仕入屋錠前屋76 99.9%の 4

「こんにちはー」
 事務所のドアを開けながら挨拶したが、普段ならそこに座っているはずの仏頂面の受付嬢──受付婆とも言う──の玉井さんは姿が見えなかった。
 トイレにでも行っているのかと思いながら川端の席がある方に向かい、哲は思わず入り口で立ち止まった。
 玉井さんは川端の間近に立っていた。
 川端は椅子の背凭れに身体を預け、口を開けて居眠りをしているらしい。玉井さんはその顔を覗き込むように川端に覆い被さっている。
 これはあれだろうか、と哲はその場に突っ立って暫し沈思黙考した。
 玉井さんは業務上、川端の虫歯の数も把握する必要があるのだろうか。それとも、実は川端に惚れていて、これは所謂寝込みを襲っているというやつか。だとしたら、自分と仕入屋の諸々と同じくらいぞっとしない。
 悶々としていたら突然玉井さんが振り向いた。何となく覗きをしていたような後ろめたい気分になりつつ、哲は一応頭を下げた。
「どうも」
 玉井さんは頷き、のしのしとこちらに向かって来た。川端は相変わらず天井を向いて夢の中だ。
「……何してたんですか?」
 一応訊ねたら、玉井さんはじろりと哲を見て、「鼻毛」とだけ言うと席に戻った。詳細は分からないが、どうやらボスの鼻毛チェックをしていたようだ。
 夕方だが夜這いではなかったことに安堵し、ついでに先日秋野にされたことを一気に思い出して不機嫌になりながら、哲は川端のデスクの前に立った。
「おっさん」
 呼んでみたが、川端は規則正しい寝息を立てている。よく見たら、右の鼻の穴から毛が一本飛び出しかけていた。玉井さんの懸案はこいつか、と思いながら再度声をかけた。
「おっさーん」
 呼びながら軽くスチールデスクを蹴っ飛ばしてみたら、川端はむおおとか何とか、変な声を出しながら目を開けた。
「何だ、哲か。どうした」
「おっさん、仕事中なんじゃねえの? まだ夕方だろ。幼児かよ、寝てんなよ」
「昼間寝るから昼寝って言うんだ。寝始めたときはまだ昼間だった」
 訳の分からないことを言いながら、川端は欠伸をした。
「お前こそどうした。家賃はこの間持ってきたろう」
「なんか湯沸かし器の調子悪ぃんだよ」
 昨晩のことだ。シャワーを浴びていたら突然給湯器がピーピー言い出した。結局電源を入れ直したら使えたのだが、その後、さっき部屋を出てくるまでの間に何度も同じ症状が出た。
「故障っぽいから、適当に業者寄越してくんねえ?」
「おお、そうか。わかった」
 川端は仰け反っていた身体をようやく真っ直ぐに戻し、デスクの引き出しからボールペンを取り出した。机の上に散らばっている付箋のブロックを引き寄せる。
「都合のいい日はいつだ?」
「ああ? 別に立ち合い要らねえだろ。鍵かけねえから勝手に入ってっつっといて」
「お前なあ」
 川端は溜息を吐いて、ボールペンを持っていない方の手で顎を撫でた。
「盗られるもんなんか何もねえし、そもそも誰も入ってこねえよ、あんなボロアパート」
「そりゃあそうかもしれんがなあ」
 深い溜息を吐きながら付箋に何か書きつけた川端は、剥がした紙片を電話の上にぺたりと貼り付けて哲を見上げた。
「それだけか? 電話で済むのに」
「そうだけどよ。どうせ高校ん時の友達と近くで飲む約束してっから、ついで」
「おお、そうかそうか、俺の顔を見たかったのか」
「んー、まあなあ。知らない間に動脈が詰まってぽっくり逝ってたら俺も困るし」
「まったくなあ。それじゃあ茶くらい飲んでいけ。あっ、玉井さーん、この間のアレあったろう、あいつにもらったアレのアレ……」
 あいつにもらったアレのアレって一体何だ、と思いながら、哲は来る度にスプリングがへたっていく気がするボロいソファに腰を下ろした。尻の下で不穏な金属音がするが、聞こえないふりをして脚を組み、煙草を銜える。
 応接セットの灰皿には既に吸殻が数本入っていたが、どこからどう見ても川端が吸っている銘柄しか入っていない。いつ来ても客の一人いたことがない。相変わらず正体不明なおっさんだ、と思いながら、哲は煙草に火を点けた。
 少し経って川端が盆を捧げ持って戻って来た。玉井さんにお茶を淹れてもらったらしい。
「給湯器はまた連絡するからな。はいよっと」
 優雅さの欠片もなく茶碗を置いた川端は、ついでに黒っぽいものの載った皿をテーブルに置いた。続けて爪楊枝のパックも隣に置く。
「……塩昆布?」
「この間会った中学の同級生が塩昆布屋になっててなあ!」
 塩昆布屋じゃなくて佃煮屋なんじゃねえか──と思ったが突っ込まないで黙っていた。
