仕入屋錠前屋74 光の渦 7

「二、三……五人? この間より少なかったのか」
 聞き慣れた声がして振り返ると、秋野が立っていた。
 ついさっき部屋にいた時の格好に上着を羽織っただけだが、相変わらず敏腕スタイリストがついているんじゃないかと思わせた。そのくせ髪は──普段を知らない人間にはそういうスタイルに見えるだろうが──乱れたままで、自分がそうしたことを嫌でも思い出し、哲は内心で舌打ちした。
「何でここにいるんだ、てめえが」
「この間のとこって書いてあったろ、さっきのメッセージに」
 秋野は哲の周りに転がる、隆文以外の五人の男たちを見回した。その様子はまさに睥睨、という感じで、悠然としたその仕草に、それだけで頭に来る。
「今回は顔に気は遣ってないのか」
「ああ、まあな」
「どれだけ脅したんだ」
「別に。今後も続けるなら俺がお前に同じことするからなっつっただけ」
「ふうん」
 そう言って億劫そうに歩み寄ってくると、秋野は俯せに倒れたままの隆文を眺め下ろした。一応さっき確認したが、呼吸も脈拍も多分正常だった。鼻血は出ているし顔も腫れてひどいことになっているが、そんなものは時間が経てばいつか治る。
「これが昔の彼女の兄貴か?」
「そう」
「優しそうな顔してるのにな」
「意識ねえからな。目ぇ開けてっと、やっぱどっか変だぜ」
「生きてるんだろう?」
「見りゃ分かんだろ」
 秋野はついさっき哲がしたように隆文を跨ぎ、哲の前に立った。
「大丈夫か?」
「ああ? どこが。一発ももらってねえぞ」
「そうじゃない」
「ああ……いや、色々教えてもらったのは事実だからそういう意味では感謝してっけど、元々別に好きでも嫌いでもねえし。付き合ってた子の兄貴だから、一応最低限の気は遣ってたっつーだけで」
 秋野は片笑みを浮かべて屈み込み、哲の口角をべろりと舐め、哲が止めろ馬鹿、と言いかけたのを遮るように唇に噛みついてきた。
 思わず開いた口の中に舌が潜り込む。顎を掴まれ口を開かされたまま舌を絡められて、濡れた音がやたら大きくあたりに響いた。
「う──」
 低く呻く声が聞こえてぎくりとし、自分の喉の奥から漏れた声だと気付いて力が抜ける。開きっぱなしの口の端から垂れた唾液が秋野の手を濡らす。自分の手と哲の顎をべろりと舐め、秋野は哲の鼻先で囁いた。
「──どうでもいいなら、どこか遠くに捨ててきてもいいか?」
「はあ?」
「だから、昔の彼女の兄貴」
 秋野の言い方にぞわりと背筋が粟立った。穏やかで、甘ったるく掠れた猫撫で声。女ならうっとりしそうなその口調は、どちらかというと危険信号だと哲は知っている。歯を食いしばって眼前の薄茶の瞳を睨みつけながら、哲は、顎を掴む指をこじ開け引き剥がした。
「つまんねえ冗談言うんじゃねえよ。そんなことする意味ねえだろうが」
「お前になくても俺にはある。まあでも、止めておくよ」
 低く笑いながら身体を離した秋野は、踵を返し、微かに動いた隆文の顎を容赦なく蹴っ飛ばした。元々戻っていなかった意識を更に遠くに飛ばされた隆文からぐったりと力が抜ける。
「えげつねえ」
「そういう俺がいいくせに、今更何だ。行くぞ」
「いや行くぞじゃねえよ、せめて隆文さんだけでも回収する」
「面倒だな」
「うるせえなあ、手伝え」
「まったく……」
 秋野は心底面倒くさそうな様子で、それでも隆文を抱え上げ、肩に担ぎ上げた。
「おお、米屋!」
「うるさいね。何ならお前が担げ」
「いえいえ、お任せします。つーかお前車?」
「いや。知り合いに送ってもらった。このお兄さんが乗ってきたらしいのが裏にあった。そっちも回収しないと」
「ああ、そうか」
 車のことはまったく考えていなかった。倉庫から出て裏手に回り込むと、確かに隆文の車が停めてあった。哲が秋野の背中側に回り、隆文のデニムを探ったら尻ポケットからキーが出てきた。
 ロックを解除して後部座席のドアを開ける。秋野は怪我人だということを忘れたのか、それとも──絶対こちらだと思うが──わざとなのか、それこそ米袋を放るように隆文を車に押し込んでドアを閉めた。
「ちょっと待ってろ」
 そう言いおいてぶらぶらと倉庫の方へ戻って行く。運転は面倒だから助手席に座って待っていると、少しして秋野が戻って来て運転席に乗り込み、エンジンをかけた。
「何やってたんだ」
「あっちの車な」
「タイヤをどうにかしたとか?」
「何で──ああ」
 秋野は目を瞬き、おかしそうに笑った。
「アクション映画の追手がかかるシーンじゃあるまいし。車検証の写真を撮って来ただけだ。あとは全員の顔と、それから免許証、財布に入れてた奴は、保険証もな」
「……」
「何だよ」
「何でもねえよ」
「浮気相手の嫁の兄貴がしつこいようなら言えよ。何とでもしてやる」
 秋野は何でもないことのように言って低く笑い、車を出した。
 その台詞と行動を優しいとか、親切だとか、そんなふうには思えないし、多分違う。だが、だとしたら隆文にとっての自分の行動はどうなのだろうと少しだけ考えた。
 そんなつもりではなかったし、優しさだと思ってほしくもない。隆文のことだからそんなふうには思わないだろうが──そこまで考え、どうでもいいと思い直した。
 どう思われたって別に構わない。どうせもう会うこともないだろう。
 後部座席に転がる赤く腫れた顔を一瞥し、哲は煙草のパッケージを取り出した。

