仕入屋錠前屋77 振り返らなくていいよ、行こう

 浴室に放置したままになっていた哲の服と靴を集めながら顔を上げたら、いつの間にかドアのところに服の持ち主が立っていた。
 サイズの合わない衣服のせいか、それともくしゃくしゃに乱れた髪が目の上にかかっているせいか、銜え煙草の顰め面は普段より幼く、そして不機嫌に見えた。
 まあさっきまでの哲だって色っぽくはあったものの、まったくもって上機嫌とは言い難かった。お互い腹を立てていたせいもあるかもしれないが、そもそも錠前屋はこういう面構えなのが普通だ。
「どうした」
「服……どうなったかと思って」
 服、の後で咳払いし、哲は嫌そうな顔をして後を続けた。嗄れた声は当然ながら最前までの諸々を容易に思い起こさせる。
 何をされたか、したか。そして朦朧としながら口走った胸の内。
 哲にしてみればどれも思い出したくもないのだろうが、こちらとしては相変わらず可愛くなかった哲が口にしたあれこれが可愛くて仕方がないというところだった。
「笑うな、クソ虎」
 秋野が何を考えているか何となく分かったのか、哲は舌打ちして眉を寄せた。
「笑ってないよ、にやついてるだけだ。濡れたまま放置だからな。どうにもなってない」
 結構な時間放置されたものの、広げて干していたわけではない服の山は濡れた生地の山でしかない。
「自分でにやついてるとか言うんじゃねえよ。俺は何着て帰りゃいいんだ」
「泊まればいいだろ」
 それが嫌だから訊いているのだろうということは分かっていたがそう返し、掻き集めた服をゴミ袋にまとめて突っ込んだ。勿論捨てはしないが、このまま持って歩けば自分がびしょ濡れになってしまう。
「乾燥を頼んでおく。明日着るものは何とかするが、どうしても泊まるのが嫌なら、それを着てこのスニーカーを履いて帰るんだな」
 哲は不満げに鼻を鳴らしたが──ついでに鼻から煙も吐いた──仕方がないと諦めたのかそれ以上は何も言わずに戻っていった。
 本業は外国人相手のクリーニング屋、本人も日本国籍ではない知人に電話をかけると集荷でたまたますぐ近くにいるという。長時間放置したらスニーカーも服も傷むから取りに行くと言われ、ついでに剥がしたベッドのシーツやら何やらとゴミ袋を持って一階に移動した。
 本当に近くにいたらしくまだドアも開けていないのに電話が鳴り、秋野は建物を出て数メートルのところまでゴミ袋と寝具を抱えて行った。
 知人はまず寝具を受け取り、次いで靴まで入ったビニール袋を渡されて目を瞠った。
「想像以上に濡れてるな。服のまま水に飛び込みでもしたのか?」
 呆れ顔でそう訊ねてきたものの、知人は結局秋野の答えを待たずにすべてを抱えて立ち去った。
 その場で明日哲が身に着けるものの手配を電話で済ませ、踵を返す。
 服のまま水に飛び込んだ状態だったのは秋野ではなく哲のほうだが、秋野にしても内側はそれに近いと思いつつ階段をゆっくり上った。
 秋野が想像もしていなかった哲の独占欲。知っただけなら、ただ驚くだけで済んだかもしれない。だけ、とは言っても驚きは相当だったが。
 だが、俺には隠してヨアニスには言ったのかと思ったら驚きはどこかに追いやられ、怒りがそれに取って代わった。
 隠していたとはいっても嘘を吐かれたわけでもないし、訊ねれば答えたのかもしれない。訊ねようともしなかった己の不明を恥じるべきだと言われればそれが正しいような気もする。
 だが、もう逃げないと言ったくせに素知らぬふりを通した錠前屋を責めたっていいではないかという思いもあった。大人になれよ、と自分に言い聞かせてみたところで、自分で自分を宥めるのには限界があるし、所詮自分は人格者には程遠い。
 色々な感情に一気に襲い掛かかられた結果、秋野は正に洗濯槽の中のシャツみたいな気分だった。
 哲の中にどれだけ注いでも汚すだけしかできない自分の体液に対する一抹の哀れさだとか、女と寝たって気にしないと本気で言い放つくせに戸籍ひとつであれほど動揺する哲への圧倒的な愛しさだとか。
 今まで感じたことがないことまで蓋が外れたように突然立ち現れてはまた腹の底に戻っていき、翻弄されてへとへとだった。
