仕入屋錠前屋74 光の渦 1

 なあ、光の渦が見えるか
 これは何だろう
 いいものなのか、そうでないのか
 まあ、どっちでもいいか
 どうせ俺には良し悪しも──善し悪しもわからないのだから
 とても
 きれいだ

 

 

 ああ、嫌なやつに会っちまったなあ、と言うのが哲の偽らざる気持ちだった。
 だが、さすがにそれを顔に出すわけにはいかないので、喜んでいるわけでもないが特別嫌なわけでもない、という顔をするに止めた。
「何年ぶりになるかな?」
 そんなことには無頓着そうな顔をして実際は敏感であるその男は、にこにこと無害そうな笑顔で哲を見上げた。手に持っていたゲソ揚げの皿を男と連れの前に置きながら考える。最後に顔を見たのは、哲が高校二年のとき──但し、一回目の──だから、十七歳だかそのくらいのときだ。
「……十年とか、それ以上っすかね」
「だよねえ。ほんと懐かしいね」
 男にしては綺麗な顔。連れの女は男の顔を見てうっとりと目を細める。
 お姉ちゃん、そいつは止めといたほうがいいぞマジで、と内心で忠告しつつ、哲はそれじゃあとテーブルに背を向けた。男はそれ以上哲には声をかけず、女と何か喋っている。だが、どうせそのうち連絡がくるのは分かっている。哲は厨房に引っ込みながら、小さく溜息を吐き出した。

