仕入屋錠前屋74 光の渦 3

 こんなところに呼び出すなんて、あまりにも分かり易すぎる、と思いながら、哲は隆文が運転してきた車を降り、隆文に続いてその建物に足を踏み入れた。
 湾岸の使われていない倉庫は、入り口にプラスチック製のチェーンがかけてあった。だが、ほとんど意味がないのは、中に放置されたゴミの数々からも分かる。隙間風が入るらしく隅に吹き寄せられたように溜まっているゴミを避けるように、フロアの真ん中に六人、男が固まって立っていた。
 もし隆文がやる気なら一人三人。数を数え、哲は隣の隆文を一瞥した。まったくその気がなさそうに見える。ということは哲一人で六人。せめてそのくらいの役得はほしいものだ。期待に若干うっとりしながら数を数えた哲の口からつい満足そうな溜息が漏れる。
 隆文はちょっと怪訝そうな顔で──喧嘩ばかりしていたのは知っているが、哲がどれだけそれを愛しているかまでは多分知らない──哲を見たが、それ以上おかしなところも見つからなかったのか、そのまま進んでいった。
「こんばんは」
 緊張感のない挨拶と隆文の優男っぷりに、隆文の元妻の不倫相手の義理の兄──頭がこんがらがりそうだ──以外の五人は、拍子抜けした顔を隠しもしなかった。
「のこのこ来るなんていい度胸じゃねえか!」
 お決まりの台詞に首を傾げ、隆文は困ったような顔をして哲を見た。
「あれ、木下さんに呼ばれたから来たんだけどなあ?」
 挑発すんのはやめときなさいよ、と言おうかとも思ったが、余計なお世話なのでやっぱり黙っていた。頼まれれば喜んで参加はするが、哲の喧嘩ではない。
「松川、てめえなあ」
 真ん中に立っていた男が元妻のなんとかのなんとかなのだろう。確かに一番年齢が上で、一番えらそうだ。隆文は哲とひとつしか違わないが、そいつは三十代後半に見える。元妻の不倫相手が年上だったのか、その妻が姉さん女房だったのか、それとも年の離れた兄妹なのか。どうでもいいことを考えながら、哲はぼんやり二人のやり取りを聞いていた。
「金の算段はついたんだろうな」
「だから、別れた妻に請求してくださいよ。俺だって被害者なんだけどなあ」
「てめえ、妹の旦那が悪いって言いてえのか!?」
「うーん、いや、妹さんの旦那さんも悪いけど、うちの嫁も同じだけ悪いと思いますよ。だから、慰謝料とか取るなら元妻からもらってください。俺、何もしてないのに結構お金あげたんですよ。更に木下さんに払う必要あります?」
「そうだってなあ」
 男の顔がにやりと歪む。
「社長さんなんだってな、その若さで」
 へえ、そうだったんだくらいの興味で隆文を眺めると、男が目敏く気づいて更に笑った。
「ほら、お友達にもちゃんと言わないとダメだぜえ。そうやって秘密にしたって、バレちゃうんだからさあ。すごい儲かってるんだって聞いたぜ? 何だっけ、ベンチャーとかってやつだろ? 浮気した嫁に金やって追っ払うなんてなあ。子供もいねえのに、気前のいい話だよ」
「……」
 隆文がちらりとこちらを見たが、別に興味はないので見返さなかった。
「まあ……妹はまだ毎日泣いてっけど、お前の嫁が放り出されたって聞いてちっとは気分がよくなったみたいだからな。そこは感謝してる」
 そこのところは事実らしく、にやけた顔が少しだけ真剣になった。
「えーっと、だから、それ以上のお詫びは元妻から」
「けど、それはそれだろ。だからさあ、俺らも、離婚して無職で、これから一人で生きていこうって女から毟り取るほど酷くねえってハナシだよ」
 翻訳すると、一回毟ったらなくなるところに用はないということだ。もっとも、その場に翻訳が必要な人間は一人たりともいなかったが。
「困ったなあ」
「困った顔に見えねえぞ」
「困ってますよ。暴力振るってお金払いますって言わせようってことですよね」
 男がにやりと笑ったが、隆文はさらに大きな笑顔を見せた。
「でも、払いませんし、こういうの、もうやめてください。俺もいちいち付き合えるほど暇じゃないし」
 にっこり邪気のない笑顔で言われ、木下という男とその連れはぽかんとした顔で数秒固まり、前より更に固い顔つきになって距離を詰めてきた。そりゃそうだろう。なんの意外性もない。
「てめえ、今の立場分かってんのか」
「分かってますから、友達を連れてきました。ってことで、哲、お願いしていいかな?」
「はぁ? お友達一人で何ができるって──」
 哲は姿勢を低くしてまだ喋っている男の腹めがけて突っ込んだ。肩の上に担ぐように掬い上げたら男の脚がばたつき宙を蹴った。
 担ぎ上げた勢いのまま男の身体を裏表にひっくり返して地面の上に叩きつける。背中が地面に当たって僅かに跳ね、男が苦悶の声を上げながら手足をばたつかせた。
 男の腹に踵を沈めるように蹴りつけ、自身の上半身を前に押し出す。低く保った体勢で飛び出し、慌てて構える男に突っ込んだ。
 隆文のためなんて思いもしない。
 面倒を避けるためでもない。
 ただ、まるで誰かの手に強く背を押されたように、何かが哲を衝き動かすのだ。
 拳の骨が相手の骨にぶつかる衝撃に頰が緩む。右手で相手の胸倉を掴んで左手を顔の横まで振りかぶり、釘を打ち込むように素早く何度も叩き込んだ。
 後ろから襟首を掴まれ引っ張られて仰け反る。捕まえていた男の胸倉を離し、逆らわず重心を後ろに移動した。左足を軸足に、引っ張られた身体が半回転する。右脚を跳ね上げ、正対するなり蹴っ飛ばしたら襟から手が離れて自由になった。
 蹴った男を更に蹴り転がすようにして退かし、また次の相手に向かい合う。相手の腕に拳を阻まれ、突き出された肘に弾き飛ばされて哲は思わず声を上げて笑った。
「ああ、楽しいよなあ、こういうの」
 脆弱なものを叩き潰したところで喜びなど感じない。殴られるままのものを殴ったってつまらない。掴みかかってくる相手に頭突きを食らわせ、ぶれた頭を抱え込んでそのまま首投げに持ち込み地面に叩きつける。両手をついて起き上がりながら地面を蹴って、哲は吼えた。

