仕入屋錠前屋56 ANTHEM 3

 女のヒールがアスファルトにぶつかる音。
 あんなものを履けば早く走れるはずはない。恐怖映画のヒロインが化け物から逃げ切れるのはやはり嘘だと何となく思う。ただ、この靴音の主は追われているのではない。哲と、哲に店から連れ出された男を追ってきたのだ。
 店のドアを出てすぐ、逆戻りするようにして曲がればそこは古いビルが建て込んだ路地になる。男は、一応は腕に覚えがあるのか哲が手を離すなり殴りかかってきたが、脛に叩きつけたローキック一発で呆気なく膝を折った。それでも喚き続ける男の襟元を掴み、引き摺り起して胸の真ん中を蹴りつけた。
「黙れっての」
「祐輝!」
 息を切らせた女が男の名前を呼ぶのと、哲が男を放り出すようにして離したのは同時だった。女の声が狭い路地に反響する。男は両手を地面について咳き込んだ。駆けてきた女が勢いあまって哲にぶつかり、抱きとめた哲の鼻先に長い髪が舞う。夜目にも艶やかな髪からは薔薇の香りがした。
「祐輝、言っておくけど、これ以上私につきまとったら」
「待った、ちょっと待て」
 掴んだ女の肩を押しやって、割って入った。ふらつきながらも立ち上がった男は慌てて哲から目を逸らす。俺は何でこんなことをしているのか、と内心でこぼしながら、半ば自棄になって語を継いだ。
「俺はあんたらと何の関係もねえし、くっつこうが別れようが知ったこっちゃねえけどな、飯食ってる最中にワインボトルでどつかれて笑ってられるような人格者じゃねえ。頼むから今日、ここではやめてくれ。これ以上騒がれたらマジで切れるぞ。余所で、他人に迷惑にならねえとこで殴り合うなりヨリ戻すなりすりゃいいだろ、え? あんたもだ、お姉さん」
「…………」
「——電話するからな、美也。無視すんじゃねえぞ」
「やめてよ」
 美也と呼ばれた女の刺々しい台詞には振り向かず、男は踵を返し、角を曲がって見えなくなった。
 嘆息し、哲は片手で痛む後頭部をそっとさする。店に戻ろうとした哲に女が追いすがり、腕を掴んだ。
「ね、待って。ありがとう」
 見ず知らずの男の腕に躊躇いもなく触れる無神経さに媚が見え、哲は何となく身を引いた。街灯が照らす顔は見知らぬ顔なのに、一瞬どこかで見たような気がして思わずまじまじと見つめてしまう。そうではなくて名前に覚えがあるのだと気付いたが、どうしてなのかは分からなかった。
「何が」
「追い払ってくれて」
「そんなんじゃねえよ。それより、彼氏が待ってんじゃねえの」
「彼はただのお友達で彼氏じゃないわ」
「じゃあ、お友達が待ってんだろ」
「別の約束があるのよ。兄が来るの。だから帰ったわ」
 兄、という言葉を聞いて、哲はようやく思い当たった。秋野によく似た雰囲気の、会社社長。秋野が言っていた、兄貴が可愛がっている腹違いの妹の話。
 哲の眉間に寄った深い縦皺をどういう意味で取ったのか、美也は哲にまた近寄った。他人との間合いにしては近すぎるそれに、一歩引く。美也は何食わぬ顔でその一歩を詰め、嫣然と微笑んだ。
「祐輝だって弱くないのよ。彼があんなふうに言うこときくなんてすごいわ。ね、何かお礼させて」
 にじり寄る美也の腕をやんわりとよけながら、哲は美也の向こうに目をやった。猪田は従兄弟と話し込んででもいるのか、様子を見に来る気配すらない。小さく舌打ちする哲の腕に美也の腕が絡んでまた香水が香る。
「ちょっと待て、おい、あんた」
「どうして? 私の何が気に入らないの?」
「気に入らないなんて言って——いや、だからそういう問題じゃねえって」
「言い訳なんて」
 突然美也の目に涙が盛り上がり、長い睫毛の先から細かな涙の粒が飛んで、哲は思わず言葉を呑み込んだ。女の涙というのは厄介だ。こんな場面で流される涙に今更騙されはしないが、本能的に腰が引ける。
「言い訳じゃなくて、こら、離せ」
「いや」
 綺麗にネイルをした指先が伸びてくる。右手の薬指の爪先に蝶々がついている。そんなんで料理が出来るのか、と思い、しないからつけているのかと勝手に納得した。身体を押し付けられて後ずさったが、数歩後ろに下がったところで背中が雑居ビルの壁に当たった。
「あんたね、こんなことして何か得になんのか」
「恋愛は損得じゃないでしょう」
「俺はあんたと恋愛してねえよ。今さっき会ったばっかりじゃねえか」
「会ったことあるような気がするのよ」
「ナンパにしちゃ古臭えだろ」
 言いながら、哲は壁に背をつけたまま横歩きで逃れようとして失敗した。勿論、押し退けるのは簡単だ。だが、女相手では殴るわけにもいかないし、ちょっと力を入れたくらいで騒がれるのもまた面倒だ。