 秋野は近くの救急病院に、隆文のスマホから本人と偽って電話をかけた。曰く、離婚した妻の彼氏に襲われて怪我をした。事実とは少し違うが、億劫そうにしていたから、もっともらしい説明を考えるのが面倒だっただけに違いない。まあ、後で齟齬があっても朦朧としていた、で納得してもらえる範囲だろう。
 駐車場に車を入れた秋野は隆文を抱えて病院に入り、駐車場で倒れていたとかなんとか言ったらしい。常備しているらしい黒いカラーコンタクトレンズまで嵌めて、隆文の次は善意の通行人に成りすました米屋ならぬ仕入屋は、鼻歌でも歌いそうな風情で哲のところへ戻って来た。
「不審がられなかったのかよ」
「いい人だって感謝されたぞ。受付の職員に」
「騙されやすい若いお姉ちゃんだったんだろ」
 秋野はにやりと笑ったが、コンタクトレンズのせいで無害な男前にしか見えなかった。
「それ」
「うん?」
 隣を歩く哲を見下ろしながら、秋野は僅かに首を傾けた。
「カラコンつけてっと、あんまりいかがわしく見えねえからだろ」
「ああ、お前は嫌いだよな」
「──光が」
「え?」
「……何でもねえ」
「何だよ」
「くだらねえことだから別にいい」
 秋野の瞳に光が当たると、虹彩が煌く。間近で覗き込んだ時にだけ見える本当に小さな光。ちらちらと輝くそれが好きだ。
 それが例え、誰よりろくでもない男の目の中の光でも。もしかすると、それだからこそ。
 秋野は喉を鳴らすように低く笑い、立ち止まった。哲は秋野には構わず歩を進めたが、少し行ったところで呼び止められた。
「哲」
 光の当たり方で黄色にも金色にも鳶色にも見える、薄い茶色。酒と同じ色の目をした男は唇の端を曲げ、わざとらしく甘い声で哲を呼んだ。
「おいで」
 呼ばれたからって誰が行くか、と思うのに、意志に反して足は止まる。
 恐れか。無意識の屈伏か。そう思うだけではらわたが煮えくりかえり、喉笛に食らいつきたくて堪らなくなった。
 どうせ、逆に貪り食われると分かっていて。
「──ああ、くそ……」
 呻きながら踵を返し、腹の底で鎌首をもたげたものにもう少し待てと胸の内で呟いた。
 病院に置いてきた隆文のことが一瞬頭を過る。あの時、別れた妻を見ていた隆文も、ぞろりと蠢く何かを感じただろうか。決定的に何かを欠いた己の中に、それでも存在する何かが渦巻くその感触を。
 胡散臭い笑みを浮かべた秋野の前に立ち、沈みかけた橙色の太陽の眩しさに、哲は思わず目を細めた。
「いい子だ」
「何がいい子だ、胸糞悪ぃんだっつーの、くそったれ」
 不機嫌に吐き出す哲の眼前で、夕陽より美しく暗い何かを目に浮かべた男は笑う。そして、哲が掴むはずはないと分かっていて、それでもその手を差し伸べた。

