仕入屋錠前屋75 笑っていて 4

 哲が秋野に連れられて行った家は広い敷地に建てられた日本家屋で、昔ながらの広い庭に囲まれていた。
 まるで映画に出てくるヤクザの邸宅のようだが、勿論一般のご家庭なので防犯システムや警備員、侵入者を察知して群がってくるドーベルマンは存在しない。
 夜半、特に人目を気にすることもなく敷地内に踏み込んだ秋野と哲は庭の向こうにある母屋ではなく、少し離れた場所にある蔵に向かって歩いていた。
 庭は広いが、荒れている。雑草があちらこちらに繁茂しているし、庭木も枝が暴れ伸び放題という感じだ。金がないというから業者を入れる余裕はなかったのだろう。それにしても、このまま放置していたらえらいことになりそうだ。
「なあ」
「うん?」
「その、なんつーの、陶芸家ってのか? 若いのか」
「七十代じゃなかったかな」
 秋野は庭を見渡して哲の言いたいことが分かったらしい。
「不精だっただけかもしれないが、これだけ広い庭だ、自分だけで手入れはできなかったんだろう。偏屈で親戚付き合いも近所付き合いもなかったって話だし」
「ふうん」
 ライトアップされているわけでもない庭は暗く防犯上は明らかによろしくないが、よからぬ目的のためには非常に都合がよかった。
 蔵が前方に見えたので哲は口を噤んで長い脚を運ぶ秋野の後について進んだ。新しいとは言っても昨日今日建ったものではない。この間降った大雨で地面の泥が跳ね返ったせいか、暗くていまいちわかりにくいが外壁はだいぶ薄汚れているようだった。
 造りは頑丈そうで、見た目は蔵という言葉から連想する通りだ。黒っぽい瓦──もしかしたら瓦を模しただけかもしれない──と白い塗壁。物置というよりは小さい家、という感じだった。
 さっきまでは暗くて荒れた庭に何となく沈んでいた気分が一気に上向く。哲は上着のポケットから手袋を取り出した。今にも鼻歌を歌い出しかねない哲の様子に片笑みを浮かべた秋野がまずは蔵に近づく。そして、秋野は戸の前で立ち止まり、僅かに背を強張らせた。
「おい──」
 声を出さずに振り返った秋野の顔を見て、哲は開きかけた口を閉じた。秋野は音もなく動くと──本当にひとつも音がしない──蔵の引き違い戸に手をかけた。

 腹の底で絶望的な声を上げた錠前屋の前で、秋野はゆっくりと戸を滑らせた。
 おいおい、鍵が開いてんじゃねえか! と吼えたくなったがさすがに今この場所で大声を上げるわけにはいかない。
 脱力感いっぱいで突っ立っていると、蔵の中に半分身体を入れた秋野がこちらを向き、手招きした。
 いつ嵌めたのか、手袋も着用済みだ。だが、そんなことははっきり言ってどうでもいい。哲は失意に項垂れつつも、なるべく物音を立てないように秋野の後から蔵に入った。
 奥の方にぼんやり明かりが見えて驚く。二人とも懐中電灯は持ってきているが、勿論まだ点けていない。秋野がそっと蔵の戸を閉めて明かりのほうに足を向ける。さっさと逃げ出そうぜと思ったが、進むということはそちらに目当てのものがあるのだろう。
 蔵は奥行きがあるが間口が狭く、両側に棚があってびっしりと物が詰まっていた。何故か入り口付近に小さな洗面台とトイレのピクトグラムが掲示されたドアがある。ここで長時間作業することがあったのだろうか。
 陶芸家自身の作品なのか違うのか、数々の陶磁器が無造作に置かれている。それ以外にも黄ばんだ紙の本、風呂敷で包まれた何かわからないもの、木箱などが見える。どれもガラクタにしか見えないし、微かな明かりに浮かび上がる積もった埃を見る限り誰もが同意見のようだった。
