仕入屋錠前屋74 光の渦 4

 高校の同級生、鴨井の顔を三秒くらい眺め、哲は首を傾げて手を差し出した。
「イタリア風居酒屋とかなんとかじゃなかったか?」
 受け取ったポケットティッシュに挟まったクーポン券にはネットカフェの店名が刷られている。
「同じ系列なんだよー」
「ああ、そう。じゃあな」
「いやいやちょっと待てってもう」
 鴨井はポケットティッシュが詰まった段ボール箱を持ち上げた。
「どうせ休憩だしさあ、どっか入ろうぜ。昼飯食った?」
「いや、まだ」
 そうかじゃあ何食いたいなんでもいいなら俺決めていい、と口を挟む間もなく喋りながら歩き出した元同級生の後について、哲はのんびり歩き出した。

 

 前に道端でチラシを配っていた鴨井と会ったのは結構前だ。お前のせいで知り合いのヤクザの義弟で元同級生の美容師に先っぽだけ突っ込まれたっけなあそういえば、とか胸の内で呟いたが声には出さず、哲は箸を取り上げた。
「このカツ丼さあ、安いけどうまいんだぜ」
「いただきます」
 鴨井がまだ喋っていたが構わずカツを口に突っ込む。確かに値段の割にいけるなと思いながら、哲は相変わらず茶髪に不精髭で歯並びの悪い鴨井に目を向けた。
「同じ系列の違う店でバイト?」
「んー? あ、いや、一応社員になったんだぜー」
「へえ」
 社員がティッシュ配りかとも思ったが、人手不足で不景気なのはどこもそう変わらないのだろう。
「おめでとうって言うとこか?」
「ビミョー」
 鴨井はへへっと笑ってカツ丼をかっ込んだ。
「まあ、社保完備なのはいいかなあ」
「お前の口から社保とか、笑える」
「そうねー。や、俺も言っててウケるけど」
 味噌汁にほんの気持ちですとばかりに浮いたワカメを箸の先で摘みながら、鴨井は笑った。
「もうすぐ三十じゃん、俺らもさ。昔は働くとかだるいとかだせえとか思ってたけど、食ってかなきゃなんねえし、俺は手に職もねえし、まあいいかなあと思ってなー。恥ずかしい気もすっけど──」
「何も恥ずかしくねえだろうが。働いて金もらうのは当たり前のことなんだから」
「そうかな」
「当然だ。病気だとか、何か特別事情があんならともかく、だるいとか言って自分で食ってけないほうがだせえ」
「……ああ、哲は昔からそうだもんな」
「何が」
 噛んだ飯を飲み下しながら目を上げると、鴨井は懐かしそうに目を細めていた。
「いや──何ての? 俺なんかと違って、哲はすげえ喧嘩とかしてたけどさあ」
 鴨井はグレていたとは言っても気のいい奴で、せいぜい授業をサボってどこかで遊び、煙草を吸う程度だった。哲のように暴力沙汰に首を突っ込んだりすることは滅多になかっただろう。
「でも、ヤクザになるだろうなとか思ったことなかったもんな」
「そうか? いや、別になりたいと思ったことはねえけど」
「うん。なんか、哲はすげえ常識的だよ、そういうとこ」
「ふうん」
 自分のことはよく分からないが、鴨井がそう言うのなら、少なくとも他人にはそう見えるということだ。
「じゃあそうなのかもな」
「そうなんだよ」
 頷く鴨井に思わず笑う。勉強もできないし、頭の回転も──自分のことは棚に上げる──早くないが、鴨井は本当にお人よしでいい奴だ。
「あ、でも哲はキレたら、滅多にキレないからもう信じらんねえくらい怖かったけどなー。俺一回見たことあったけど、相手よりお前が怖くて逃げたもん」
「何だそりゃ」
「いやいや、マジだって。今は丸くなったみてえだし、そんなんねえのかもしんねえけど」
「……変わったか?」
「んー、わかんねえけど、そう見えるような……いや、でも昔からそんな感じだったって言われればそうかも」
「どっちだよ」
「えーどっちでもよくねえ? あ、そういや聞いてくれよ、この間店にあのアイドルが男連れで来てさあ──」
 ころころ話題が変わる鴨井の話を聞き流しながら、哲はついこの間会った隆文のことを思い出していた。
 哲が変わったと言って不満そうだった隆文と、どっちでもいいと笑う鴨井と。
 所謂できのいい隆文と正反対の鴨井。勉強ができるできないは観察眼とは関係ないが、価値観から何からまるで違う二人が違うことを言うのは当然かもしれない。で、結局のところ自分は変わったのか変わっていないのかと思えば、哲にはよく分からなかった。

