仕入屋錠前屋76 99.9%の 2

 眠れねえ、と思いながら舌打ちし、哲は寝返りを打った。さっき起き出して煙草を吸ったばかりだ。それも、数本目の。
 本日、睡魔は機嫌を損ねたのかまったく訪れる気配がない。
 昔からたまに数日続く不眠になることがあるのだが、それとは違うというのは分かっていた。原因は多分、秋野のシャツについた血糊のせいだ。
 別に心配しているわけでもないし、本人のものではないと分かっているのだから、そんなことをいつまでも引きずったりはしていない。ただ、ほんの数ヶ月前のあれこれを思い出し、そうして眠れなくて食えなかったことを思い出したら、何故か知らないが目が冴えてしまっただけだった。
 一晩眠れないくらい何の問題もないが、理由が理由だけに腹立たしい。ぼんやり横たわっていたら、携帯に着信があった。深夜に誰だと思って引き寄せ画面を見たら、まさに不眠の元凶からだ。舌打ちして電話を布団の上に放り出す。
 昔の携帯ならぶん投げて壁にぶつけていたところだが、昨今のスマートフォンの薄さと言ったら尻ポケットに突っ込んでしゃがんだら折れ曲がってしまいそうなほどで、壁にぶち当てるなんて以ての外だ。それがまたぞろ腹立たしさを助長した。
「誰が出るかっつーの、クソ虎」
「起きてるなら出ろよ」
 突然すぐそこで声がしたので、さすがに不意を衝かれて跳ね起きた。
「うわ、何だよ!?」
「携帯を不携帯どころか、お前はそもそも応答しないよな」
「気配消して近づくの止めろっつってんだろ、いつも!!」
「俺は施錠しろって言ってる、いつも。さすがのお前も今日こそは施錠の必要性を学習したと思ってたけどな」
「まったく……驚いてぽっくり逝くとこだったじゃねえか!」
「大げさだな」
 秋野は暗がりの中に突然現れたように見えた。暗さに目が慣れていると言っても細部まではよく見えない。それでも声に笑いが滲んでいるのは分かってむかっ腹が立つ。
「何の用だよ、夜中に」
「特別用はない」
「じゃあ来んな」
 布団に転がり直して天井を見上げ吐き出すと、秋野はまた笑った。
「来いって言われるのを待ってたら何年も先になっちまうだろう」
 待つ気なんかこれっぽっちもないくせに、常識人ぶったことを言って仕入屋は低く笑った。
「つーか、何やってんだ、今頃」
「ん? ああ、色々後始末があって」
「死体のか」
 半分冗談だったが、否定も肯定も特になかった。
「やっと終わったから、様子見にちょっと寄ってみただけだよ」
「俺は入院中の年寄りかよ。様子見られたくなんかねえし」
「道端で再会した女はどうした」
 秋野は暗い部屋の中で迷いもせずに灰皿を探し当て、布団の横に腰を下ろした。
 ライターの火が一瞬秋野の顔を照らす。高い鼻梁と、笑みの形に歪んだ口元。色がないように見える瞳に見つめられたと思ったら、火が消えまた暗くなった。
「……前にも言ったが、お前が女と寝たって構わない。そりゃ別に、嬉しくはないが」
 哲の沈黙をどう取ったのか、秋野は特に感情の籠らない平淡な声で続けた。
「食ったり眠ったりするのと同じで、女を抱きたいと思うのは男の本能だろう。そんなことまで口出しする気はないからそう警戒するな」
 秋野が煙草を吸いつける度、赤い小さな火が点るのに何となく目を奪われる。
「──どうこう言われる筋合いじゃねえしな」
「だから、言わないって言ってるだろう。お前が俺を置いて女とどこかに消えちまうっていうんじゃなければ、好きに遊べばいい」
 暗い中吐き出された煙はほとんど見えなかったが、空気が動くのが何となく分かる。哲は肘をついて上体を起こし、はっきり見えない秋野の顔を見た。
「もし俺がそうするつもりならどうすんだよ」
 真面目な答えが返ってくるとは思わなかったが何となく聞いてみる。秋野は煙草を灰皿に押し付けながら言った。
「そうだな、女を攫ってどこかに隠す」
「どこかって、どっかのホテルとか?」
「もっと見つかりにくいところ」
「田舎の民宿とか」
「分かりやすく言えばバラして捨てる」
 秋野の声は穏やかに低く、普段と何も変わらなかった。この間、気絶した隆文のことを捨ててくると言ったときと同じように。
 シャツについた血糊を思い出す。目の前で光る赤く小さな光とシャツに散った血飛沫が重なって見える。ぞくりと背筋を這い上がったのが寒気なのかもっと違うものなのか分からなかった。或いは分からない振りをして、哲は束の間目を閉じた。
「──笑えねえ冗談だな」
 呟いた唇に息がかかる。指が頬に触れたかと思うと顔を骨ごと掴んで仰のかされ、下唇に噛みつかれた。
「痛え!」
「眠れないんだろう。遊んでやるよ、錠前屋」
 思い切り食いつかれた唇が小さく切れて、口の中が金臭くなる。シャツを染めた赤黒い染みには正直怖気が走ったのに、食い破られた皮膚から滲む血の味には昂るのは何故なのか。押し倒され、頭を押さえつけられ口の中を舐め回されて、哲は低く呻いて秋野の髪に手を突っ込み握りしめた。
 振り上げた膝を秋野の脇腹に打ち込んだ。肋骨に膝が当たる硬い感触にほくそ笑んだが、蛇のように伸びた手に股間を強く掴まれてわっと冷や汗が滲み出た。急所を抑えられ、それこそ本能的な不快感と危機感に身を捩る。
「てめえ、手ぇ離しやがれ! くそったれ!」
「遊んでやるって言ったろう」
「馬鹿野郎、ますます眠れなくなるじゃねえかっ!」
「近所迷惑だからちょっと黙ってろ」
 怒声を上げる哲の首筋に歯を埋め、秋野は喉の奥を鳴らして低く笑った。

