仕入屋錠前屋74 光の渦 2

 朝方、眠るというより気絶するという感じで数時間寝るには寝たものの、前夜は宣言通りほとんど寝かせてもらえなかった。俺より年上のくせしてあいつの身体は一体どうなってるんだと文句を垂れながら、哲は寝不足で不機嫌なまま帰宅して風呂を沸かした。
 秋野のところでシャワーは浴びたが、あの男の匂いが身体中に染みついている気がする。錯覚だと分かってはいたがイラつきながら風呂に入り、ようやく落ち着いて煙草を銜えた。
 今日はバイトが休みだから、隆文──菜穂の兄貴──との約束は早めの時間にしてあった。特別仲がいいわけでも会いたいわけでもない奴と夜遅い時間まで一緒にいたくはない。
 細々とした用を片付け、少し早いかと思いながらも、することもないので部屋を出る。尻ポケットの電話が振動したので隆文かと──キャンセルかと──期待したが、電話の声は秋野だった。
「何だよ、てめえか」
「ご挨拶だねえ」
 数時間前までもしかして元からそこにあったんじゃないかと思うくらい深く身体に刺さり、当然のような顔で哲を隅々まで貪っていた男は、今はそこそこ遠くにいて、声だけが耳元でのんきに響いた。
「うるせえ、用はあんのか」
「用がなかったら」
 無駄話のようだったのでさっさと切った。
 まったく、クソ面白くもない。
 また着信があったが無視して、待ち合わせの場所に向かう。時間を早くしたせいか、隆文が指定したのはランチタイムも営業している店で、昼はカフェ、夜はダイニングバーになるということだった。
 ポケットの中でしつこく携帯が鳴動したが、やはり秋野だったので電源を切る。哲が人と会うのにわざわざ用事を突っ込んでくる男ではないし、それなら単なる嫌がらせに違いない。
 欠伸を噛み殺して店のドアを開ける。店構えは垢抜けているのに、足を踏み入れると内装はそれほどセンスがいいとも思えず、ちぐはぐな印象を受けた。もしかすると建物が一旦売っ払われて、店のオープン前に持ち主が変わったとかいうことかもしれない。
「哲」
 入口から見える位置にカウンター席が配置されている。一番手前の席に座った隆文が手を上げた。中途半端な時間だからか店内に客はいない。店の奥の隅っこでいかにも手持ち無沙汰という顔で突っ立っていた若い女の子の店員が、いらしゃいませぇと語尾をだらしなく伸ばした声を上げた。
「すんません、待ちましたか」
「ううん、今来たとこだよ」
 嘘だろうな、と腹の中では思ったが、何も言わずにおく。
 菜穂とはもう関係ないから、別に気を遣わなくたっていいとは思う。だが、別に今更関係を悪くしても何の得にもならないし、面倒なことになっても嫌だと思うだけだ。
 隆文は哲個人には何の興味もないだろう。それは今に始まったことではないから間違いない。こいつはただいつも何か遊べるものを探しているだけで、子供と変わりない。
 海外の瓶ビールを頼み、煙草を取り出す。隆文は車だからと言って何か酒ではないものを飲んでいるらしい。手にしている煙草は、今時流行りの加熱式煙草だ。
「ポップコーンみたいな匂いしますよね、それ」
「ずっと紙巻?」
「はい」
「確かに吸ってる感は薄いって言うか、慣れるまで変な感じだったけど、服とかに臭いつきにくいからいいんだよね。紙巻は女の子が嫌がんない?」
「ああ、まあ……でも今付き合ってる子もいねえし」
「そうなんだ」
「隆文さんは」
 この間連れていた女と付き合っているのだろうかと思いながら訊ねたが、隆文は俺も、と言った。
「俺はねえ、ついこの間離婚したの」
 にっこり笑って言われたら、何と返すべきかものすごく迷う。いくら哲でも、あっそう、とは言い難い。
「それは──残念ですね」
「うん、そうだねえ。奥さんが浮気しちゃってね。まあ、もう済んだことだからいいよ」
 笑顔の隆文の右目の端がちょっと引き攣る。まったく何も感じてないってわけでもないんだな、と思いながら、哲は出てきたビールをグラスに注いだ。
「まあそれで戻ってきたっていうのもあるんだけど」
「心機一転ってやつっすか」
「うん、そうそう」
 隆文が煙を吐く。若い女の二人連れが入ってきてテーブル席に座った。席についても馬鹿でかい声で喋り続ける女に一瞬険のある視線を向けた隆文が哲に目を戻した。
「それで、何で呼んだかって言うとね、そりゃ勿論懐かしいっていうのもあるんだけど」
 ホルダーから短い煙草を取り出し灰皿に捨てる。捨てられたそれを何故かしげしげと眺めながら、隆文は呟いた。加熱はされるが燃えない煙草は、それでも熱された部分が茶色く焦げている。
「困ったことになってて、俺」
「困ったこと?」