 電話は、予想に違わずその週のうちにかかってきた。
 番号は当時の知り合いに聞いて回ればすぐに知れることだし、別に意外でも何でもない。
「この間はどうもね」
 電話の向こうの声は昔とも、この間ともまったく変わらない調子だった。先日見た姿を脳裏に思い浮かべながら声を聞く。色素が薄く、緩くウェーブした猫っ毛、細身の身体。妹とはあまり似ていない顔立ち、いつでも上機嫌に見える微笑み。
「いつ戻ったんすか、こっち」
「二週間くらい前かな」
「そうですか──菜穂は元気ですか」
「うん、もう結婚して二児の母だよ。俺も暫く会ってないけど」
 菜穂は哲が高校時代にほんの数ヶ月付き合っていた同級生で、彼は菜穂の兄だ。
「ねえ、哲、これから暇? ちょっと時間は遅いけど、飲まない?」
「すいません、今日はちょっと──」
 言いながら、空気が変わるのが電話越しにも分かって眉を寄せる。面倒くさくて思わず溜息を吐きそうになったが何とか堪えた。
「──先約があるんで、明日は?」
「ああ、じゃあ明日にしよっか」
 携帯から漏れ出てくるのではないかと思った冷え冷えとした何かは瞬時に霧散した。待ち合わせの場所と時間を決めて電話を切り、哲は携帯を放り出した。
「先約って俺か?」
 携帯を膝の上に放り出された秋野は、煙草の煙の向こうで目を瞬いた。
 秋野の新しい部屋の一階は、そこだけ内装工事が終わっていて、こじゃれた店の様相を呈している。そうは言ってもテーブルも椅子もなく、あるのは備え付けのバーカウンターとスツールだけだ。酒が並んでいるべき棚は相変わらず空っぽで、ダウンライトが何もない棚をむなしく照らしている。
 うー、と唸って煙草に火を点ける哲を眺めながら膝の上のスマホをつまみ上げてカウンターに置いた秋野は、灰皿の縁で煙草の穂先を払った。
「帰ろうとしてなかったか、さっきまで」
「うるせえな、方便だ方便」
 確かに、バイトの後耀司に頼まれた物を届けに来たが、すぐに帰るつもりだった。そこに電話がかかってきたのだ。仕方がないから秋野の隣に腰を下ろして煙を吐いた。
「どうすっかな……部屋の前とかにいたら面倒くせえしなあ」
「何だそれは」
 秋野がちょっと驚いた顔をする。確かに、そこだけ聞いたらストーカーだ。
「いや、ストーカーとかじゃねえぞ」
 手を伸ばして、秋野の前にあった水のペットボトルを手に取った。ほとんど残っていなかったから一気に呷ってボトルだけ戻す。秋野はボトルから哲へと視線をやったが何も言わなかった。
「高校ん時にちょこっとつきあってた子の年子の兄貴。別に仲はよくねえ。ただ、そいつに空手習ったんだ」
「へえ」
「妹と別れてからも空手目的でちょいちょい会ってたんだけど、変わった奴でよ」
 身長は哲と同じくらいあるから決して低くはないのだが、全体的に細っこい優男で、とても空手なんかをやるようには見えない。だが、全国大会なんかでもしょっちゅう上位に入っていたらしく、少なくとも試合では滅法強い。しかも地元でも有名な進学校に通っていた。
「妹は言っちゃ悪いけど、馬鹿だったんだよなあ」
 しみじみ言うと秋野は笑った。
「まあそれはいいんだけどよ。普通はほら、グレた奴となんか関わりたくねえだろ、いい学校通ってる奴は。で、例えば俺に構う理由がよ、正義感に燃えてて俺を更生させようとかな、そんなんだったらいいわけよ」
「更生するのか」
「いや、しねえけど。そういうことじゃねえっつの」
 脛を蹴っ飛ばそうとしたら秋野はひょいと脚を避けた。
「くそったれ──まあいいけどよ……十代ってそういう勘違いもアリじゃねえ? いいとか悪いとかじゃなくて、そういう熱い奴もまあまだ結構いる年代だよな」
「ああ、言ってることは分かる」
「でも、そいつはそんなんじゃなくて、あれは、なんつーんだ、俺がそれで駄目になりゃいいって期待してたと思うんだよな」
 哲はまったく変わっていなかった男の目を思い出した。
「どういうことだ?」
「だから──喧嘩ばっかしてる俺が空手習って、人より強くなったらどうなるよ? 殴り方とか蹴り方とか覚えたら、今よりもっと手に負えなくなって、誰かに怪我させっかもしれねえ。そんで少年院送りとかになったかも。そういうのが好きなんだ、アレは」
 ダウンライトに照らされた秋野の瞳は色がないように見えた。長い睫毛の向こうで瞳孔がぎゅっと縮む。
「自分の手で直接誰かを傷つけんのには興味ねえんだろ、多分な。そういうことしてんのは見たことねえし、聞いたこともねえから」
 その目にぼんやり目を向けていたら、秋野は天井に煙を吹き上げながら僅かに首を傾げた。
「──それは、お前だけが対象なのか?」
「ああ? いや、違う」
 哲は秋野が灰皿に吸殻を放り込むのを見るともなしに見ながら煙を吐き、滅多に思い出さない高校時代のことを思い出した。
 思い出したくないわけではなくて、必要がないから思い出さないだけの諸々。楽しいこともそうでないことも人並みにあったが、特別心惹かれることもない。
「俺は空手習ってるってのがあったから却って付き合いとしては薄かったと思うぜ。話も空手のことばっかで、他のこと喋った記憶ねえし。奴の知り合いみんな知ってるわけじゃねえけど、まあ誰に対しても似たり寄ったりっつーか、俺よりずっといじられてたな、どいつもこいつも」
「ふうん。でも、部屋の前にいるかもしれないとは思うんだろう」
「ああ、それは、ほんとに先約があんのかって疑って、そういう嫌がらせする奴だから」
 気が付いたら秋野がスツールから下りて横に立っていた。唇の間の煙草を抜き取られたと思ったら、顎を掴まれた。物凄い力で締め上げられて口が開く。突っ込まれた舌がぬるりと舌の上を這い、哲は低く呻き、顔を振って逃れた。
「痛えな! 人の顔を物みてえに掴むんじゃねえ!」
 肩口を掴んで押しやると、秋野は片笑みを浮かべた。
「で、何で十年ぶりなんだ?」
「ああ?」
 座ったままの哲に覆いかぶさる秋野の腕とカウンターに囲われるようになって、哲の眉間に皺が寄った。
「だから、その彼女の兄貴と。お前地元はこっちだろう」
「知らねえよ、詳しいことは。あっちが就職とかでどっか」
 話している途中だというのに唇に食らいつかれて言葉が途切れる。意に反して舐め回され、吸い上げられて息苦しさに秋野の唇に齧りついた。
「死ぬ!!」
「死なんだろう、キスくらいで」
「窒息するっつってんだ!」
 秋野は喉の奥で小さく笑い、哲の首筋にきつく噛みついた。長い腕で拘束され、圧し掛かられて、座ったまま押し潰されるのではないかと半ば本気で心配になる。喉から顎の下、耳に秋野の歯が食い込む。歯だけではなくいずれ別のものも身の内に食い込むのだと思ったら、秋野の腕を剥がそうともがく指の先が微かに震えた。
「そういうことなら泊まって行け」
「ちょっと時間が潰れりゃいいんだよ! 泊まる気はねえっつの!」
「まあそう言うなよ。でもまあ、そんなに一緒に寝たくないなら、寝なきゃいい」
 哲の耳朶をしゃぶりながら、低い声で秋野は言った。
「興奮すれば目は冴えるしな?」
 唸り声を上げて蹴り出した哲の足は、今度こそ秋野の脛に命中した。