仕入屋錠前屋75 笑っていて 2

「それってやっぱり運命よね! てっちゃんが出刃包丁でぶった切ろうとしても切れないナイロンザイル並みの赤い糸ってやつよねえ」
 訳の分からないことを言ってげらげらいながら、エリは煙を盛大に吐き出した。
「何が運命だよ、勘弁してくれ」
 ぶるりと身を震わせ、哲は溜息を吐きながら煙草を銜えて火を点けた。
 まさか米谷をぶん投げた先に人がいるとは思わなかったし、しかもその中に仕入屋がいるとも思わなかった。あんな場所で宴会をしていたわけもないだろうから、仕事だったに違いない。
 米谷が哲の名前を言った途端、大げさではなく周囲の気温が五度くらい下がった気がして毛が逆立った。哲に惚れているとかなんとか寝惚けたことを言っていても仕事を邪魔されへらへらしている男ではないから、咄嗟に米谷も持って──荷物ではないが似たようなものだ──逃げてきた。別に置いてきてもよかったが、勢いというやつだ。
 途中で服部に連絡を入れてみたらあの後店は嘘のように閑古鳥が鳴いているらしい。そのまま直帰してくださいと言われたからそうすることにした。戻ってもよかったが、怒れる仕入屋の襲撃を受けたくないならバイト先と自宅はまず近寄ってはいけない場所だ。
「それで逃げてきたわけ」
「一時的な避難つーか」
「まあ、お客様が増えてうちはいいけどさ」
 エリは剥き出しの肩越しに背後を振り返った。ちなみに、今日のエリのドレスは白っぽいが、光の当たり具合で色が変わる。哲が見るなり「アコヤ貝」と呟いたら思いっきり背中をどつかれた。
「楽しそうねえ」
「まったく。誰のせいだと思ってんだか」
 米谷は走りながら散々文句を垂れていたが途中でさすがに息切れして何も言わなくなり、アイーダに着く頃には炎天下の犬みたいになっていた。エリが客についていたのでたまたま手が空いていたみづきに任せて適当に座らせておいたのだが、すっかりお客さんになって楽しくなってしまったらしい。
 そうなると哲への腹立ちもどうでもよくなってしまったようで、何だか知らないが連絡先を交換させられた。ついでに民泊をやっているからいつでも連絡をくれと営業もされた。はっきり訊いたわけではないが、十中八九違法民泊だ。利用する予定なんか勿論ない。まあそんなことはどうでもよくて、いずれにしても喧嘩相手が一人減ってしまったということだ。
「で、思い出せた?」
 エリは足をぶらぶらさせながら言う。哲とエリが座っているのはカウンターで、他には端っこに常連のおっさんが一人いるだけだ。
「全然。大体、今までに何人と喧嘩したと思ってんだよ? いちいち顔なんか覚えてねえよ」
「それもどうかと思うわあ」
「何となく俺が折った鼻かなあとは思うんだけどよ」
「何それぇ? 俺の折った鼻とか、そんなの分かんの?」
「いや、分かるっつーか、こう殴ったらああ曲がるかなあっつーか。そう思うとこう手応えが何となく蘇るっつーか……」
「何かおかしいわ絶対その機能!」
「俺は家電か」
 目の前に置かれた酒に口をつけて顔を顰める。エリが勝手に持ってきたから何かよく分からないが、やたら度数が高い。
「どうすんの、この後」
「どうするって何が」
「だって、部屋に戻れないんでしょ? ほんとはうちに泊まりなさいよって言いたいとこなんだけどさあ、実はこの間からミホが住み着いちゃってんのよねえ。カレシと別れて部屋追い出されたとかって」
 ミホというのはアイーダのホステスの一人で、エリと同じ所謂ニューハーフだ。
「いや、別に頼むつもりねえけど、そうなのか」
「そうなのよぉ。でもねえ、そろそろ出てってくんないかなあと思ってはいるのよねえ。いい子なんだけど掃除も洗濯もしないしいびきがすごくて……って話が逸れちゃったじゃないの!」
「逸らしたの俺じゃねえけどな」
「そうだったっけ? まあどっちにしろ、GPSは埋め込まれちゃってるわけだし、帰ろうが帰るまいが探知されちゃうわよね」
 真顔で言われたから真顔で返す。
「いや埋め込まれてねえし。別のもんはしょっちゅう突っ込まれてっけどな」
「やっだあ! やだもうてっちゃんたらヤダー!!」
「うるせえな、落ち着けよ」
 にやにや笑う哲の背中にエリがどすどすと拳を打ち込んだ。
「痛えな」
「ああもう、真顔でからかうの止めてよね! 取り乱しちゃったじゃない! まあでも、秋野はあれね、短距離弾道ミサイルみたいなもんね! 狙いは外さず破壊するっていうか!?」
