仕入屋錠前屋74 光の渦 5

「社長、お帰りなさい」
 会社に戻ると、取締役の尾形が席を立って来て、後から社長室に入ってきた。まあ、便宜上社長室と呼んではいるが、実態はパーティションで区切られたただのスペースにすぎないのだが。
 そうは言っても狭いフロアの中で多少なりともプライバシーが保てるのはこの区画くらいで、ささやかながら隆文の特権ではある。
「ただいま」
「どうでした?」
 デスクに鞄を置きながら尾形を振り返る。
「うん、まあとりあえず三ヶ月の契約は取れそうだね。その後はあちらさんの気分次第かなあ」
「気分……」
 尾形が悲しそうな声を出したが、そんな顔をされたって仕方がない。
「何? わざわざ立ってくるなんて珍しい」
「いや、そんな、僕だって銅像じゃないんですから動きますよ」
「銅像っていうか食玩みたいだけどね」
 小柄な尾形はぶう、と頬を膨らませて隆文を睨む。
「またそういうこと言って。何回も言いますけど、僕だって生活かかってんですから、社長がいくら意地悪したってめげませんからね」
 ぷりぷりしながら踵を返そうとした尾形に声をかける。
「いいけど、なんか用事あったんじゃないの?」
「あー、そうでした」
 尾形はセルフレームの眼鏡を押し上げながらちょっと声を潜めた。
「電話がありました」
「電話? 誰から?」
「木下さんと仰る方です。社長の奥様の……元奥様のお知り合いだとかで」
「ああ……」
「社長にお話しした件、検討してもらえましたか、もし打ち合わせが必要なら、後日会社にお伺いしますとのことでした──社長?」
 それ以上何と言っていいか分からなくてじっと尾形のネクタイの結び目を見ていたら、また尾形が口を開いた。
「……松川、大丈夫か?」
「ああ、大丈夫」
「そう? ならいいけど」
 尾形は肩を竦めるような仕草をして──板についていないのでぎこちなかった──そそくさと席に戻っていった。
 隆文は昔から、他人を観察することが多かった。笑うところ、悲しむところ。なんでそこでそう感じるのか、他人の感情の動きというものがいまいち分からなかったからだ。まったく理解できないわけでもないのだが、他人に共感する能力は明らかに人より劣っていた。
 理解できないから真似するために観察する。その過程で、人はこんなふうに言ったらこう動くのだ、という発見が時折あって、隆文は観察の結果得た知識を実際に試すことに夢中になった。
 それが「他人を操作」することで、「それで喜んでいるなんて不愉快」と言ってきたのは、後にも先にも、大学で専攻が同じ尾形だけだった。
 中学生の頃、身体が小さかったせいでひどくいじめられ、いじめっ子を殺そうと真剣に殺人計画を練っているうちに突き抜けた、という本人の弁がどこまで本当か興味はないが、いずれにせよ、こいつが外見に似合わぬ率直さを備えているのは間違いない。
 別に仲もよくないし、尾形が特別何かに秀でているとも思わない。それでも新卒で入社した会社を辞めて起業しようと思ったときに誘ったのは、遠慮なく何か言ってくる奴が一人はいてもいいだろうと思ったからだ。
 会社にかかってきたという木下からの電話も、誰が受けたかどうかは別としてわざわざ尾形が言いに来たのだから、不穏な雰囲気は醸し出していたに違いない。
 どうしたもんかな、と思いながら、隆文は暫くその場にぼんやりと突っ立っていた。
「社長―」
 パーティションの向こうから社員の一人が顔を出したので、物思いに耽るのはそこで止めにして呼ばれるままにパーティションの外に出た。
 どうしたらいいか考えなければいけないのかもしれない。だが、何だかもう面倒になって、隆文は木下のことも元妻の事も、頭の中から締め出した。

 

「ちょっと、一体何したわけ!?」