 真っ直ぐ進むと真正面に衝立のように棚が据えてあり、その向こうに光源があった。棚の向こうを覗いてみると、光の元はLEDライトのランタンだった。
 狭い空間は、色とりどりの作品に囲まれていた。七宝焼きのような光沢がある鮮やかな色の壺や皿が棚の上に並べてある。数はそれほど多くはないが、どれも美しい作品だった。ランタンの光を受けてぼんやりと発光しているような磁器に囲まれたスペースのど真ん中に、寝袋が置いてある。その上に、若い女が腰を下ろしていた。
 何かを取ろうとしたのか、女が不意にこちらを向き、哲と真正面から目が合った。
 肌の色は浅黒かった。くっきりした二重の目、眉と目蓋の間隔が欧米人のように狭い。一見しただけでは間違えそうだが、よく見ると日本人の顔ではなかった。
 小さな口が開かれる。悲鳴が上がるかと思って構えたが、女は両手を口に当ててそれを飲み込んだ。眦が裂けてしまうのではないかと思うくらい見開かれた目には怯えの色が浮かんでいる。
「──ここの家の人……じゃねえよな?」
 哲が思わず振り返って秋野を見ると、秋野は小さく笑って、そうだな、と呟いて前に出た。
「日本語は分かりますか?」
 低く穏やかな声で秋野が問う。日本人ではなさそうなことに少し安心したのか、女は掌を口から外した。もっとも、見開いた目は相変わらずそのままだったが。
「……すこしだけわかります」
 明らかにイントネーションがおかしいが、案外きれいな日本語だった。
「英語のほうがいいですか?」
 秋野が訊ねたら女は僅かに明るい面持ちになって頷いた。日本語よりは話せるのだろう、英語で会話が始まった。女の英語は話せない哲が聞いてもかなり訛りが強かったが、十分意思疎通はできているようだった。煙草を吸うわけにもいかず、哲はぶらぶらと入口のほうに戻ってあたりを見回した。
 寝袋があるからには寝泊まりしているのだろうが、入ってきたときの印象どおり、埃っぽく、生活感を感じない建物だ。薄明りの下で見る限り、こんなところに誰かがいるとは思えない。
 女はどう考えてもこの家の住人ではないが、不法侵入するにしても場所の選択があらゆる意味で妙だった。
「だめ! おいていくのこまります!」
 女の切羽詰まった声がしたからもう一度奥に足を向けた。秋野は少し困った顔で、いつの間にか立ち上がり詰め寄る女を見下ろしている。哲が思わずにやにやしているとこちらを振り返って哲を睨み、また女に顔を戻した。
「そう言われても──」
「見つかったらわたし、ダメです!」
 その後は英語でまくし立て始めた女の言っていることはさっぱりだったが、寝袋や建物の照明を使っていないことからしても、ここに住んでいるとは思えなかった。逃げ出そうにも当てもなく、不安でならず──と言ったところだったのは容易に想像がつく。
 涙ぐみながら訴える女に手を掴まれ拝むようにされるに至り、秋野が諦めたように溜息を吐いたから、ここから連れて出るのだということだけは哲にも分かった。ポケットから携帯を取り出して耳に当てると、秋野が女の手を外しながら怪訝そうにこちらを見た。
「米谷」
 哲が言うと、秋野は僅かに首を傾げて眉を寄せた。
「民泊やってるっつったじゃねえか、あいつ──ああ、俺。ああ? 俺だっつってんだろ」
 夜中だとか何だとか米谷は寝惚けた声でむにゃむにゃと文句を垂れていたが、一部屋貸せと言ったらすぐに元気になった。
 通話を終えて携帯をポケットに突っ込み顔を上げる。いつの間にか静かになった女と秋野が揃ってこちらを見ていたから何となく仰け反った。
「何だよ」
「いや、別に」
 女は希望と怯えと疲れと眠気が混じったような妙な顔をしていたが、秋野は僅かに口元を歪めて笑っていた。