「送ってきてくれたんだよ。美味いから食ってみろ」
「あー、頂きます」
「それで、仕入屋は元気か」
 哲は思わず噎せそうになり、何とか堪えて川端を睨んだ。
「塩昆布と湯沸かし器の話してたよな、今!?」
「お前は仕入屋のことになると湯沸かし器みたいになるなあと思って連想したんだよ」
 川端は文字で表すと「はっはっは」とでも書けそうなくらい朗らかに笑った。
 言い返そうと口を開きかけたが、何を言ったってまともに取り合ってもらえないのは火を見るより明らか、というやつだ。哲は憮然として茶を啜り、塩昆布を爪楊枝でぶっ刺して口に突っ込んだ。
「拗ねるな、少年」
「誰が少年だよ」
「そうだなあ。だけどいつまでも少年と思っちまうんだよ。なあ、ほら。色々あったろう、お前も仕入屋も」
 自分も昆布に爪楊枝を刺そうと前屈みになって手を伸ばす。若干腹がつっかえてやりづらそうではあるが、さすがに届かないことはなかった。
「大丈夫なのか」
「……何が」
 哲は茶碗を置き、灰皿の上の吸いかけの煙草に目を向けた。
「色々だ」
「あの野郎の怪我はもういいんじゃねえの。知らねえけど」
「なあ、哲」
 煙草に向けていた視線を渋々上げて川端を見た。川端は普段どおりの顔で、昆布をもぐもぐやっている。とぼけた顔をしているのに、目つきが真剣だからちっともおかしくなくて、哲は仕方なく口を開いた。
「──問題ねえよ。おっさんとあいつが鉢合わせしたときは一番……」
「そうだな」
 川端が秋野の顔を見たのは、哲が秋野に関わるのを止めようと決め、秋野が激昂したその直後のことだった。それから色々あって結局、言わば元の鞘に収まったのは川端も知っている。だが、詳しいことは勿論話してはいなかった。
 哲にとってあの男とのあれこれは親しい誰かに話したいことでも、知ってほしいことでもない。だが、心配されているのは分かっているし、身内同然の川端には話さなければいけないだろうということも分かっていた。
「今はあんなこと言ってやがるけど──」
 呟いた声が川端の事務所に谺し壁に跳ね返ってくるように錯覚する。
「この先どうなるかなんてわかんねえだろ。あの野郎が飽きるかもしれねえし」
「……」
「でも俺は自分からは捨てられねえって身に染みたから、後はもう」
 川端は何も言わなかったが、相槌がほしかったわけではないから構わず続けた。
「──丸呑みするだけ」
 緑茶の表面に映る蛍光灯の白い光を眺めながら、哲は煙草を吸いつけた。煙がゆらゆらと立ち上る。湯気も煙も確かにそこに存在する。夢でも幻でもない確かな存在だというのに、何故、人の目には儚く見えるのだろう。
「哲」
 川端のだみ声が、黙り込んだ哲の名前を呼んだ。
「大丈夫ならそれでいい。お前があんな風に食ったり眠ったりできなくならないんならな。それだけ分かればいいさ」
「ちゃんと食ってるっつーの」
 昆布の皿に顎をしゃくって見せたら、川端は嬉しそうに笑った。
 あれから数ヶ月経ち、食事も睡眠もすっかり元通りだ。秋野にも言ったが、考えることはもう止めた。どうせ答えなんか出ないのに、頭を悩ませるのは面倒なだけだった。もしもいつか終わりが来たらそのときはまた食えなくなるかもしれないし、ならないかもしれない。そんなことは誰にも分からない。
「……行くわ」
 煙草を灰皿に押し付けながら言うと、川端はちょっと待ってくれと言いながらバタバタと立ち上がり、デスクの上を引っ掻き回した。
「悪いが、ついでにこれを仕入屋に届けてくれないか?」
「おっさんなあ……」
「いやいや、違うぞ! このタイミングで出したからってそういうアレじゃないからな!」
「どういうアレだよ」
「本当だって。何なら中を見ろ中を! これは頼まれてた不動産のだな」
「あー、わかったわかった、届けりゃいいんだな? 約束まで時間あるから寄ってくわ」
 頷く川端に渋面を向けて見せながら、哲はソファから立ち上がった。
 どこまでが本当なのかよくわからないが、届けろと言われたら届けるまでだ。ムキになって行きたくないと言ったって仕方がない。玉井さんに挨拶して帰りかけたら、玉井さんがいつもの無表情で手招きするので足を止めた。
「はい?」
 近寄っていくと、玉井さんが正拳突きする勢いでジッパー付きのビニール袋を突き出してきた。咄嗟に受け取ると、さっきの塩昆布が無造作に詰め込まれている。
「ああ……ありがとうございます」
「丸呑みするんじゃないよ」
 絶句する哲に向けて玉井さんは一瞬にやりと笑い、すぐに元の無表情になった。