「うん、そう」
 どこか夢見るような現実感を伴わない視線で哲を見ながら、隆文は歌うように言った。
「奥さんが浮気したって言ったじゃない? その相手も結婚してて、まあ要するにダブル不倫ってやつだったんだけどさあ」
「そうっすか」
「相手はまあ普通の人っていうか、夜の商売の人だけど、でもまあ普通の人だよね。で、彼の奥さんも普通の人なんだけど、その奥さんのお兄さんっていうのがコレだったの」
 昔懐かしい、頬に傷、のジェスチャーをして、隆文は肩を竦めた。
「俺さあ、離婚したんだから、俺の元奥さんが誰と何したって俺にはもう関係ないと思ってたんだよね」
「はあ」
「でもなんか、そのお兄さんっていう人が、俺の監督不行き届きだって文句をつけてきたわけ」
「それは……確かに、言われても困りますね」
 原因は分からないし、隆文が悪いという可能性も多分にある。だが、だからといって妻の行状すべてを夫のせいにするのはおかしいだろう。隆文はこくりと頷いて、ビール瓶の表面を指先でなぞった。
「でしょ? だからさ、俺も最初呼び出されたときにそんなこと言われても困りますって言ったんだけど、妹がつらい思いしてるのはお前のせいだ、誠意を見せろって言われてさあ。要はお金だよね。電話とかしつこいし、家に来て玄関前で借金取りみたいに騒いだりすんの」
「それでこっち戻ったんすか。仕事は?」
「戻った理由はそれだけじゃないけど、それも理由かな、うん。会社はこっちから通ってる」
 にっこり笑って頬杖をつき、隆文は下から掬い上げるように哲を見た。
「今日そのひとと会うんだよ」
「……へえ?」
「それでね、哲についてきてほしくて」
 おもちゃを見つけた子供みたいに目を細めてこちらを見るきれいな顔は、菜穂にはやっぱり似ていなかった。
 菜穂は秋野に言ったとおり、考えが足りず頭の回転も決して速くなかったが、それでもごく普通の感覚を持ったごく普通の女の子で、こんなふうに、ガラス玉みたいな目で人を見たりはしなかった。
 そう言えば、菜穂は兄と折り合いが悪かった。出来がいいとか悪いとかの違いではなく、あっけらかんとしたあの性格では、隆文とは合わなかったのだろう。
 同じ両親から生まれ、同じように育てられた兄妹なのに不思議だな、と思う。一人っ子の哲にはよく分からないが、もしも哲に兄弟がいたとしても、やはり隆文を理解することはできないのだろう。
「何で俺に?」
 穏やかに訊ねたら、隆文はふふふ、と小さい女の子みたいに笑った。
「だって、哲は強いでしょう」
「隆文さん、まだ空手やってるんですよね?」
「うん、でも、趣味の範囲でだよ。仕事もあるからもう大会とかには出てないけど」
「じゃあ、俺なんかいらないじゃないですか」
 隆文が、新しい煙草をおもちゃみたいなホルダーの中に押し込んで、ボタンを押す。白いLEDライトがちかりと灯るのを、ぼんやりと見つめた。
「……哲はさ」
「はい?」
「もっと──違うふうに生きてると思ってた」
「……」
「びっくりしたよ、居酒屋で会って」
 口をつけないまま煙草を弄ぶ隆文の指先と、一見凪いだように見える目を横から眺め、呼び出されたわけが腑に落ちた。
 隆文の期待した哲は、こんなふうではなかったのだ。
 菜穂の彼氏だった頃の哲は、学校にいても授業にはほとんど出ず、喧嘩しているかその辺でサボっているかのどちらかだった。興味を持っているのは人を殴り、殴り返されまた殴ることだけ。多分、今よりもっと荒んだ顔をしていただろう。
 今、哲があの頃よりマシな人間になったのかと言えば、別にそんなことはない。だが、外見からは、他人にはそんなことは分からない。絵に描いたような不良学生だった哲と、居酒屋で黙って働く哲を比べてみれば、まともになったと思うのが当然だ。
 思うようにならない自分の人生。どうして自分だけがそんな思いをしなければならない。こいつでさえ、あの頃よりいい人生を送っているというのに。
「──俺は変わってませんよ」
「そうかな。変わらないやつなんている?」
「そりゃまあちょっとは変わったとこもあるとは思いますけど。でも、多分根っこはあんときのままです」
 銜えたまま喋ったら、煙草の先から細かな灰が散って、黒っぽいカウンターの天板の上に飛んだ。
「隆文さんが来いっていうなら一緒に行きますけど」
「うん」
 吸わなくても灰にならない煙草にじっと目をむけ、結局隆文は手にしたそれに口をつけた。煙草のような煙草でないような匂いがする。何も燃やさないからか、有毒なのかそうでないのか判別し難い香りが。
「……行こっか」
 暫く経って呟かれた隆文の声に、哲は頷いて立ち上がった。