「怖えから止めろその例え……」
 本気で青くなる哲を見て人の悪い笑みを浮かべたエリは、真っ赤な口紅がついた吸殻を灰皿に押し付けた。
「それは冗談にしても、謝らないとだわねえ」
 力なく項垂れる哲の背中をエリが宥めるようにぽんぽん叩く。ついつい丸くなる哲の背に、米谷の馬鹿笑いが当たって跳ね返った。

 そういうわけで、哲はものすごく気が向かないながら秋野にアイーダにいると連絡を入れた。勿論、これだけ目撃者がいれば少なくともこの場で絞め殺されることはないだろうという姑息な意図あってのことだ。
 普段なら秋野が怒ろうがどうしようが正直どうでもいいのだが、今回は全面的に哲が悪いからしおらしくするしかない。
 結局最後まで何だか分からなかった酒を舐めていたら、背後に人が立った気配がした。気配を消すなんて朝飯前の奴だから、この威圧感は勿論わざとだ。
「……」
「逃げ足は速かったな」
 低い声は穏やかだったが、明らかに脅しつけるような響きがある。恐る恐る振り返ったら、仕入屋は思ったより近くに立っていた。
 仕立てのいい細身のスーツは濃紺。ノータイで白いワイシャツは第一ボタンだけ開けてある。崩れた雰囲気はないが、会社員にはやはり見えない。アイーダのダウンライトのせいで薄茶の目は透けた黄色に見え、黒い瞳孔が妙に目立って獣っぽかった。
「……邪魔して悪かった」
 重圧に負けて言うと、秋野はゆっくり瞬きし、ごく僅かに首を傾けた。だから、その動きと顔は肉食獣みたいで嫌なんだっつってんだろうが、と毎度思うことを腹の中でまた思ったが、今口に出すことではないから黙っていた。
 何も言わずに暫し哲を眺めていた秋野の目の冷たさがふっと緩み、普段と変わらない顔になって、哲は思わず詰めていた息を吐いた。
「わざとじゃないのは分かってるが」
 溜息を吐き、さっきまでエリが座っていたスツールに腰掛ける。煙草を銜えて火を点け、煙を吐き出しながら秋野は言った。
「物を投げるときは落ちる先をよく見て投げるんだな」
「──何か壊れたのか」
「何で」
「いや、何か割れる音したし」
「いらっしゃい」
 カウンターの中からママが手を伸ばし、秋野の前に水割りか何かのグラスを置いてにっこり笑いかけるとすぐいなくなった。多分、エリから何か聞いているのだろう。
「……それに、ただぶっ倒れただけならあんな怒んねえだろうし」
「怒ったって何で分かる」
「そりゃお前、あの場の空気が凍ったろうが。俺の名前が出た途端に」
 秋野はちょっと笑って、薄茶の目を細めた。
「まあ、通りすがりの他人ならともかくな──商品が割れたんだ」
「……ええと……」
 さすがにどう言っていいか分からず黙り込む哲を一瞥し、秋野は前髪をかき上げた。米谷の──すっかりただの客と化している──笑い声がまた響き、別のテーブルからもホステスたちの嬌声が上がった。誰もが色々忘れて束の間笑いに訪れる場所の片隅で、仕入屋は重い溜息と煙を一緒くたに吐き出した。
「このくらいの」
 秋野は銜え煙草で、両手で大振りのグレープフルーツくらいの大きさを示して見せる。
「磁器で、用途は知らんが、まあ小さい花瓶みたいなもんだ。元々生きてる人間の作品にしちゃ結構な高額で売り買いされてたんだが、つい先月その作者ってのが心筋梗塞で急死して値が跳ね上がったらしい。病気はしてなかったって言っても高齢だったんで意外でもなかったみたいだけどな」
 俺が──というか、正確には俺が投下した米谷が──壊したそれは幾らだったんだ、と訊ねかけたが恐ろしいので止めておいた。
「あんな道端で壊れ物の受け渡しするのはまずいって何遍も言ったんだが、誰にも見られたくないとかで客が言うこと聞かなくて。素人さんの浅知恵には参るよ。まあ正規のルートで手に入れたわけじゃないから気持ちは分かるが」
「盗品か?」
「いや、違う。似たようなもんだけど、厳密には」
「──真面目な話、故意じゃねえけどほんと悪ぃ」
 もう一度謝ったら、秋野は煙草を灰皿に押し付け、丁寧に揉み消した後、にっこり笑って哲を見た。いっそ美しいと言ってもいいその笑顔に失敗した、と思ったものの後の祭りだ。
「じゃあ、勿論頼まれてくれるよな?」
 頷く以外一体どうしろというのだろうか。憮然とした哲の頭の上を、カルアミルクお願いしまぁすとやけに低い裏声が飛んでいった。