 結局、女は不法滞在のタイ人で、陶芸家が蔵に匿っていたのだということが分かった。
 技能研修生とかいうやつで、どこかの工場だか何だかにやってきたらしい。工場で辛いことが色々あって、耐えられずに逃げ出し飲み屋に流れ着いた──という話がどこまで本当か分からない。
 最終的に店の客だった陶芸家と知り合ったところは本当らしいが、それ以外が真実かどうかは本人のみぞ知る、だ。
 色々あった、の裏に人生の悲喜こもごもを見て憐憫を覚えるか、異国で生きていくには頼りなさすぎる女の嘘に呆れるかは人それぞれだ。
「大体じいさんは何であの女を蔵に押し込んでたわけ。囲ってたわけじゃねえのか」
「本人が言うには、何とかしてやるから数日ここに隠れてって言われたらしい」
「何とかって何だよ」
「さあ。顔を見たこともない人間が何を考えてたなんか知らんよ」
 小さく肩を竦めて煙を吐き出し、秋野は紺色のニットの腕を無造作に捲った。剥き出しになった腕に浮かぶ太い血管に何となく目を向けながら、哲は昨晩のことを思い出していた。
 女を連れて陶芸家の家を脱け出すのは入るのと同じくらい簡単だった。気が付いたら秋野はきちんと木箱を抱えていて──一体いつ目的の作品を探し当てて箱詰めしていたのか、気づきもしなかった──まずは依頼人にそれを渡すということで、哲は言葉のほとんど通じない女と二人、深夜営業のファミレスの片隅で美味くもないコーヒーを飲んでいた。
 蛍光灯がどんな陰影も許さないと言わんばかりに二人を照らし、女の造作が実は抜群に整っていたことや、思ったより若くないことに気が付いたが、だからどうだということもなかった。
 女は喫煙しないというから禁煙席で、煙草も吸えない。会話もせずお互い黙ってコーヒーを啜っていたら、沈黙に耐えかねたのか女が何か早口で呟いた。だが、元々英語は分からないのに訛りすぎていて理解できない。
「わかんねえよ、悪ぃけど」
 哲が返すと女は言葉を探しあぐねるように暫く黙り込み、哲が忘れたころに口を開いた。
「……わらっていて」
「え?」
「笑っていて、ってわたしにいいました、ヨシさん」
 ヨシさん、というのは陶芸家だろうか。
「ふうん」
 老いらくの恋ってやつだったのかもしれないし、違うのかもしれない。どちらであってももう意味はない。その後女は口を噤み、ほどなく秋野が現れたので席を立った。
 ほくほく顔の米谷と落ち合い、女を引き渡す。宿泊料を訪ねようと思ったら秋野が米谷をどこかに引っ張って行った。話はついたと言って戻って来たから、結局哲は彼らを残してそのまま帰った。期待していたディンプルシリンダーとお近づきになれず気落ちしていたから、説明を聞くのも面倒だったからだ。
 そういうわけで、秋野が立て替えたであろう宿泊費を払おうとバイトの後に立ち寄ったのだ。秋野は留守だったので帰ろうかと思ったところで狙いすましたように着信があり、またGPS埋め込まれ説を思い浮かべながら指定された店で合流して今に至る。
 高い壁と暖簾で仕切られた簡易個室は案外と周囲の視線が気にならなくて、そんな話をするのにも都合がよかった。勿論、そつないこの男のことだ、それを見越しての店選びに違いない。
「あ、そうだ、金」
 運ばれてきたシュウマイを皿に取り、忘れないうちにと財布を取り出したが秋野は「いらない」と首を振った。
「いや、要らねえって……お前が払う筋合いはねえだろ」
「お前だってそうだろう。昨日、もうひとつ頂いてきたんだ、あそこから」
「はあ?」
 秋野は珍しく子供っぽい表情を浮かべて笑った。
