仕入屋錠前屋76 99.9%の 3

 今よりもっとリスクの高い仕事をしていた頃ならともかく、仕事の場に刃物を振り回す男が乱入してきたのには秋野もさすがに驚いた。
 しかも、繁華街からすぐとはいえ一応は住宅地だ。戸建てはほとんどなく、大半が集合住宅。それがアパートであれマンションであれ新しくて立派なものは見当たらないが、だからと言って足を踏み入れるのを躊躇うような物騒な地区でもない。
 場所柄水商売を生業にしている住人が多くて夕方からは人通りが少なくなるが、それでもまったく絶えるということはなかった。
 取り残されたのか無理矢理そこに建てたのかは分からないが、鉄筋の低層マンションと木造のアパートの間に挟まれた廃業した質屋で、秋野は依頼人と会っていた。
 頼まれた品物は入手しにくいが違法なものではなく、危険を伴う仕事でもなかった。だから、ばたばたと喧しい足音がしたときも空き巣だろうかと間抜けなことを考えたくらいの緊張感のなさだった。
 秋野と依頼人のいる質屋に飛び込んで来た男は、秋野には目もくれずに依頼人に突っ込んで行った。自分に向かって来たなら何とでもできただろう。だが、そうではなかったから反応が遅れた。
 全体重をかけて握った三徳包丁ごと依頼人に突っ込んだ男は、血まみれで何か罵詈雑言を喚きながら入って来たときと同じ勢いで飛び出して行った。
 呆気に取られながらも依頼人に駆け寄り抱き起したが、助かる見込みが低いのは素人目にも明らかだった。裂けた腹の傷から腹膜か内臓かなんだか分からないものがはみ出ている。漂う臭いからも、腸が傷ついたことが知れた。
 依頼人のジャケットから滑り落ちた携帯を掴んで知り合いに電話をかける。すぐに誰か寄越してくれと言っている間に、依頼人の息はいつの間にか止まりかけていた。

「アキ、お前も災難だったな」
 関口は依頼人の亡骸を挟んで秋野を見つめ、眉尻を下げて言った。
「ええ、まあ──でも俺はシャツを駄目にしたくらいですから」
「怪我がなくてよかった」
「それで、見つかりましたか?」
「刺したやつか? ああ、血だらけで徘徊してたって話だ。興奮して言ってることは支離滅裂だったらしい。俺も顔を見たが、二年くらい前に漆と組んで商売をしてた奴だったな。そういえばあの頃漆がそんな話をしてた」
 関口は最後に秋野の依頼人──名前は漆、中国人だ──の髪をもう一度撫でつけると一歩下がって遺体を眺め、満足したように頷いた。勿論、関口に死体で遊ぶ趣味があるわけではない。彼は三代続く小さな葬儀屋の主人だ。
「しかし、かわいそうになあ……ああ、いや、漆がじゃないよ」
 秋野を促して移動しながら、関口は溜息を吐いた。
「奴の娘がかわいそうで。お前、漆とは結構付き合い長いだろ。会ったことないか?」
「ああ──」
 もうかなり昔の話だが、漆は当時通訳を生業にしていた。と言っても、顧客は怪しげな相手ばかりだったらしい。大手企業の社員として日本の関連会社に出向してきた漆が会社を辞めてそんな商売をするようになった経緯は、今も昔も知らなかった。
 秋野は若い頃、よく漆の自宅兼事務所に出入りしていた。とはいえ、漆と個人的に親しかったわけではない。当時秋野がかかわっていたこれまた怪しげな、今となっては足を洗った部類の仕事の取引相手が漆の知人だったのだ。そいつが連絡先に漆の事務所を指定することが多かったからだが、それもせいぜい二年くらいの間の話だった。
「そういえば、子供がいましたね」
 記憶は曖昧だが、女の子だったのは間違いない。
「幼稚園だか小学校だか……なんだか懐かれて遊んでやった気がします」
「もう二十歳くらいだ」
「そうですか」
 階段を上がり、関口の事務所に足を踏み入れながら秋野は首を捻った。
「だけど、確か奥さんも子供も家族ビザで来てて──漆が会社辞めたときに離婚するとかで、子供連れて中国に帰ったって聞いた気がしますけど」
「ああ、そうなんだ。それが、ついこの間母親が病気で亡くなったとかでな」