 哲はソファに座って煙草を吸っていた。短くなった吸い殻を灰皿に放り込むまで黙って眺めていると、気配に気づいたのか肩越しに振り返ってこちらを睨みつけた。
 刺々しさ──悪意や敵意はないが、親愛の情が滲んでいるとは口が裂けても言えない視線。険しいと言ってもいいその目つきに頬が緩んで口元が歪む。
 歩み寄って屈み込んだら珍しく哲から手を伸ばしてきた。
 胸倉を掴んで引き寄せられ、油断していたら思い切り舌を齧られた。口から鼻に金気臭さが広がっていく。傷口を抉るように攻撃してくる錠前屋の舌が、そんなわけはないのに笑っているような感じがした。
「腹減った」
 好き放題した挙句思い切り秋野を突き放した哲は、結構熱烈な口づけを仕掛けてきたことなんて忘れたように素っ気なく口にした。
「どこか行くか?」
「あー……いや、この格好のままじゃ行けねえだろ。いかにも借り物だし」
「知り合いの店なら持ち帰り用に作ってくれるから頼むか。何がいい」
 喋ったら噛まれた舌が痛み、秋野は喋りながら思わず顔を顰めた。それを見た哲は片頬を歪めて小さく笑い、ソファの上に脚を引き上げ胡坐を掻いた。
「担々麺か四川風麻婆豆腐」
「お前ね」
 低く笑った哲は一瞬真顔になって秋野を見つめ、すぐに目を逸らして乱れた髪を乱暴にかき上げた。
「冗談だっつうの。何でもいい」
「まったく……」
 連絡先から適当に近くの店を選んで電話をかける。担々麺も麻婆豆腐も頼まなかったが、なんでも作ってくれるというので結局は中華にした。
「取りに行ってくる」
 声をかけたが返事はなかった。戻ってきたらいなくなっているかもしれないとふと思ったが、そうだとしても消えてしまうわけではないし、また連絡すればいいだけの話だ。
 雨はすっかり止んでいた。外階段を降り、さっきクリーニング屋に会ったあたりを通り過ぎて少し行ったら、路上に開いたままのビニール傘が落ちていた。
 そういえば哲を運び込んだときに持っていた傘を投げ出したんだった、と思い出す。これはもしかしたら自分の傘だろうか。
 屈み込み、愛想のない白いプラスチックの柄に手を伸ばす。風が強く吹いて傘が動き、まるでお前なんかのものではないと言いたげに、秋野の手から遠ざかった。前髪が風に吹かれて舞い上がり、一瞬視界を覆い隠した。
 我知らず踵を返し来た道を真っ直ぐ戻って最近住居と定めた建物の外階段を駆け上がった。ドアを開けて室内に踏み込んだら、さっきと同じ姿勢でソファの上にいた哲が顔を上げて振り返った。
「何だ、忘れもんか?」
 突っ立つ秋野の表情を見て訝し気に目を眇めた哲は、ソファの上で身体を捻ってこちらを向いた。
「何だよ?」
「いや、帰ったかと思って」
「何で。飯買ってくるってお前が」
 不思議そうに言いさして、哲は秋野を見つめ、舌打ちした。
「逃げねえよ」
「……ああ」
「──今日は泊まる」
 低い呟きに何かが緩んで溶けていく。秋野の腹の底に根を張る何か硬くしこった冷たいもの。それが何かなんて分からないし、知らなくたって何も変わらない。
「一緒に行かないか」
「ああ? つったってお前、だらしねえ格好だぞ俺は」
「誰も見てないよ」
「そういう問題かよ。つーか靴もねえし」
「すぐそこだから俺のサンダルつっかけてけばいい」
「何なんだよ、一人でお使いもできねえのか。使えねえジジイだな」
 溜息を吐きながら、それでも哲は立ち上がった。どこ行ったんだよサンダル、とかぶつぶつ言いながら歩き回り、でけえから先っぽから足が飛び出る! と喚き出したので靴下を探してきて放ってやった。幸い靴下のサイズはあってなきが如しだ。
 先に階段を降りていく哲のサンダルが立てる騒々しい音。雨の後のアスファルトの匂い、どこか遠くで聞こえる人の声。色々なものが空気に混じり合っている。まるで人気がないのを幸いとばかりに煙草を銜えた哲が暫く行って立ち止まった。
「誰だよ、傘捨てたの」
 銜え煙草の錠前屋が拾い上げたビニール傘。秋野が落としたものかどうか確かなことは分からない。それでも、手際よく閉じられ巻かれていくそれを目にしていたら、何故か涙が出そうになった。
「……俺のだ」
「ああ? そうなのか? 何でこんなとこに……まあいいや、じゃあてめえで持て」
