仕入屋錠前屋76 99.9%の 1

「……何なんだ、まったく」
 低い呟きに、秋野は床に向かって溜息を吐いた。
 疲れ切った肩が重く、首が頭を支えていられないくらい強張っている。しかし、とりあえずは謝るしかないだろう。
「お取込み中申し訳なかったな」
 布団の上に腰を下ろした哲が何とも言えない顔をして秋野を見上げ、何か言いかけて口を閉じた。

 哲が自分の部屋に女を呼んだというのを聞いたことがないし、見た事もない。だから、秋野が部屋の──いつもどおり施錠されていない──ドアを開けた時、哲の上に女がいたのには本当に驚いた。ただ、二人とも服は着ていたが。
「ああ、失礼」
 なるべく刺激しないよう穏やかに言ってみたが無駄だった。秋野の白いシャツの前面にべったりついた血糊に女が物凄い声を上げ、跳ね起きた。
「あ、いや、お構いなく……」
 一応制止してみたが、女は一旦秋野の前まで来て、もう一度悲鳴を上げた。
「何もしませんから、ちょっと落ち着い……」
 そしてまた哲のところへ駆け戻り、布団の傍に投げ出してあったバッグを引っ掴むと叫びながら秋野を突き飛ばし、陸上選手かと思う勢いで走り出た。階段に激しくぶつかるヒールの音が、紛争地帯の銃撃音の如く夜空に響く。
 暫し黙って遠ざかるヒールの音を聞いていたが、秋野が我に返って振り返ると哲が「何なんだ、まったく」と口にして、そういうわけで今に至る。
「──用事は何だよ」
 哲は煙草を銜え、火を点けないままのそれをぶらぶらさせた。
「何でもいいから着る物を借りようと思ったんだが、悪かったな。お前のところが一番近くて」
「何の血だそれ。人のか」
「俺のじゃないがね」
「見りゃ分かる。そんなに出血して普通に会話してたら人間じゃねえよ。てめえが幾ら化け物じみてるつったってそりゃねえだろ」
「女を呼ぶなら鍵をしろよ。女のために」
「呼んだわけじゃねえ」
 哲は無表情のままTシャツの襟元から手を突っ込んで鎖骨を掻いた。
「一人で飲んでたら寄ってきて、店出ても離れてくんなくて、何か知らねえけどここまでついてきちまってよ」
「犬猫じゃあるまいし」
「犬猫なら追っ払えるからまだいいぜ。ついてくんなっつったって腕にぶらさがってくんだからよ。手荒に扱うわけにもいかねえし、走って逃げようにもあんだけがっちり掴まれてちゃお前」
 錠前屋は相変わらず女子供と年寄りには弱いらしい。
「それでなすすべなく乗っかられてたって?」
 哲は何も言わずに顔をしかめたが、眉間に寄った皺が何に対するものなのか秋野にはよく分からない。火の点いていない煙草を銜えたまま、哲は大きな溜息を吐いた。
「で、誰の血だ」
「知らん」
「ああ? 何だそりゃ」
「知らないんだよ。歩いてたら脇道からいきなり鼻血を垂らした男が飛び出してきて突っ込んできた」
「……で、抱き止めた?」
「ああ」
「……で、男は走って逃げた?」
「ああ」
「……」
 哲は嘘吐け、と言わんばかりの顔をして見せ、それでも何も言わなかった。何か訊いてもまともに答えないだろうと思っているのかもしれないし、どうでもいいのかもしれない。哲は結局火を点けないままだった煙草を放り出すと立ち上がって秋野に背を向け、衣類をあさり始めた。
「俺のじゃ丈が足りねえよな……無駄に背がでけえし」
 つまらなさそうに言って、哲は手にしたTシャツを広げて首を振ると元に戻した。
「駄目だな」
「ジャケット着るから何でもいいよ」
「つったってお前、臍出して歩くわけにいかねえだろ」
「いくらお前のだってそこまで小さくないだろう。それに前留めりゃ分からんし、迎えを呼ぶ」
「年寄りが腹冷やすと風邪引くぜ」
 哲は秋野の前に来て、手を突き出した。
「お手?」
「違う。金」
「金?」
「コンビニ行って来てやる。Tシャツ売ってっから」
「ああ……」
 そう言いながら哲の手を掴んで軽く引っ張った。汚れているのは分かっているから抱き寄せはしなかったが、距離は縮まる。
「俺以外だと努力が要るんじゃなかったか?」
 哲が女と寝たって文句を言う権利は自分にはないが、何となく普段と様子が違うように見えて気になり訊ねた。
「……うるせえな、そんなんじゃねえっつったろ。放せ」
 秋野の脛をかなり強く蹴っ飛ばし、哲は腕を引っ張った。
「だけど、俺が来なかったらやってたろ?」
「どっちだっていいだろうが。放せ、つってんだよ」
 低く凄んで、哲は思い切り手を振り払った。女の事を突っ込まれたのがそんなに気に障ったかと意外に思い、そうではないのだと唐突に気がついた。血染めのシャツから目を逸らした哲の、僅かに青ざめた不愉快そうな顔。
「哲」
「いいから黙れ。金寄越せっての」
 酷く不機嫌で棘のある声を出し、手を差し出す。財布ごと渡すと哲は一瞬ためらったが、すぐにそれをポケットに捻じ込み出て行った。秋野はジャケットを脱ぎ、まだ重く湿っているシャツを見下ろした。
 着たままだと気持ちが悪いが、脱いでしまっても着るものもない。最寄りのコンビニは徒歩五分もないところにある。哲が戻るのにそれほど時間はかからないだろうから、そのままでいることにして腰を下ろし、煙草を銜えた。
 布団の上に転がった哲の煙草に気づき、腕を伸ばして拾い上げる。銜えた煙草に火も点けず、しかもそれを忘れて出て行くなんて哲らしくない。煙を吐きながら、ほんの少し力を入れたら折れてしまう紙と葉でできた棒を手の中で弄んだ。
 哲に心配されているとは思わないし、実際そんなふうに思ったわけではないだろう。それでもあの男に何がしかの動揺を与えたことを済まなく思うべきか、喜ぶべきか今ひとつ分からなかった。
 携帯を取り出し、知り合いに電話する。車の迎えを頼んで、それからもう一件電話をかけて、煙草を揉み消して少ししたら玄関が開いた。哲が上がってきて、コンビニ袋と秋野の財布を床に置く。
「それ、脱いだらこの袋にでも入れてその辺置いとけ。可燃ごみに出してやっから」
「ああ、悪いな。それより」
 話しかけようとしたが、哲は何も言わずに自分の財布を取り上げ、また靴を履いてドアを開けた。
「おい、哲?」
「さっきの子が戻ってきてて、そこで会ってよ──だから」
 口から出まかせなのか、本当なのか。本当だとしたら、だからどうするのか訊ねる前に哲はさっさといなくなった。