 部屋の鍵を開けている最中に後ろから怒鳴られて、隆文は思わず鍵を落とした。足元のコンクリートに跳ね返ったキーリングの音は神経を逆なでする喧しさで、それを上回る金切り声に、自然と眉間に皺が寄った。
 鍵を拾い上げて屈めた腰を元に戻す。ゆっくり振り向くと、元妻の美紗が立っていた。
「何って?」
 二人で暮らしていたマンションは結構いい値段で買った分譲で、勿論オートロックだった。だが、今住んでいるここは安い賃貸で、そんな設備はついていない。元妻が部屋の前に現れたってちっとも不思議なことではなかった。
「しらばっくれないでよ!」
「しらばっくれてない。本当に何言ってるか分からない。ていうか、何、こっちに住んでるの?」
「違うけど……」
「じゃあわざわざ来たの?」
「……本当に何も知らないの?」
「知らないっていうか、何に怒ってるか言ってくれないとそれもわかんないよ」
 ドアを背にして美紗に向き合い、彼女の全身に目を走らせた。美紗は緩く巻いた長い髪をひとつに纏めてきちんと化粧していた。そもそも家にいるときもすっぴんで髪がばさばさ、なんてことはない女だったが。
「なんか変な人が、今派遣で勤めてるとこに来たの」
 美紗が上げた社名は誰もが知る大手通信会社の子会社だった。そこで事務職をしているらしい。
「昼休みに、受付のところであなたの名前出したみたいで……出て行ったら全然知らない人だった。あなたがお金を出さないからとか、どういうことよ。まさか借金でもしてるとか?」
「ああ……」
「ああじゃないでしょ!」
「それ、多分美紗の彼氏の関係者だよ」
 そう告げたら、美紗はきれいなピンクベージュに塗られた唇を開いたまま固まった。
「彼氏の奥さんのお兄さんだって。俺のところにも来た」
「え? 何で……」
「妹が受けた仕打ちを現金化したかったみたい。美紗のところにはかわいそうだから行かないようなこと言っていたけど、俺がお断りしたから気が変わったのかな」
 美紗は眦を吊り上げて何か口にしかけたが寸前で思いとどまり、飲み込んだ。何を言おうとしたかは大体想像がつく。そして、口に出す前に感情より理性が勝ったのだろう。
「──隆文、でも私」
 口紅とよく似た色のレーススカートをぐしゃりと握りしめ、美紗は自分の足元に視線を落とした。握りしめたスカートの皺に目を向ける。意外と薄っぺらな生地が派手に皺になっていた。
 そう、余分なお金なんかないはずだ。着の身着のままとまではいかないが、必要最低限のものしかもらえなかったのだ。
 派遣社員の所得なんて高が知れている。社長とはいえ小さな所帯で、隆文だって金持ちとはとても言えないが、少なくとも美紗が働かなくても不自由なく食えるほどは稼いでいた。当時と同じ生活レベルは維持できまい。
 彼氏と再婚できれば違ったのだろうが、美紗の期待に反して、彼は離婚を選ばなかった。妻と美紗とどちらを愛していたかは知らない。離婚しなかった理由も知らないし、隆文にとってはそんなことはどうでもよかった。
 美紗は話し合う素振りなど微塵も見せず、所謂緑の紙を隆文に突き付けた。だから、さっさと手続き諸々を進め、押せと言われた場所に判を押した。彼女がそう望んだからだ。
「いくら出せ、とか言われたの?」
「……具体的なことは何も言われてない。ただ、あなたのところに行ったけどダメだったとか何とか言ってて──まさか、彼の……奥さんの関係者だとか思わなくて」
 彼の、というその口ぶりを聞いた瞬間に、何かがもぞりと動いた気がした。頭の中、腹の底、胸の奥。どんな比喩をしたって正確ではないどこか。隆文にとって感情の動きは、いつもそういう不可解な感触を伴っている。
「あのさ、美紗」
 デザインは流行のものであっても、縫製も生地もよくないファストファッション。今まで馬鹿にしていた服を身に着けていても、隆文にとって美紗はやっぱり変わらず美紗だった。