 哲がサイズの合わないサンダルを引きずりながら歩き出したから、押し付けられた傘をぶら下げゆっくり後をついて歩く。
「なあおい、どっち行けばいいんだよ」
「真っ直ぐ。次の角を右」
 恐らく「了解した」という意味の唸り声を上げ、哲は夜空に向かって煙を吹き上げた。
 俺はお前のものなのだという。お前はいつか俺のものになるのだろうか。
 訊ねようかと思ったが、やめておいた。どんな答えが返ってきたところで進む先を変える気はない。もはや意志の力でどうにかなるものでもないと思う。意志薄弱な方ではないと思うが、そもそも変えたいと思っていない道筋を無理に変えることもない。
「哲」
「ああ?」
 肩越しに振り返った哲の髪を吹き抜ける風が揺らす。
 煙がたなびき、秋野がつい今しがた口にした安っぽい言葉と同じように易々とどこかに流されていく。
 耳を塞ぐことはしないと宣言したとおり、きちんと聞いていたらしい。哲は眉間に深い皺を寄せ、「勘弁してくれ」と低く呻いた。
 思わず声を上げて笑った秋野を気が違った人でも見るような目で眺め、同時に戸惑ったような表情を浮かべた哲は何か言いかけ結局何も口にしなかった。
「そんな、債権者に今すぐ借金を返せって言われた社長みたいな顔をするんじゃないよ」
「……何で譬えがそう具体的なんだよ」
 舌打ちして、哲はさっきより若干歩幅を大きく取ってまた歩き出した。まるで、以前と変わってしまった何かから無理矢理距離を置こうとするかのように。
 そのままで構わなかった。
 後退も停滞もしていないなら、少しずつでも前に進むことをお前が許容してくれるなら。
 顰め面で銜えた煙草を噛み潰しそうになっていても、そのままでいいよ。

 いつの間にか秋野より先に行っていたことに気づいた哲は肩越しにこちらを一瞥し、その場で立ち止まって振り返った。
「おい、何突っ立ってんだ」
 素っ気ない口調は出会った頃も今も、まったく変わっていなかった。
「腹が減ったんだっつーのに」
 ゆっくりと近づいて来た秋野に文句を垂れた錠前屋はしゃがみこんで煙草を地面に擦りつけ、吸殻を摘んで立ち上がった。
「分かってる、俺のせいだろ」
「当然じゃねえかお前」
「俺だけが悪いわけじゃないと思うけどねえ」
「はあ? 一体どんだけやったと思ってやがるエロジジイめ」
「いちいち数えてないが、少なくとも一回はお前から乗っかって──」
「うるせえ」
「その後もお前があんなこと言うから──」
「うるせえ黙れ」
「はいはい、悪かったよ」
「まったく諸々胸糞悪ぃのはとにかく何もかもてめえのせいだからな、くそったれ」
「はいはい」
「二回言うんじゃねえ!」
「うん?」
「聞けよ!」
「聞いてるよ」
「借金は返す」
 動きを止めた秋野の顔を一瞥した哲は秋野との距離を少し詰め、考え直したように立ち止まった。
「──いつか、多分」
 こじ開けられたのはどちらなのか。
 錆びた錠前に守られた頑丈な金庫に仕舞い込んだなけなしの財産。大事な虎の子を取り立てるのは、差し出すのは一体誰だったのか。
「債権者がいつまで待てんのか知らねえし、待てねえからもういっそチャラにするって言われる日がくんのかもしれねえし」
「……その債権者は気が長い」
「俺がとんずらするかもしれねえし」
「俺を置いて? それはない」
 そう言うと哲は数秒黙り込み、そうして、酷く優しい顔で笑った。
「自惚れてんじゃねえぞ、仕入屋」
 哲の右手がゆっくり伸びる。錠前の上でひらめくその時のように動いた指が、秋野の首を掴んで引き寄せた。秋野の下唇に軽く噛みついた哲が、唇の上で小さく「可能性のはなしをしてんだよ」と囁いた。
 秋野が反応する前に身体を離した哲は、思い切り秋野の脛を蹴っ飛ばした。
「さっさと動けオラ! 何か食わせろ、暴れるぞマジで」
「……痛いよ」
「自業自得だ馬鹿野郎」

 ああ、そうだな。今はそのままでいいから、何百回か何千回か夜が明けて、お前の中には欠けていたはずの何かを金庫の底で見つけたその時に、俺のものになってくれ。
 だから、今は、ただ。
 洗い髪を風になびかせた錠前屋が、秋野に背を向けまっすぐ前を向いたまま、低い声で吐き捨てる。
「行くぞ」
「──ああ」
 
 振り返らなくていいよ、行こう。