仕入屋錠前屋73 ここまで来てしまった 1

 やたらしつこく電話が鳴るからてっきり哲の嫌がらせかと思ったら、ディスプレイに表示された番号はヨアニスのものだった。
 部屋の中はまだ夜明け直前の薄青さに沈んでいた。早朝に何事かと一瞬思ったが、考えてみたら向こうは夜だ。急用ではないだろうから無視しようと思ったが、一旦切れた呼び出し音がまた鳴り出したから仕方なく電話を取り上げた。
「何だよ、朝っぱらから」
「アキ、お前、一体どういうつもりなんだ?」
 ものすごい早口の英語で言った後、ヨアニスは同じことを日本語で──速さは英語と変わらなかった──繰り返した。
「何が」
 秋野は起き上がって煙草に手を伸ばしながら訊ねた。少し落ち着いたらしく、先ほどよりは速度を落としつつも、詰問口調はそのままにヨアニスは繰り返した。
「一体どういうつもりなんだと訊いてるんだ」
「だから、何がだよ? そこんとこが分からんと答えようがないだろ」
「言ったよな?」
「言ってないよ」
「ああ、そうか」
 自分の過失はなかったことにしたらしく、ヨアニスはあっさり言った。
「昨日、耀司からメールが来てな」
「……なんだか全然分からんが聞きたくない」
 言ってみたが、ヨアニスこそまったく聞いていなかった。
「お前、哲に女を紹介したって言うじゃないか。一体どういうことなんだ。俺にはまったく理解できん。この間の話はなんだったんだ」
 秋野は今度耀司に会ったら顔面を水がたっぷり入った洗面器に三分くらい浸けてやろうと思いながら溜息と煙を一緒に吐いた。
「別に紹介したわけじゃない」
「じゃあ何だ」
「解錠の仕事を依頼してきた女があいつを気に入ったらしくて、しつこいから繋ぎをつけただけだ」
「……」
「仕方ないだろう、こっちだって商売が絡むんだし」
「仕方なくないだろう、本気で断ろうと思えば断れるはずだ」
「何だよ、お前に関係ないだろ」
 面倒くさくなって天井を仰ぎながら、秋野は煙草を吸い付けた。電話を肩に挟みかけたが、薄っぺらいからうまくいかない。諦めてスピーカーにしてベッドの上に放り出した。
「その後どうしたか俺は知らんし、どうしたってあいつの勝手だ」
 日が昇り室内が徐々に明るくなってくるのをぼんやり眺める。新しい部屋は元工場、その後店舗に改装中だっただけあって窓が一般家屋とは少し違う。建物の上部にある横長で細長い窓は採光窓としては十分に機能しているが、外の景色は見えない。もっとも、景色を愛でる風雅な心もなければ、そもそも愛でるべき景色もない地域なのだが。
「聞いてるのか?」
 ヨアニスの苛立った声に我に返る。
「ああ、悪い。ぼんやりしてた」
「まったく……哲がその女と寝たら、お前、どうするんだって訊いたんだ。女はそのつもりなんだろう?」
「さあな。確認はしてないし、そうしたいならすればいいと思ってるよ」
 呆れたような沈黙があって、その後大きな溜息が聞こえた。ライターを擦る音もする。
「……お前から愛とかいう単語を聞いたと思ったのは白昼夢だったのか? それがどんな形かは知らんが──」
 ぶつぶつ言っている友人の声を聞きながら、秋野はまた天井に向けて煙を吐いた。
「あのな、女と寝るって言うのは、異性愛者の男ならごく当たり前に持つ健全な欲だろう。食ったり眠ったりするのと変わらん。俺はあいつの本能を否定する気はない。そんな権利もないし」
「──そういう問題じゃないだろう」
「そうかな。俺はそういう問題だと思ってるが」
 実際、哲が女と寝たと聞いて腹が立ったことなどなかったし、嫉妬したこともなかった。何しろ雄の本能の塊みたいな奴だ。それがなくなったらそもそも哲ではなくなってしまうのではないかという気もする。
 勿論、哲がどこかの女と結婚するとか言い出したら別だが、と付け足す。電話の向こう、遠く離れた友人が何か言いかけて息を吸ったような音がして、結局それは煙を吐き出す音に変わった。
 灰皿を引き寄せようと前屈みになると、背中の傷が引き攣れた。痛みはないが、縫い合わせた部分が引っ張られ、時折こうして違和感を覚える。いずれ消えていくものだと分かっていても、煩わしいものだ。
 哲への執着も、以前はこの傷のようなものだった。明確な好意もないのに──勿論、単純に人間として好きではあったが──哲のことが頭から離れない。欲しくて堪らなくて、そのくせ手に入らなければいいと思ったこともあった。
 いつも当たり前のようにそこにあるのに、ふとしたときに神経に引っかかって手に負えないほどイラつかされる。それは今でも同じだが、結局それがある種の感情の──愛情の表れなのだと腹に落ちてからは、収まるところに収まったという感じはあった。何か正体の分からないものに振り回されて持て余す、ということだけはなくなったからだ。
「……アキ」
 ヨアニスは何故か酷く硬い声で秋野の名前を呼んで押し黙り、少し経ってようやくまた口を開いた。
「口止めはされてないが、俺が言うべきことじゃないんだ」
「何だって?」
「──多分言わないんだろう、彼は。でも、お前はちゃんと知っておくべきだと思う。そんな、本能がどうとか、言い訳してる場合じゃない」
「だから、何が?」
 ヨアニスは、哲が、と低い声で呟いた。
「哲が言った。お前は自分のものだって」
「……何?」
「聞こえただろ? そう言ったんだよ。他にも聞いたが、それは言わない。自分で聞け」
 返す言葉を思いつかずに黙っていたら、ヨアニスはじゃあなと言ってさっさと電話を切った。とっくに切れた画面をじっと見つめたまま、秋野は暫くそのまま固まっていた。
 ヨアニスが何を言っているのか分からなかった。意味は分かるが、何故そんなふうに考えるのかが分からない。哲がそんなことを言うはずがないから、何かを深読みしたか読み間違えたか──いずれにしても、ヨアニスらしからぬ誤解だった。
 一瞬、本当に哲がそう言ったかとも思ったが、どう考えてもあり得ないからその説はさっさと却下した。哲が秋野を欲しがったことなど一度もない。セックスに限定すればまあ一度もないとは言わないが、それはまた意味が違う。
 いつの間にか長くなっていた灰に気づき、ほとんど吸わないまま燃え尽きたそれを灰皿に放り込んだ瞬間にまた電話が鳴って驚いた。
「言い忘れた」
 ヨアニスはまた勝手に話し出した。
「あのな──」
「そういうことだから、哲に女を紹介したりするのは止せ。あの暴力的で愛想のない男は、俺が言うのも何だが、お前が思ってるよりずっとお前に参ってるんだからな」
「……」
 夢でも見ていた気分でまたしても勝手に切れた電話を眺め、まったくあいつこそ寝惚けてるんじゃないかと溜息を吐いて、秋野はもう一度煙草の箱に手を伸ばした。