「俺、何もしてあげられないよ」
 どうして、という言葉が、川底の泥から生まれる泡沫のように、生まれては消える。何度も、何度も。
「どうして」とかすかな声が聞こえ、自分が声に出したかと思ったら、それは美紗の声だった。なんと答えたらいいか迷っていたら、エレベーターが開く音がして、目を向けたら哲が立っていた。
「……あ」
 手にしていたスマホに目を落としていた哲が、隆文の声に目を上げ、美紗に気づいて立ち止まった。
「哲……どうしたの、っていうか」
 教えた記憶はないのに何故住所が分かったのだろう。そう思ったが、突き詰める前に美紗が隆文を遮った。
「また連絡するから──それじゃあ、失礼します」
 後半は哲に向けて言い、軽く会釈した美紗は足早にエレベーターに向かった。哲が降りたままそこに留まっていた箱の扉が開き、美紗はこちらを見もせずに乗り込んだ。ゆっくりとドアが閉じるまで、美紗は俯けた顔を上げようとしなかった。
 ドアが閉まり切るのを確認してから哲に向き直った。哲はデニムに黒い上着、紺色のスニーカーという当たり前の格好だった。服以外はこの間と何も変わらないはずなのに、どこかが違って見えるのは何故だろう、と不思議に思う。
「奥さんですか」
「ああ、そう。別れた奥さん」
「きれいなひとですね」
 素っ気ない言い方には、しかし世辞は混じっていないように感じた。それに、確かに美紗は美人だから、曖昧に頷いておく。
「入る? ちょうど帰って来たところで呼び止められちゃって」
 首を振る哲は、やはりこの間とは雰囲気が違う。居酒屋で会ったときも、この間も、高校時代より落ち着き大人になって丸くなったように見えたのに。
「この間の、あの木下ってやつ」
 哲は低い声で投げ出すように言った。
「恐喝未遂で前科があるみたいっすね。表沙汰にはなってないのも結構あるみたいで、まあ小物は小物だけど、しつこいっつーか」
「そう……」
「放っとかないで警察に相談したらいいかもしれませんよ。俺そういうことは全然詳しくねえから、動いてくれんのかとか分かりませんけど──」
「また来たら、また助けてくれる?」
「その場凌ぎでいいなら」
 即答した哲は、ちょっと眉を上げて何か問うような顔をしたものの、すぐに元の無表情に戻った。
「でも、いつも来られるとは限らねえし」
「そうだね」
「じゃあ」
「──それだけ?」
 エレベーターに向かう哲の背中に声をかける。
「電話くれればよかったのに」
「近くまで来たんで、ついでです」
 肩越しに振り返ってそれだけ言うと、哲はエレベーターの下降ボタンを押した。
 そうやって、誰もが俺を置いて行く。
 湧き上がったこれは何だろう。怒りではない。迷子になった子供はこんなふうに感じるかもしれない。酷く切羽詰まったようでいてふわふわと掴みどころがない何かが喉に痞える。寂寞の情とはこういうものなのだろうか。
「哲──」
 意味もなく呼んだら、哲は振り返って隆文の目を真っ直ぐ見た。
 高校の制服姿の哲が幻のように二重写しに見えた。ほとんど青年でありながらも、子供の面影を残す年頃だった。哲は大人びていた方だが、それでも今と比べたらやはり頬のあたりに丸みがあった。
 鋭い目つきは変わらない。哲自身が言ったとおりだ。あの頃のほうが刺々しかったが、その奥にあったものは、少しも変わらず哲の中にあるのだと気が付いた。
 多分失くした方がいいものなのに、哲はそれを当たり前のように抱えて生きている。
「……なんでもない。じゃあね」
 笑ったら、哲は少しの間隆文を見つめ、そうして小さく頷いた。隆文がドアを閉めながら振り返ったら、エレベーターを待つ哲の、何も語らない背中が見えた。