 

 隆文は本当に困っているように見えるだろう。彼をよく知らない人間は、この顔に騙される。
「これで諦めてくれるかなあ」
 どこかのんきな口調で言いながら、隆文は男たちが去っていくのを眺めていた。エンジン音が聞こえ、タイヤの音が遠くなっていく。
「さあ」
 本気でそうしようと思ったら、こんな手段に訴えることはない。隆文は一般人で、弱みを握られているわけでも何でもないのだから、警察に駆け込めばいいのだ。
「だといいっすね」
 だから、適当に返事をして、哲はさっきから手に持っていたスマホをポケットに突っ込み、代わりに煙草を取り出した。隆文が何も言わずにこちらを見ていることは分かっていたが、どうでもいい。吐き出す煙草の煙をぼんやり目で追い、吸いきったところで隆文が歩き出した。
 運転席の隆文はずっと無言で、何を考えているのかよく分からなかったが、それは昔からだ。待ち合わせをした店の近くに車を停めて、隆文は哲を見た。
「ありがとうね」
「俺はただ、殴り合ってただけですよ」
「──俺さあ、分かんなくなったよ、哲」
「何がですか?」
 シートベルトを外しながら訊ねる。
「哲が変わったのか、変わってないのか」
「言ったじゃないですか、俺は大して変わってませんって」
 隆文はハンドルに両手を置き、そこに頭を預けるようにしてガラス玉みたいな目で哲を見つめた。
「いい方には、そうなのかもね。悪い方には?」
「……さあ。まあ、正直言えばどうでもいいんで」
 隆文は悪人ではないし、例えば人を殺したりはできないだろう。だが、他人を操ろうとし、自分の思い通りに動かないと癇癪を起こす。恵まれた容姿も頭脳もあるのに、何かが大きく欠けてしまっているのかもしれない。
 哲自身、自分には人として大事な何かが欠けていると思っている。だが、それを気に病んだことはない。ないものはないのだから仕方ない。
 だが、もしかしたら、隆文は欠けていることが気になって、それを埋めようともがいているのかもしれないと初めて思った。
「──またなんかあったら、連絡ください」
 隆文はちょっと驚いたように目を瞠り、それからいつものつくりものめいた笑みを浮かべて頷いた。