 秋野は勧められるまま応接セットのソファに腰かけた。
 関口の店は商店街の中にあり、昔ながらのお得意様を相手に商売する傍ら、こうして、当たり前の葬儀を営めない人間の世話もしている。勿論地獄の沙汰も何とやらで、親切でやっているわけではないので金はかかるが。
 漆が刺された後秋野が電話をかけたのは関口ではなかったが、結局漆があのまま息を引き取ったので最終的には関口を頼った。漆と関口が友人だったのを知っていたからでもある。
 関口も秋野の向かいに腰を下ろした。そろそろ六十代も半ばだろうか。若い頃はヤクザ紛いの生活だったと聞いているし秋野が知り合った頃にもその名残はあったが、最近はすっかり丸くなって葬儀屋の親父が板についてきた。
 もっとも、丸くなったのは態度や考え方の話で、残念ながら見た目はいまだに若干チンピラ臭い。
 中肉中背で平凡な顔立ちだが、年齢の割に黒々と豊かな頭髪はきつい天然パーマで、撫でつけて押さえようとするものだからまるで不良漫画のリーゼントのようになっている。
 それに、葬儀屋らしからぬ派手なセーターはどこかのキツネ顔のヤクザを彷彿とさせるセンスのなさだ。
 そういえばあのヤクザも最近見かけていない。ヤクザは嫌いだと言う哲も中嶋のことは案外好きなようなので、生きているかどうかくらい調べておこうと頭の隅で考えた。
 関口は髪に手をやってさらに撫でつけながら──これ以上どうなるものでもないと思うくらいかっちりしているが──秋野を暫く見つめた後、おもむろに口を開いた。
「なあ、アキ」
「何ですか?」
「お前、結婚しようと思ってる女はいるのか」
「……はあ?」
 思いもよらない質問だったので間の抜けた声が出た。
「何です、藪から棒に」
「お前なあ、今時日本人だって言わないよ。藪から棒に」
「はあ、そうですか」
「漆の娘な、彼女と結婚しないか」
 冗談だろうと思って笑いかけたが、関口は真顔だった。
「関口さん……俺、そういうのは──」
「なあアキ、お前が昔一緒に住んでた女と別れて荒れたのは知ってる」
 関口はソファの背後の棚に手を伸ばし、歪んだアルミの灰皿を取り出した。剥げてしまって読めないが、油性マジックで何やら文字が書いてある。今時滅多に見かけない灰皿は綺麗に拭かれていたが、関口は煙草を吸わないから当然と言えば当然だ。
 喫煙しない人間と同席するときは基本的に秋野も吸わないが、今は心遣いに甘えてパッケージを取り出した。顔を背けて煙を吐く秋野に向かって関口は続けた。
「どんな女も彼女の代わりにはならないってことは、想像がつく。それなら多分、どんな女だって同じだ。こんな言い方、酷いかもしれんが」
「……」
「悪い意味じゃないぞ。どんな女でも同じなら、誰かを選んでそれなりに好きになればいいんだ。それなら、気立てのいい女がいいだろう」
「気立てがいいって今時言いますか?」
「何だよ、お返しか」
 藪から棒に、のことを言っているのだろう。関口はちょっと笑って、秋野が吐き出した煙の行方を何故か興味深そうに見守った。
「関口さん……」
「おまけに見た目もいいぞ。小学生の頃しか知らないんじゃあ、想像もつかんかもしれんがな。そりゃあ、誰もが振り向くすごい美人ってわけじゃないが、上等な部類だ」
「関口さん」
「悪い話じゃないだろう?」
「それ以前にどういう状況なんです? 中国籍ですよね」
「勿論そうだ。母親は漆と離婚してあっちに戻った」
「──不法滞在とかそういう」
「いや、留学で来てるんだ」
「学生? ちょっと待ってくださいよ」
「あっちも乗り気なんだよ、アキ。このまま日本にいたいんだそうだ。それに、お前のことも知ってるからな。とりあえず一旦お前に任すから、様子を見て──いや、今はいい、考えてくれるだけでいいんだ。そのくらいはしてくれるだろう?」
 頼むから検討だけはしてくれと頭を下げられ、久しぶりに本気で困惑する。秋野はその場を収めるためだけに、気が進まないながらも頷いた。