仕入屋錠前屋73 ここまで来てしまった 2

「何じろじろ見てやがんだ、ああ?」
 気に食わない人間に因縁をつける怖いお兄さんそのものの顔をじっくり眺めて、秋野は緩く首を振った。
「やっぱりあいつはおかしい」
「はあ? おかしいのはてめえだろうが」
「俺もおかしいが、いや、そういう意味じゃない」
「どうでもいいからとっとと退け。重てえだろうが」
「俺の部屋だし俺のベッドだから好きにするよ」
 そう言いながらも上半身を少し持ち上げると、哲は身体を反転させ、秋野の下から半ば這い出た姿勢でベッドの下に手を伸ばした。床に落ちた服の中に手を突っ込み、探し当てた煙草のパッケージとライターを掴み出すと仰向けになる。さっきの姿勢のままだった秋野と目が合うと、不機嫌面で吐き捨てた。
「退けっつてんのが聞こえねえのか。邪魔だ」
 普通ならさっきまではあんなに可愛かったのに、とか何とか言う場面だ。しかし、さっきまでも全然可愛くなかった男にかける言葉を思いつかず、秋野は黙ってほんの少しだけ身体をずらした。完全に重石が取れなかったことが大層不満だったらしく、哲は煙草を銜えながら睨みつけて寄越した。中々凄い目つきではあるが、秋野にしてみればそれこそ可愛い、と思う。にやにやするばかりの秋野に舌打ちし、哲はせめてとばかり秋野の顔に向かって煙を吐き出した。
「煙いよ」
「燻煙されちまえ」
「うん」
「ああ?」
「え? ああ、いや?」
「何なんだよ、人の腹の上で考え事すんじゃねえ。重てえんだからどっか行け」
 苛立ちを隠そうとしない哲を上から眺め、三度ほど煙をかけられてから煙草を奪い取り、吸いつけてから哲の唇の間にまた突っ込んだ。哲は歯を剥いて唸り、意味は判然としないものの、気に食わないという意思を表明してみせた。
「なあ、哲」
「何だよ」
「この間の女がいたろ?」
「どの女だよ」
「お前に連絡取りたいってしつこかった女。相方が黄色い髪で年配の」
「あ? ……ああ、あの金庫なあ」
 若干うっとりとした表情で口にしたそれは女の名前でも女の特徴でもないだろうと思ったが、まあそこはどうでもいい。
「寝た?」
「は? ネタ? 寿司か?」
 目を瞬く哲の指先から灰が落ちそうになったから、手を伸ばして灰皿を取り、ついでに煙草も奪って吸いつけた。
「誰が寿司ネタの話をしてるんだ。その女と寝たのかって訊いてる」
哲がものすごく嫌そうな顔をして前髪をかき上げた。まだ少し湿っぽい額が一瞬露わになってすぐに隠れた。
「何だいきなり。それがお前に関係あんのか」
「さあな?」
「……寝たとしたって、てめえに文句言われる筋合いはねえぞ」
「別に文句はないし、お前が女と寝ようが、努力の挙句やめようが、口出しする権利はないが」
 口の端を曲げた秋野の笑みに、哲は剣呑な視線を寄越す。
「どっちでもいいならつまんねえこと訊くんじゃねえよ」
「訊いたっていいだろう、別に」
 どっちでもいいとは言っていないが、そこは指摘しなかった。哲は秋野の顔を数秒見つめた後、面倒くさそうに舌打ちし、顔を背けた。
「まあどうしても言いたくないなら別にいいが」
「お前はどうなんだよ」
「え?」
 突然振られて、質問の意味を掴み損ねる。
「何がだ?」
「だから、最近女と寝てんのか」
 秋野は哲の顔を骨ごと掴んでこちらに向けた。哲は威嚇するように低い唸り声を上げて秋野の手をはたき落とした。
 哲の身体中に触れ、舐め、噛みついて吐き出す息まで奪っても、それはひと時のことに過ぎず、まだ足りない、何もかも欲しいという衝動が腹の底からせり上がる。
 毎度その調子なのに女と寝たところで、結局哲を思い出して上の空になるだけだ。それに気づいてからは、ほとんど女を抱くこともなくなった。仕事の都合で必要だと思えばそうすることもあるが、別に進んでしたいとは思わない。
 女だろうが男だろうが、息をして動いているものすべてを哲から遠ざけたい。哲の本能なんか知ったことか──そんな思いが胸の内を掠めても、素知らぬ顔で打ち消し気づかなかったふりでやり過ごす。いつもそうだ。
 そんなふうに哲を縛ってしまいたいと考えるのは、多分驚くほど簡単だろう。知らず自分に嵌めた箍を外してしまえばいいだけだ。そうしてしまえと煽る何かが身の内に確かにあるが、ようやく逃げようとしなくなった哲を失う危険を冒してまで、そうすべきなのか分からない。
「知りたいのか?」
 今またこみ上げる馴染みの衝動を、フィルターと一緒に噛み潰す。哲は眉を顰め、灰皿に放り込まれた吸殻に目を遣って、秋野の顔に視線を戻した。
「……別に」
 両手で素早く哲の頭を掴んで枕に押さえつける。指に感じる硬い頭蓋の感触に一瞬目が眩む。
「離せコラ! 人の頭を何だと思ってやがる!」
「──随分前から」
「ああ!?」
「仕事絡みは別として、お前しか抱いてない。別にそうしようと決めてるわけじゃないけどな、まあ、結果的にそうなってる」
 哲は不意を衝かれたのか一瞬ぽかんとした顔をして、次いで剣呑な目つきで秋野を睨みつけた。
「ああ、そうかよ。そりゃご愁傷様。言っとくけど俺はんなこと頼んでねえぞ」
「分かってる」
 頼まれてはいない。だが、望んではいるか?
