仕入屋錠前屋75 笑っていて 1

 哲はその日、服部と二人、繁華街のど真ん中のコンビニのレジに並んでいた。
 哲の勤める居酒屋は要するに居酒屋らしい居酒屋で、ビールとハイボール、それから何とかサワーとかいうのが酒の売り上げの大半を占める。メジャーなカクテルは一通りあるが、それは某酒造メーカーの出来あいのもので、味も値段もそれに見合ったものでしかないし、客もそれ以上は求めてこない。
 しかし、最近店主が娘から仕入れた情報によると、やはり女の子はなんたらミルクとかいうカクテルが好きらしいとか何とか。そうは言っても牛乳が飲めない女だっているのだし、昨今の居酒屋のドリンクメニューを見る限り、情報の真偽は限りなく怪しい。そもそも店主の娘は下戸なのだ。
 ただ、酒と牛乳を混ぜるだけで済むのならそれもいいかと店主が軽い気持ちで始めたのが、目新しかったからか今日は思った以上によく売れた。それで、哲が服部と連れ立って、近くのコンビニまで念のため牛乳を買い足しに来たというわけだった。
 一人で済む用事に何故二人で来たかと言うと、休憩中だった服部が呼んでもいないのについてきたからだ。女子学生でもあるまいし仲良くお買い物と言うのも柄ではないが、ムキになって嫌がるほどのことでもない。
 飲んだ後の夜食かそれとも朝飯か、おにぎりを買う会社員が溜息を吐いている。
 ストッキングを手に持ったホステスらしき女、アイスクリームとビールを籠に入れたカップル、漫画雑誌を立ち読みする若い男。店内は他のコンビニがやや遠いせいと駅の出入り口に近いせいでいつも混み合っていて、今日も普段通りだった。
 領収書を受け取っている服部から牛乳が二本入った袋を預かる。列から離れようと振り返り、真後ろに立っていた女の後ろ、坊主頭の男と目が合った。
 右手にはスポーツ新聞とペットボトルの炭酸飲料。顎先に髭を生やし、ピアスをしているから会社員ではなさそうだ。真っ赤なパーカーにだぶついたジーンズを穿いた男は、哲と同年代に見える。小柄で、前に立った女と背丈はそう変わらない。
 男が一瞬考えるような顔をしたが、結局それ以上の反応はなかった。知り合いだろうかと思ったが顔に覚えがない。哲は男のことなどすぐに忘れて自動ドアに足を向けた。

