仕入屋錠前屋74 光の渦 6

 組み敷かれ圧し掛かられて、哲は喉の奥から荒々しい唸り声を漏らした。興奮と憤怒を同時に感じる。黒い髪を両手で掴み、思い切り引っ張って頭を引き寄せた。噛みつき、舌を絡ませながら、自由になろうとしてもがく。
 繋がりたいのか、蹴り飛ばしたいのかよく分からない。常に相反する衝動が身の内にあって、どちらが勝つかはその時の気分次第だ。どちらが軍配を上げるにせよ、やっていることは結局同じで、男として納得はできない。だが、仕方ないと諦めてはいた。
 秋野の息が首筋にかかる。舌が肌の上を這い、低い声で名前を呼ばれてぶるりと身震いした。ベルトを外す金属音がしたと思ったら突然直接握られて、思わず掠れた声が漏れる。ぐるぐると濁った音がする。獣が歯を剥き唸るのとよく似た音。ややあって、それが自分の喉から出ている音だと気が付いた。
 秋野がおかしそうに笑って哲の喉元に歯を埋めた。掴まれたものも身体もびくりと跳ね、それと同時に着たままの上着の中から振動が伝わって来た。
 無視しようかどうしようか、と考える間もなく秋野の空いている方の手が上着を探って振動の元を探り当て、液晶をこちらに向けてきた。着信ではなく、メッセージアプリのプレビューが表示されている。
「……」
 手こそ引っ込めたが哲の上に覆い被さったままの秋野からスマホを受け取り、溜息を吐いてアプリを開く。
 プレビューで一部だけ見えていたのは隆文からのメッセージだった。
「この間の?」
「……ああ。助けてくれってよ。しかしこの時間に仕事は──ああ、今日日曜か」
 仰向けになって頭上にスマホをかざしたまま、哲は、隆文が電話を寄越さなかったのはどうしてだろう、と何となく思った。
 この間隆文のマンションに寄ったとき、離婚した妻が来ていた。雰囲気は決してよくなかったから、よりを戻すという話ではないはずだ。だとしたら考えられるのは木下のことくらいで、大方元妻のところにも木下か、仲間が現れたという話だろう。
 隆文は、今まで哲が見た中で一番人間らしい顔をしていた。本人がどう思っているかは知らない。だが多分、隆文は本当にあの女が好きで結婚したのだ。そして、今でも彼女に未練がある。
 エレベーターに乗り込もうとしたら呼び止められた。何を言う気だったにせよ、隆文はそれを引っ込めた。元妻と会ったからなのかどうかは知らない。知らないが、隆文の目の中に、哲には何か分からない感情の揺らぎのようなものが見えていた。
 起き上がろうとしたら秋野に阻まれ、哲は、肩を押されてまたベッドに仰向けになった。
「退け。行く」
「助けにか?」
「仕方ねえ。行けるときは行くって言っちまったからな」
「今は行けるときなのか」
 秋野は人の悪い笑みを浮かべた。黄色っぽく見える色の薄い瞳は面白がっていることを隠そうともしていない。そして、裏腹に面白くないという思いもまた、隠そうとしていなかった。
「退けっつの」
 寝転がったまま足を蹴り出したら足首を掴まれた。ベルトとボタンが外され、寛げられたままの股間に目を落とし、秋野はわざとらしく首を傾げた。
「そのままで?」
「んなもんお前、そのうち治ま」
 まるで蛇のように素早く絡みついてきた指に引き摺り出され、気が付いたら頭から食われていた。
「……っの、てめえ勝手に人のもん銜えてんじゃねえぞコラ!!」
「いちいち許可がいるのか」
「そこで喋んな! てか、退──!」
 哲の声にならない抗議の声は、掠れ、上ずり、高い天井に向かって力なく消えた。

 哲はまだ腹を立てながら、銜えていた煙草を摘んで携帯灰皿に突っ込んだ。
 灰皿をポケットに捻じ込んだ拍子に傷が擦れ、痛んで舌打ちする。勝手にしゃぶられ強制的にいかされて猛烈に腹が立ち──一応左の拳で──思い切り殴ったら秋野の歯にぶつかって皮膚が切れた。
 突っ込まれていた最中でもあるまいし、多少我慢すればすぐに落ち着く。抜いてもらう必要なんかないわけで、要するに嫌がらせされたというだけだ。走り去るタクシーをぼんやり見送りながら、哲は空に向かって最後の煙を吐き出した。
──この間と同じ倉庫でこれから木下に会ってきます
──ほんとに結構しつこいね
──暇だったら助けてください
 隆文のメッセージはそんな内容で、焦った様子もなく、文面だけ見れば長閑なものだった。
 哲はタクシーと反対方向に向かって歩き出した。隆文がどの段階で連絡を寄越したかは知らないが、走ったところで仕方ないし、そこまでの義理はない。
 この間来たばかりの倉庫の前に、黒っぽい色の車が二台停まっているのが見えた。どちらもぞろ目のナンバープレートなのが分かりやすい。派手なアルミのホイールが傾き始めた太陽を反射してぎらぎら光っている。隆文の車は見えないが、反対側に停めているのかもしれない。
