仕入屋錠前屋75 笑っていて 3

「蔵ねえ……」
 それほど乗り気でない声が出てしまったのは、不法侵入はいかんとか、盗みはいけないとか、そんなことを思ったからではない。
 蔵と言えば南京錠、というイメージがあったからで、錠前は錠前ではあるが、ちょっとばかり簡単すぎるのに落胆したからだ。だが、続いた説明に哲は俄然元気になった。
 建物は古くからあるものではなく、つい数年前に新しく建てたものらしい。そんなわけで、引違戸錠がついている。
「ディンプルシリンダー」
 哲が言うと、秋野は頷いた。
「ああ」
「その型番だと、五列最大二十六ピン」
 うっとりと繰り返す錠前屋を眺め、秋野はちょっと呆れた顔をした。
「……よかったな、五列最大二十六ピンで」
「大好きだぜ、ディンプルシリンダー」
「俺のことは?」
 馬鹿みたいなことを訊いてくる馬鹿のことは放っておいて、哲は短くなった煙草を灰皿に押し付けた。
「そんな詳しいってことは依頼人と蔵の持ち主ってのは知り合いか?」
「ああ、親戚らしいな」
 秋野の話によると、割れた磁器というのは、依頼人が作家本人から半ば騙し取ったと言ってもいい代物らしい。
 一般人が勝手に抱く芸術家のイメージには正誤どちらもあるのだろうが、その陶芸作家は絵に描いたような世間知らず、芸術家と聞いて大多数が想像するそのままの人物だったとか。
 金銭感覚なんてものはなく、見えているのは自らの手が生み出す作品だけ。
 その出来栄えが人生のすべてで、それ以外のことにはほとんど注意を払っていなかったようだ。
 元々実家が旧家で金持ちだったのを幸いと働くこともせず創作に明け暮れた結果、生活費に困って親戚から借金するようなこともあったらしい。
 件の花瓶はそのカタにと、従兄弟だか又従兄弟だか──これが仕入屋の依頼人──に無理矢理接収されたもので、作家の死で値が跳ね上がったそれを、依頼人が愛好家に破格の値段で売ろうとしていた──それが路地裏の取引らしかった。
「依頼人の話によると、割れたのとほぼ同じ習作があったっていうんだ」
「習作って、俺はよくわかんねえけど練習みたいなもんか?」
「そうだろうな。俺だってよく知らんが」
 秋野は煙草を持ったまま前髪を掻き上げた。
「作家本人にしてみたら大分違うのかもな。けど、依頼人が言うには、ほとんど同じように見えたそうだ。それを手に入れてほしいって話」
「頼んでも、譲ってもらえねえってことね」
「俺に頼むってことはそうなんだろ」
「あれでも、そしたらお前はそもそもなんで雇われたわけ。商品は元々依頼人が持ってたんだよな」
 煙を吐きながら哲が訊ねたら、秋野は軽く肩を竦めた。
「俺は愛好家との仲介。出所を問わず馬鹿みたいな値段をつける、気前はいいが胡散臭い買い手」
「ふうん。そいつはその習作でいいっつってんのか」
「ああ、本人作なら構わんそうだ」
 それだけの金を積むなら遺族に交渉すればいいのにと思うが、そうできない理由があるから頼まれているのだろう。それにしてもそんなのは単なる窃盗で別に秋野が対応しなくてもいい気がするが、その辺もまあ結局はどうでもよかった。哲にしてみれば重要なのは解錠できるということだ。
 哲は、長い指と掌でグラスを二つ支えた秋野に目を向けた。
 エリが秋野の新居がどうだとか早く同棲しろとか訳の分からないことを言ってうるさいから、秋野と哲は米谷を置いて秋野の部屋に移動していた。
 秋野の部屋のカウンターにはいつも何もないが、今日は何故か酒瓶が二本置いてあった。ついこの間知り合いから貰ったとかで、秋野はバーテンダーよろしくカウンターの向こう側にいて、持ってきたグラスをカウンターの上に置いた。
 こいつなら、バーテンダーの格好で立っているだけで金がもらえそうだ。実際若い頃、それこそ客寄せとしてカウンターの中にいるという仕事もしたらしい。大分前に聞いたからあまりよく覚えていないが。
 銜え煙草で黒いニットの腕を捲った仕入屋は、どこからどう見てもろくでもない男前だった。少なくともその当時、カウンターの向こうに立っていたときより格段に胡散臭く見えるだろう。