「なあおい、お前は何でも手に入れてくれんだよな仕入屋?」
「お前のためなら何でも」
「嘘吐け」
「ああ、まあ嘘だな」
 会話の間中手に持った本から目を上げなかった秋野は暫くそのままページを繰っていたが、切りがいいところまで読み進んだらしく、ようやく本を置いて色の薄い瞳で哲を見た。
「どうした?」
「何読んでんだ」
「興味あるのか? 物理化学、分子論的……」
「止めろ、鼻血が出るじゃねえか馬鹿野郎」
「出たら舐めてやるから言え。で、何が欲しいって?」
 にやにや笑いながら煙草を銜え、秋野はソファの背凭れに頭を預けた。
 つい先日、ふらりと来たら秋野の部屋にソファが搬入されていた。濃い茶色の酒みたいな色の革のソファで、座面が広く横幅も長い。
 家主自身はソファなんか別になくてもいいと言っていたのに設置されたのは、哲が「てめえと並んで寝るのはご免だ」と宣言し、二度ほど床で寝たことがあったからかもしれないし、違うかもしれない。
 いずれにしても哲ならほとんどはみ出さないでベッド代わりにできるそのソファは、これだけだだっ広いスペースがあるにもかかわらず、ベッドのすぐ脇に設置されていた。それじゃ意味がねえじゃねえかと思ったが、少なくとも秋野に抱えられて目覚めたりする不覚は回避できるからぐだぐだ言うのは止めておいた。あまり文句をつけたら、次に来た時にはなくなっていたという事態に陥りかねない。
 ソファはさて置いて、哲は欲しい物を口にした。
「神田さんじゃねえ情報屋」
「レイ以外ね……」
 秋野の幼馴染は優秀だが、面倒くさい性格なのであまり関わり合いになりたくない。
「どういう調べものだ」
「あー、別に情報屋でなくてもお前が分かるならそれでもいいんだけど」
 哲はソファの、秋野が座っているのと反対側の端に腰を下ろして煙草を銜えた。
「昨日会った元カノの兄貴がちょっとトラブっててよ」
「誰と」
「あーんと、元嫁の浮気相手の嫁の兄貴?」
「面倒くさいな、おい。覚えられないだろう」
 秋野はうんざりした顔で溜息を吐いた。同感なので頷く。
「まったく、たまんねえよな。続柄がわかんねえよ」
「いや、それはどうでもいいと思うぞ」
「そうか? まあいいや。とにかくその相手が、隆文さんはヤクザっつってたけど、構成員じゃねえと思うんだよなあ」
「素人には区別がつかんだろう」
「まあ……あの人も、そういう意味では普通だからな。元半グレで準構成員っつーとこかな、せいぜい」
 煙を吐きながら、スマホを取り出す。
「まあ身分はどうでもいいけど──どの程度しつこそうかちょっと知りてえ。これ、顔」
 写真を数枚、秋野に送り付ける。秋野は開いた画像を見て「汚い」とぶつぶつ文句を言った。
「俺に送るな、見苦しい顔写真を」
 殴り合いのさなか、一人一人の顔を撮影してきたのだ。まるで人相が分からなくなるほどは殴っていないが、鼻血が出ている奴が半数以上いた。
「いいじゃねえか、みんなかわいらしいだろうが。どうせ誰かに転送してくれんだろ?」
「まだ? 一体何人分送ってくる気だ」
「六人だからこれで最後。お前の大好きな鼻血画像だ、喜べよな。確か木下って言ってた気がするけど、違うかも」
「俺が好きなのはお前の鼻血面だけだ」
 嫌そうに顔を顰めて訳の分からないことを言った秋野は溜息を吐いた。
「それで、どれがお前の元彼女の兄貴の元嫁の浮気相手の嫁の兄貴の木下だ」
「ちゃんと覚えてんじゃねえか。三枚目の、前髪真ん中で分けて顎髭ある顔の濃い奴。顔は壊さねえように気を付けたぜ」
「自慢するな」
 また溜息を吐いて、秋野は写真をどこかに送り、メッセージも送ってスマホを放り出した。
「身元くらいはすぐ割れると思うけどな、それでどうしたいんだ」
「──さあ?」
 本当に考えていなかったので、哲は秋野の吐き出した煙の行方を目で追いながら考えた。
「別に積極的に助けてやろうとか全然思ってねえけど」
「けど?」
 促す秋野の色の薄い瞳に暫し見入り、哲は灰皿を探して首を巡らせた。ベッド脇のナイトテーブルの上に発見したので、歩いて行って灰皿を手に取った。意味もなく手の中のそれを暫く眺めてから灰を落とした。
「こういうこと言うの、好きじゃねえ。でも、あの人」
 灰皿に細かく白い灰が散る。崩れ落ちた穂先の中に一瞬熾火のような小さく赤い光が瞬いて、すぐに消えた。
「かわいそうだと思って」
 おかしな奴らに絡まれているのがではない、なんて言う必要はなかった。振り返ったら、秋野は表情を変えず、分かったら連絡する、とだけ言ってさっきまで読んでいた本を手に取った。
「さっき道端で高校んときの知り合いに会ってよ」
「うん?」
「昔と変わってねえって言われた」
 秋野はおかしそうな顔をしたが、何も言わず黙っていた。
「けど、隆文さんは変わったっつーんだよな。モノの見え方はそれぞれだと思うし、俺は別に誰からどう思われたってどうでもいいからいいんだけどよ。けどなんかあの人が──」
 灰皿の底で煙草を揉み消しながら言葉を探していたら、何を言いたいのか分からなくなってきた。
「まあ、どうでもいいや。頼むわ」
 ソファの横を通り過ぎざま、秋野の腹の上に灰皿を置く。本を持っていたはずの手が素早く伸びて、哲の手首をきつく掴んだ。
「もう行くのか」
「離せ」
「哲」
「離せっつーの」
 低く唸る哲を見上げて唇の端を曲げ、秋野は微かに首を傾けて煙を吐いた。何も問われていない。長い睫毛の下の瞳は普段通りで、だが、穏やかそうに見えるその面の皮一枚の下に何があるのか──すべてではないにせよ──哲は知っていた。
「……かわいそうって思うっつったって、あの人になんか興味も何もねえよ。いちいち言わせねえと気が済まねえのか、てめえは」
 忌々しさに歯噛みしながら言うと、秋野は目を細めて笑い、頷いた。
「ああ、いちいち言わせたいね」
「いつでも思い通りになると思うんじゃねえよ、馬鹿」
 力任せに振りほどいた手はあっさり離れ、哲は振り返らずに秋野の部屋を後にした。