 そう訊ねてみたいとも思ったが、結局飲み込んだ。答えは何となく想像がつくし、進んで傷つくほど自虐的な質でもない。
 哲のうなじを掴んで引き寄せ、のし掛かって噛み付くように唇を重ねた。案外おとなしくされるままになっている哲の口内の粘膜を舌で探り、唇に齧り付く。
 当たり前のことだが、哲であっても口の中は温かく、柔らかい。そんなことが毎度どうしてか不思議で、そして何故か喉が痞えたように息苦しい。
「……後悔してるか?」
 哲の目を覗き込んで、別のことを訊ねてみた。哲は凶暴と言ってもいい目つきで秋野を睨んで鼻を鳴らした。
「はあ? 何をだ? 俺の人生後悔だらけだぞお前、んなこと聞くな、阿呆らしい」
 錠前屋らしい言い種に思わず吹き出し、秋野は哲の目蓋に口付けた。唇を啄んだら、低く呻いた哲の掌に、乱暴に顔を押しやられた。
「気色悪ぃな、やめろっつーの。大体よ、ひとつの後悔もしねえような、そんな真っ当なもん面白くねえじゃねえか」
「そうだな──」
 ここまで来てしまった。
 哲もそう思っているだろう。その理由はお互い違うとしても。今はそれ以上考えたって仕方がない。
「何だ。言いてえことがあんなら言えよ」
「何でもないよ。シャワー浴びて来い」
 哲の上から身体を退かし、仰向けになる。煙草を取ろうと伸ばした手を哲に掴まれた。腕を引っ張ったら釣り上げた魚みたいに哲がついてきて、秋野の首筋に噛み付いた。
「──とっとと退けって言ってなかったか」
「気が変わった」
 素っ気なく言って、哲は秋野に覆い被さった。
「どうせつまんねえこと考えてやがんだろ。んなことどうでもいいからもっかい入れろよ」
「勝手な奴だ」
「うるせえ、死ね」
 哲の骨ばった指に掴まれ擦り上げられ、それだけですぐに硬くなった。腹筋だけで起き上がり、腰を掴んで引き寄せ、まだ濡れている哲の中にすべて収めた。
 体重をかけ、哲を組み敷く。腰を高く上げさせて抜き差ししたら、ぬめるものが擦れて淫らな音が立つ。奥を突いたら哲の足の指がぎゅっと縮み、激しさを増すとともに案外艶っぽい呻きが漏れた。仰け反る哲の喉元に食らいつく。
「うぁ──、あ、くそったれ……!」
 つい、という感じで声を上げた哲は眉を寄せたが、もっと寄越せというように秋野に脚を絡めて引き寄せ、内側と同じように秋野を強く締め付けた。
「なあ」
「──ああ……?」
「こんなとこまで来ちまったが、俺はひとつも後悔してない」
 哲は呆れた顔で「ああ、そうかよ」と言って、頰を歪めて少しだけ笑った。
「馬鹿だろ、お前」
 深く押し入るほどに濡れる哲の喘ぎも、睨みつけてくる険しい視線も、錠前の上で閃くその指先も、まとめて全部食ってしまいたい。
 まあでも──自覚の有無はともかく──最初にそう思ったのは、最初に会ったあの場所で、だ。