連れ込むという段になってそんなところで迂闊さを見せる男ではない。
 そもそも自分の部屋に女一人残して出るというのも何となく不可解だった。だとしたら客は客でも色っぽい客ではないのか──。
 ぼんやり考えていたら、女に「入りませんか?」と声をかけられた。
「ああ、ええと、急ぐ用事じゃないので今度にします」
 川端に頼まれた書類を渡すことはできなくなるが、見知らぬ女に渡すよりは自分が持っているほうがマシだろう。
「そうですか? お友達なら待っていてもいいと思います」
「いや、邪魔したくないので。あ、それでそちらは?」
 哲が訊くと、女は嬉しそうに笑って言った。
「私はアキノさんのコンヤクシャです」
「婚約者?」
 聞き間違いかと思ったが、女は満面の笑みで続けた。
「はい、コンヤクシャ。ケッコンします。アキノさんと」
「……ああ、そう? それはおめでとうございます」
 何だか分からないが頭を下げると、女も一緒になって頭を下げ、それじゃあお邪魔しましたと言って手を振る女に手を振り返してその場を去った。
 秋野の関係者だったらあいつが結婚するなんて! とか言って泣きながら立ち去るべきシーンだと言うかもしれない。しかし、どう考えても偽装結婚か女の勘違いかどちらかだろう。日本人ではないようだから、前者の疑いが濃厚だ。
 哲は暫し立ち止まって一度背後を振り返り、そしてまた歩き出した。