 透明なガラスの向こうに秋野の目の色みたいな色の液体が注がれるのをぼんやり眺め、こいつの目も溶けたらこんなふうになるのかな、なんて馬鹿みたいなことを考えた。溶けた目玉のことを想像したら何となく気持ちが悪くなり、哲は渋面で煙を吐き出した。
「何怖い顔してるんだ」
「うるせえ、元々この顔だ」
「そうか。何か食うか?」
「いらねえ」
 秋野は頷いて酒のキャップを閉め、洒落たグラスを哲のほうに押して寄越した。どうせこれも貰い物なのだろう。薄くて硬いグラスは指先が触れる前から高級だと分かる。とろりとした酒の中の氷がガラスに触れて、澄んだ高い音を出した。
「じゃあ、向こうに確認して連絡する。多分二、三日中だから、夜遅い時間は明けておいてくれ」
「分かった」
「ところで、お前が投げたあの男、知り合いか?」
「米谷? ああ、高校んときの知り合いみてえ。つーか俺は覚えてねえけど、あいつの鼻を折ったのが俺らしい」
「……」
「何だよそのかわいそうな子を見るような目は」
「……そのままの目だ」
 舌打ちした哲に苦笑し、秋野は空の棚に凭れてグラスを傾けた。
「何でもいいが、熱心にみづきを口説いてたぞ」
「ああ? あいつあそこがゲイバーだって分かってんのかな──いや、分かるよな、最初に出てきたのエリだし」
「さあ、知らんが。お前に関係あるのか」
「そりゃお前、別に米谷がみづきと付き合ったっていいけど、そうなったら益々態度が軟化しちまうかもしれねえじゃねえか」
「軟化したら問題か?」
 首を傾げた秋野の虹彩にライトが反射してちかりと光った気がする。それをぼんやり眺めながら、哲は小さく溜息を吐いた。
「そりゃお前、軟化するってことはイコール突っかかってこねえってことだろ。ちょっとこう、鼻が右側に曲がってたから、真っ直ぐにしてやる機会があるといいなあなんて思ってたのによ」
「……」
「だから連絡先交換なんて──おい、何肩震わせて笑ってんだコラ、クソ虎」
「いやいや、お前があんまり可愛いから」
「頭おかしいんじゃねえのか」
「ああ、まあお前に関しては大分おかしいだろうな」
 ようやく笑いを収めた秋野は持ったままだったグラスをカウンターに置き、煙草の灰を払った。
「そういえば、この間知り合いから連絡があって、お前の高校時代の彼女の兄貴」
「隆文さん?」
「ああ、それだ」
 仕入屋はまるで車の後部座席にその人物を放り投げたときのように無造作に言った。この男は故意に慇懃無礼な振る舞いをすることはあっても本質は無礼ではない。それなのにこういう物言いをする裏には何があるのか、考えたくないから考えることはしなかった。
「彼を脅してた──木下? あの男は小物だが、色々なところに手を出してたらしいな。俺の知り合いでたまたま木下を黙らせたいって言ってるのがいたから今回の件も話しておいた。まあ、だから今後は大丈夫だ」
「……あのよ、まさかとは思うけど死んでねえよな?」
「元気に生きてる」
 頷く秋野はいかにもそんなことはどうでもいいと言いたげで、だからこそ本当のことだと分かってほっとした。木下にも隆文にもどんな感情も興味もないが、いくらなんでも死んでもいいとは思っていない。
「……てめえは物騒すぎんだよ」
「そうか? 今の俺なんておとなしくてかわいいもんだぞ」
 隆文のことなんて気にも留めていないくせに。
 それでも秋野が知り合いとやらにこの話をしたのは、何も哲のためではないだろう。
 哲はカウンターに両手をついて笑う秋野を睨みつけ、立ち上がって秋野の胸倉を掴み寄せた。不意打ちに秋野が少しだけ驚いたように身じろぎする。無理矢理引っ張ったニットの網目を指先に感じる。
 思い切り噛みついたら秋野の唇が僅かに切れて血が滲み、酒と煙草と錆の匂いが舌の上で絡まった。
「──おとなしくてかわいい? 要らねえよ、そんなもん。気色悪ぃ」
 唸るように言った哲の唇の上で、秋野が喉の奥を鳴らすようにして低く笑った。