「だから、依頼人からは倍まではいかないがそれに近いくらい報酬を貰ってる。予定外の分は宿泊代を差っ引いて彼女に渡しておいたから金は要らない。それから、お前の友達がどんな人間か分からないから、一応変なことは考えるなって釘は刺しておいた」
「……友達じゃねえよ」
「鼻がお気に入りなだけか」
 笑われてむかついたからテーブルの下で脛を蹴飛ばした。甘んじて蹴られてやったという風情がまたむかついたから、もう一度、今度はもっと強く蹴ってやった。
「痛いな。どっちにしても、一応な──何だよ、どういう顔だそれは」
 薄い茶色の目の中に散る煌めく斑紋。騒がしい居酒屋のテーブル席で見るには美しすぎるその双眸は、しかしそんな雑多な場所にこそ馴染んで見えた。
「別に」
「──哲」
「うるせえな、大したことじゃねえよ」
 片眉を引き上げてじっと見られると、白状しなくてもいいことまで言ってしまいそうになる。うっかり余計なことを言わないように、哲は慎重に言葉を選んだ。
「お前、前にも同じようなことしたろ」
「前?」
「知り合ったばっかりの頃、どっかのお姉ちゃんの手錠取れなくなったってやつ。あん時も知り合いでもねえ女のために金払ったろうが。あれを思い出しただけだ」
 随分昔のことのようにも思えるが、ほんの数年前の話だ。あれから変わったこともあるが、基本的には何も変わっていないと思える。
 相変わらずこの男は胡散臭くてろくでもなくて謎だらけだ。そして、優しいのかそうでないのか、未だにまったく分からない。
 長い睫毛を瞬いた仕入屋は一体どうしてそんなふうに思ったのか、何故か無表情になって「俺は優しくない」と呟いた。
 照れているわけでも格好をつけているわけでもないのは分かっている。だが、それだけだ。そうだな、ともそんなことはない、とも言えないから、哲は黙って煙草に火を点けた。
「笑っていてって言われたんだってよ。その陶芸家のじいさんに」
「……」
「だけどよ」
 頬杖を突き、穂先から立ち上り揺れ崩れていく白い筋を眺めながら、哲はゆっくりと呟いた。
「俺が見てる間、一遍も笑わなかった」
 店のざわめきが喧しいほどに響く。シュウマイから上がっていた湯気はいつの間にか消え、たれの小皿に浮いた脂が固まり始めていた。
「そのおっさん──じいさんか? そいつがいねえからか? 関係ねえのか」
「……笑ってれば幸せってことはないだろう。上っ面の笑顔なら、寧ろ不幸なのかもしれないし」
「ああ……まあ、そうよな」
 吸いつけた煙草を持った哲の手を秋野が取り上げ、指先に口づけた。火種が飛ぶかもしれないと思うと振り払うのを躊躇する。数秒の躊躇いをいいことに秋野は哲の指の関節に軽く歯を立てた。指先から肘までぞわりと何かが這い上がる。
「勝手に人の手を食うな、シュウマイ食えシュウマイ」
 もう片方の手で押しやったら、秋野は唇の端を曲げ、痩せた虎みたいに酷薄に笑った。
「お前は笑ってなくていい」
「うるせえ、どうせ愛想がねえツラだよ」
「そういう意味じゃない」
 どういう意味か、とは訊ねなかった。

 これから先、あの女は誰も知る者のいない遠い国で、うわべだけの笑みを浮かべてひとりで生きていくのだろうか。
 埃っぽい蔵の中で、きれいな焼き物に囲まれ無表情で座っていたあの女は。
 微笑みの国から来た女の強張った顔を思い出しながら、哲は顎先に触れた秋野の手を振り払いかけ、思い直して引き寄せた。
 人差し指の先に思い切り齧りついた後、根元まで口に含んで舐め回す。いいだけしゃぶって乱暴に放り出したら、秋野が珍しく舌打ちして「くそ」と呟いた。
 指の代わりに銜えた煙草を吸いつけて笑った哲は、秋野の金色の目を覗き込み、伝票を掴んで立ち上がった。