 

 結局したい放題されて眠るどころではなくなったが、どの時点で落ちたのか、気が付いたら夜が明けていて、秋野はすでにいなかった。夢でも見たかと一瞬思ったが、素っ裸である上、奴が残したあれこれがたっぷり視認できるとくれば夢なわけもない。
 寝惚けたまま一服しながらああいうのを夜這いに来たというのだろうかとぼんやりと考えた。床に這わされたのはこっちなのにおかしな話だと思ったら腹が立ってきたが、怒るのも面倒くさいし、怒鳴ったところでどうせ聞かせたい奴には聞こえないのだから黙っていた。
 煙草を吸い終えて用を足し、若干ふらつきながら風呂場に向かった。シャワーの湯を頭からかぶりながら水の流れに目を凝らす。排水口に流れていく水と泡を目で追いながら、死体をバラしたらどれだけ血が流れるのだろうと漫然と考えた。
 人を殺してみたいと思ったことはないし、手段にも興味はない。喧嘩の上の常套句でぶっ殺してやるコラ、なんて台詞は飽きるほど口に出したしこれからも言うだろうが、それはまた別の話だ。
 秋野が誰かに傷を負わせたのか、それとも単に居合わせただけか。鼻血の男の話など端から信じていなかったが、手を汚したのが必ずしもシャツを汚した本人とは限らない。理由も実際に起こった事実も自分と無関係ならどうでもいいが、秋野が本当に哲のために誰かを手にかけるのかどうかはどうしてか気になった。
 そうして欲しいと思っているわけではない。だが、たった一度、本気で人を殺そうと思った瞬間のことが何度も脳裏に蘇った。
 秋野を刺した男の顔を殴りながら、頭蓋の中で膨れ上がった何か。どす黒いとか、熱いとか、そんなことは感じなかった。ただ、頭と眼球を底から揺さぶる雑音のような圧力のようなもの。あの男も同じような何かを感じるのかは知りたかった。

 

「──さっきのは、冗談なんかじゃない」
 獣のように這わされ尻の奥深くまで男のものを飲み込まされて、悪態を吐きながら身悶える哲のうなじの上で、秋野は低い声でそう言った。
 聞こえないふりをしたが、どうせばれていただろう。その言葉を聞いた途端に押し寄せたものが、哲を握る秋野の掌に溢れたのだから尚の事だ。
「冗談じゃねえことくらい知ってるし……」
 一人呟き、続きを飲み込んだ哲の口の中に流れ落ちる水が入り込む。
 風呂場の壁に手をつき湯に打たれ、身体を伝う水が流れていくのを眺めながら、哲は暫くそのままでいた。