 急がず重たい金属のドアを引いて中に入ると、立っている男が五人、床に倒れているのが一人いた。
「……何だよ、頭数少ねえのか、この間より」
 ぶつぶつ言いながら寄って行くと、倒れているのは隆文だった。まあ、状況からしてそれ以外にはないのだが。
 木下がこちらに気づいて顔を上げ、険しい表情を浮かべた。
「てめえこの間の……」
「死んでねえよな?」
 隆文は俯せになっていて顔は見えない。常識的に考えればこれから金を取ろうという相手を殺すわけはないが、一応訊ねる。最近は何事につけ、加減というものが分からない奴が多い。
「はあ? 生きてるに決まってんだろ。死んじまったらどうやって金出させんだよ」
 果たして、木下は賢明にもそう宣った。
「確かに」
 頷きながら、哲は残りの四人の顔を見回した。一人は前回見た顔だが、あとの三人は違うようだ。
「お前、松川の何だ、友達か」
「いや、後輩だけど。高校の。それが何か関係あんの」
「……ねえよ、別に。どうでもいいし」
「ああ、そう」
 哲は肩を竦め、もう一度倒れた隆文に目を向けた。まったく動かないのは気を失っているからだろう。五対一。哲ならなんてことはないが、試合という枠の中でしか戦ったことがない隆文には酷な人数差だ。
「てか相手は素人さんなんだから手加減しろよ」
 溜息を吐いたら、木下は舌打ちした。
「その割に抵抗しやがって」
「空手やってたんだよ、この人。大会とか出て、いつもすげえ強かった」
「ああ?」
 木下は足元に転がる隆文を爪先で蹴飛ばし、哲に刺々しい視線をくれた。
「それでかよ。喧嘩なんかしたことねえ感じのくせしてやたらと──むかつくんだよな、型とか組み手とかよ、ルールの中で遊んでるくせして殴り合ってますみてえなツラして、綺麗なままでよ」
 忌々し気に吐き捨てる木下の言い分は、まったくもって不良学生のそれだ。
「あんたの言ってることは分かるけど」
 いい年して子供じゃねえんだから、と付け足すのは止めておく。
「ああ?」
「いいだけ痛めつけたろ。放っといてやれ、もう」
「うるせえよ」
 木下は険しい目を哲に向け、もう一度隆文を蹴飛ばした。
「はいそうですかって止めるかよ。金持ってんだよ、こいつ。妹の辛さを換金してもらったっていいよな? それに、お前に関係ねえだろ」
「関係ねえけど、助けてくれって言われたし」
 この間哲一人にやられたことを忘れてはいないだろうが、木下は鼻で笑った。
「確かにお前はこいつより強かったよな。けどよ、今俺をボコったって、俺はお前のいねえとこでこいつを痛めつけるぜ」
「だろうなあ……」
 哲は首を掻きながら溜息を吐いた。
「まあ、それはお互いわかってんだけど、とりあえずやろうぜ」
「はあ?」
「だから、それはそれ、ってことで」
「人の話聞いてたのかてめえ、意味ねえって──」
「そっちこそ人の話聞いてんのか。それはそれっつったろうが、ああ?」
 低く凄んだ哲に、木下が口を噤んで一歩下がった。
「その人のことは別に好きでもなんでもねえけどな、俺に助けてっつってきたからには助けるし、無駄でもなんでも手加減しねえで暴力振るえる機会を逃すわけねえだろ。何してんだよ、かかって来いほら」
 哲は、無造作に足元の隆文を跨ぎ越した。
「お前──おかしいんじゃねえの」
 怯んだようにじりじりと後退る木下に歩み寄り、哲は顔を木下に近づけた。
「おかしかったら何だ? それこそどうだってよくねえか」
「……」
「殴んの好きなんだよ。殴り返してくる相手限定だけどな。あんた少しは手応えあるし、なあ、折角だから遊ぼうぜ」
「だから、俺とやり合ったって──」
「俺の知らねえとこでまたこの人を痛めつけんだろ? ああ、好きにすりゃいいよ。別に好きでも何でもねえ、ただの高校の先輩だ。俺には関係ねえ」
 哲は床の上の隆文を無造作に跨ぎ越し、木下の胸倉を掴んで顔を近づけた。
「で、俺は隆文さんがいないとこであんたを痛めつけりゃいい。だろ? 今どこに住んでんだっけ? 確か──」
 哲が木下の自宅住所と携帯の番号をすらすら唱えると、木下は目に見えて蒼白になった。木下の周りの四人はただ突っ立っている。哲は、眦が裂けそうなほど瞠った木下の目の中を覗き込んだ。
「想像力が足りねえなあ? あんたができることは俺もできるって何で分かんねえのか分かんねえよ。なあ、そうだろ?」
「──!」
 突然打ち込まれた木下の拳を腕でガードして跳ね返す。カウンターで返した左が木下の頬に当たった。秋野のせいで切れたところがまた傷ついて血が流れ出す。哲は滲んだ血を舐め取って、錆の味のする唾を床に吐き出した。
「そうそう、そうでなきゃつまんねえよ。リベンジしてみろ、オラぐずぐずしてんなまとめて来い!」
 木下がほとんど泣き喚くように吼えながら突っ込んでくる。哲は歯を剥いて笑い、木下に向かって足を蹴り上げた。