「おい、離せって」
「私の名前はおいでもあんたでもないわよ」
「そりゃ失礼」
 何とか肩を掴んで引き剥がす。哲のリーチの分遠ざかった顔は白くて小さく、そのくせ噎せ返るほどの女らしさと媚を含んだ、まるで大輪の薔薇だった。綺麗な女は大好きだ。嫌う理由などどこにもない。目の前の据え膳を断ったことも、今までない。だが、今回だけは勘弁だ。秋野の知り合いの妹、しかも兄貴は妹馬鹿と聞く。そんな女に手を出そうものならどんな災難が待ち受けているか分からない。
「なあ、あんた、美也さんって言ったよな」
「そうよ」
「ってことは、あんたの兄貴はあの男前だろ。なんとかいう会社の社長の」
 さっきまではまるで気がつかなかったがこのレストランを経営している会社が、そのなんとかいう会社なのだ。美也はこくりと頷き、怪訝な顔をして哲を見上げた。その表情の意外なあどけなさに一瞬緩んだ手の力を敏感に感じ取ったか、いきなり美也が体重をかけてきた。
「だから——おい、勘弁してくれ!!」
 情けない声が出ていると自分でも思うが、仕方がない。掴んで放り投げたら折れそうで、何より痛いと泣かれでもしたら、万が一怪我でもさせようものなら、一層事態が混乱する。
 地面に押し倒され、腹の上に跨っているのは結構な美人。退いてくれと頼むのは正直惜しいが、それでも本気で困り果て、哲は美也の腕を出来る限りそっと掴んだ。
「頼むから起きてくれ」
 哲の言葉など聞こえないかのように美也が更に体を傾けた。
 グロスというのはどうにも苦手だ。女がやたらとつけたがるぬらぬらとしたあの化粧品、あれはどうやっても油にしか見えないのは自分だけなのか。たっぷりとその油——もとい、グロスがのせられた美也の唇は、柔らかく、ねっとりしていて微かにワインの匂いがした。
「……道端で何をやってるんだ」
 低い声に、美也が身体を起こして後ろを振り返った。哲はその隙にようやく彼女をふりほどいて立ち上がる。美也の背後に立っていたのは、寿司屋で会った秋野の知り合い、確か三科とかいう男だった。その後ろに、半歩下がって秋野が居た。
「お兄ちゃん……秋野さん」
「どうも」
 美也に向ってちょっと頭を下げた秋野は一見無表情に見えるが、哲に向いた薄茶の目は明らかに笑っていた。哲が二進も三進もいかなくなっているのを見て喜んでいるのだろう。哲が睨むと素知らぬ顔で目を逸らす。
「お前は見境がなさ過ぎるんじゃないのか。秋野に散々迷惑かけて次は彼か」
 美也は大きな目を見開いて兄と秋野を見、振り返って哲を見た。
「知り合いなの? さっきも彼——」
「秋野の知り合いだ」
「…………」
「美也」
 三科は美也に歩み寄り、短い溜息を吐いた。その顔貌はやはり秋野とよく似た雰囲気をまとっている。しかし、妹に向ける視線は優しく、兄らしい愛情が色濃く見えた。
「この間も言ったろう。俺はお前に幸せになってほしいから言ってるんだ。真っ当な男と恋愛して、結婚して俺を喜ばせろよ」
 秋野と哲はどうやら三科の真っ当の基準からは逸脱しているらしい。別に残念ではないが、哲と秋野は何となく顔を見合わせた。
 涙目の美也は、頬にかかった髪を手で払い、一度何か言いかけて秋野に目を向けた。秋野は美也の視線を受け止めてはいたが、その顔に動きはなかった。美也が青ざめ、唇を噛む。秋野の表情を伺わせない顔が穏やかに、しかし容赦なく美也を拒絶するのが哲にも分かった。
 だが、多分秋野は好悪で美也への態度を決めているのではない、そんな気がした。縋りつくような大きな目に、ナイフを握った若い男の顔が重なったのは哲の気のせいかも知れないが。
「だって、秋野さんだけだったの」
「何が」
 三科が片方の眉を上げ、秋野を振り返った。秋野は眉を寄せ、首を傾げて三科を見返す。
「みんな、言うのよ。愛してる、好きだ、愛してる、ずっと一緒にいよう、って。繰り返すの、何度も何度も。賛美歌じゃあるまいし、きれいなだけの言葉、何回も。あの人もそうだった。結局奥さんのところに帰ったのよ、私じゃなくて、奥さんのところに」
 レストランで彼女の向いに座った穏やかそうなお洒落な男も、ピンストライプのスーツの男も、言ったのだろうか。彼女の細い腰を抱き髪に顔を埋めながら、愛していると歌うように囁いたのだろうか。
「そんなの、言うのはタダだって……ほんとのこと言ったのこの人だけだったの」
 不意に、堰が切れたように美也の目から涙が溢れた。歪んだ顔を両手で覆って泣く彼女を、秋野は何の感情も見えない薄茶の目で見つめていた。