 

 
 光の渦が見えた。
 とてもきれいだと思った。
 そう、あれは殴られ、蹴られて倒れる寸前だった。
 嘗て試合では負けなしだった。それなのに、あっという間に五人に取り囲まれていいように攻撃された。
 試合では後ろから蹴飛ばされたりしない。組み付いてきた奴らに拘束され、サンドバッグみたいに殴られるままになることもない。
「試合じゃねえんだから、ズルが当たり前なんだよ」
 何となく哲がそう言ったのを聞いたような気がして目を開けた。

 目を開けた途端いきなり頬を叩かれて、隆文は朦朧としながらもものすごく驚いた。
「馬鹿!!」
 誰かに怒鳴りつけられて頭の中で疑問符が明滅し、わあわあ泣く声と、もう一遍叩かれた衝撃で少しだけ頭がはっきりした。
「馬鹿ぁ!」
「駄目ですよ、お兄さんは今……」
「いいんですっ」
 うっすらと目を開けたら、白い天井が見えた。病院だな、と思う。意外でもなんでもない。あの場で意識を失ったのなら、目覚めたときに見る天井は多分何パターンかしかない。病院か、拉致監禁向きの汚い部屋か。
「馬鹿! 馬っ鹿じゃないの!」
 昔から仲がいい兄妹ではなかった。特別不仲だったわけではないが、必要以上の接触がないという意味では、学校の友人よりも疎遠だった。もっと年が離れていれば違ったのかもしれないと思ったこともあるが、そんなのは考えたって仕方のないことだった。
 うわああ、と子供みたいな声を上げて、菜穂は隆文の腹のあたりの布団にしがみついて泣いた。
「死んじゃったらどうしようかと思ったんだからあ!」
 涙で顔をぐしゃぐしゃにして菜穂は泣いていた。
 そんなふうに泣いてくれる人がいるなんて思ったこともなかった。卑下したわけではなくて、自分がそうだったから、家族のために泣けると思わなかったからだ。
 妻の浮気が発覚したときに感じた何か。もやもやとしたそれは結局今も形にならないまま漂っている。嫉妬なのか、悲しみなのか、それとも怒りか。
 自分が人として大事な何かを欠いているのだと分かっていても、元々持っていなければ何を持っていないのかなんてわからない。欲しくて欲しくて駄々をこねていると分かっていても、何が欲しいのか分からないのだから始末に負えない。
 そんなことが分からないほど馬鹿ではないが、諦められないくらいには馬鹿だった。
 泣き続ける菜穂を見下ろし、隆文は腕を持ち上げた。
 ゆっくり伸ばしたそれが菜穂の頭に触れ、指の間を髪がすり抜ける。そういえば、昔はもっと赤茶けた色をしていた気がする。今指先に触れるそれは落ち着いた栗色に染められていた。
「菜穂」
 ものすごくしわがれた声が出た。まるで老人が発するようなかさついた声が。
「ごめん」
 くしゃくしゃと髪を撫でたら、菜穂の泣き声が一瞬止まり、その後はお兄ちゃん、お兄ちゃん、と繰り返し言いながらまたわんわんと泣いた。
 多分、ショックもあるはずだ。菜穂だって落ち着けば、なぜ大して好きでもない兄のためにそんなに泣いたのだろうかと思うだろう。そんなことは分かり切っていて、それでも胸を苦しくさせるこれは何だろう。
 看護師が菜穂の肩に触れようとしたから、彼女に目を向けて大丈夫だと頷いた。
「ごめん……」
 腹の上の菜穂の身体は、まだ仲良く並んで過ごすことが多かった子供のときのように熱く、そして多分──
 愛しかった。