「いつ来ても混んでますよね、ここ」
 服部が店内から出てくると、外気よりは暖かい空気が服部にまつわりつくように流れ出てきた。お互い店の前掛けをしたまま私服の上着を羽織っているのでおかしな格好だ。やたら明るいコンビニを背中に背負って、近くに立つ服部の顔が黒っぽく陰になって見える。
「この辺他にコンビニねえからな」
「そうですね。飲み屋ばっかりですもんね」
 辺りを見回す服部の後ろでガラスの自動ドアが開き、先ほどの男が現れた。
「佐崎さん、持ちますよ」
 服部が呼んだ名前に、立ち去りかけていた男が足を止めてこちらを振り向く。哲が男を一瞥すると、男はササキ? と独り言にしては大きな声を出した。
「は?」
「お前……っ! 佐崎哲か!」
「だったら何」
 顔に覚えはないが、どうやら知り合いだったらしい。離れたところに立っている男の僅かに曲がった鼻筋を暫し見つめ、哲は内心膝を打った。誰なのかは依然不明。だがあの鼻の曲がり方は、多分自分が折ったに違いない。
「佐崎さん。誰ですか?」
「いや、それが誰かは全っ然分かんねえけど、アレ多分俺の仕業だと思うんだよなあ」
「は?」
 服部はわけがわからないという顔をして、近づいて来る男と哲の顔を交互に見た。
「だから、あの鼻折ったの俺だと思う」
「花?」
「覚えてねえかよ、俺のこと」
 服部を文字通り手で押し退けて、男は哲の前に立った。曲がった鼻より何より恨みがましい目付きが過去の男との関係を雄弁に物語ったが、やっぱり名前は分からない。
「すみませんけど、覚えてないんすよ」
「米谷だよ、米谷」
「ヨネヤさんね──同じ学校か何かでしたっけ?」
「すっとぼけてんじゃねえぞ! この……」
「すみませんね」
 首筋から徐々に赤くなっていく米谷の顔を見つめながら、哲はでも、と首を傾げた。
「その鼻、俺ですよねえ、折ったの」
「てめえ覚えてんじゃねえか!」
「いやだから覚えてはいねえよ」
 米谷は手に持っていたビニール袋──スポーツ紙とペットボトル入り──を地面に叩きつけて、哲に掴みかかってきた。右手には牛乳を持っていたから、左手で伸びてきた手を払い、足を引っ掛けた。米谷が顔から地面に倒れ込み、危うくタックルされかけた服部が飛び退った。
「うわあ!?」
「あ、悪ぃ。そっち飛んだ?」
「佐崎さんっ! 水飛沫じゃないんですからっ」
 服部の必死な顔がおかしくて思わず笑う。哲の足元で米谷がのっそりと起き上がった。転んだ時にぶつけたのか、鼻血が出ている。
「あら大変、また鼻が」
 わざとらしく目を瞠る哲に向かって米谷が喚く。
「この野郎!」
 哲は突っ込んできた米谷をかわし、服部に牛乳パックの入ったレジ袋を放り投げた。
「服部、先帰って言い訳しといて。俺ちょっと戻るの遅れるわ」
「はい、え、でもあの佐崎さんはっ」
「悪ぃけどちょっと遊んで帰る!」
 米谷が鼻を抑えて哲に追い縋る。服部は目も口も丸くしてこちらを見て突っ立っていたが、哲はさっさと顔を前に向けて人ごみを縫って走り出した。
 別に今ここで喧嘩してはいけない理由はないが、何せ中心部に近すぎて人が多すぎる。邪魔くさいし、最寄りの交番にも近いから通報されたらあっという間に警官が飛んできてお楽しみは終わってしまうに違いない。そんな勿体ないことだけは何としても避けたいし、喧嘩ごときで警察と関わるのはご免だった。
 後ろで何やら吼えている米谷との差が広がり過ぎないよう気をつけながら、哲は道端に座り込んで携帯に叫んでいる外国人らしき若い女の脚の上を飛び越えた。

「やべ……!」
「うわあ!?」
「わあああああ」
「危な──」
「痛!!」
 一遍に色んな声と音が重なり合い、その場は一時混乱を来たした。
 米谷から適当な距離を取って通りを走っていた哲は、右に曲がって脇道に入ろうとしていた。人通りはないはずで殴り合っても通報されない場所のはずだった。
 昨今の不景気のせいか、道の両脇に並んだ飲食店が何故かまとめて店仕舞いした。どうせすぐに別の店が入りそしてまた潰れ、永遠に繰り返して行くのだろうが、とにかく今は極端に人通りが減った状態だ。道は細くて狭いし、暗いし、ギャラリーもいない。そう思って突っ込んだのだが、目論見は些か外れた。
 意図的に速度を緩め、米谷が背後に迫る状態にする。実際、途中までは思っていた通りになった。米谷は哲の襟首を捕まえ、哲は米谷の手を襟元から引っぺがし、反動を使って背負い投げの要領で放り投げた。その先に人影があることに、投げた瞬間気が付いたが遅かった。
 米谷が数人の男の輪の中に投下された。集団はもつれ合って倒れ込み、怒声と悲鳴と何かが割れる音が飛び交った。
 もがくようにして跳ね起きた米谷が「佐崎哲っ! この野郎!」とご丁寧にフルネームで呼んでくれた瞬間、冗談抜きで哲のうなじの毛がわっと立った。
「──やべえ! うわちょっと悪ぃけどまた今度!」
「はあ!? 何言ってんだてめえ! ぶっ殺す!! 佐崎哲っ!」
「てか名前呼ぶな!」
 牛のように突っ込んできた米谷をかわし、哲は肩越しに振り返った。米谷の爆撃を受けて転がった人間たちが起き上がっている。その中に頭一つ飛び出した長身の影が見えた。
「こら避けんじゃねえ、佐崎哲!」
「ああ、もう、呼ぶなって言ってんじゃねえか!」
 地団太を踏みたい気分で殴りかかってきた米谷の拳を避け、腕を掴む。
「とりあえず走れ!」
「はあ!? ちょっと待──」
 引っ掴んだ米谷の腕を握ったまま、哲は路地裏から脱兎の如く逃げ出した。