仕入屋錠前屋56 ANTHEM 2

「なんでこんなとこでお前と飯食ってんだろうな、俺は」
 哲はフォークの先でグリルされたパプリカをつつきながら、向かいに腰掛けた男に目を向けた。きっちり着込んだスーツが似合うようになってきた。ということは、サラリーマンが板についてきた、ということだ。自分ではこうはいかないと思いながら、語を継ぐ。
「美味いけど何か落ち着かねえし、そもそも男同士でくるような店か、ここ」
「うーん、それは俺も思うけどね」
 周囲を見回し、猪田は細長い華奢なグラスに入ったビールをしげしげと見つめ、暫く迷った挙句ごくごくと飲んでテーブルに置いた。
「まあ、いいんじゃない。タダなんだし」
 そう言って笑い、猪田も皿の上の野菜を口に運ぶ。新しくオープンしたレストランに猪田の従兄弟が勤めることになった、というのは随分前から聞いていた。何とかフーズとかいう会社の店ではあるが、チェーン展開する予定はないらしい。
 前評判もなかなかで、従兄弟はこの店に勤めることを楽しみにしていたそうだ。ソムリエだという従兄弟から猪田に食事券が届いたのはオープンしてひと月経った先月末で、彼女と別れて丁度一年経つ猪田が誘ったのは哲だった。
「文句はねえけど。俺の他に誰かいんだろ、もっとこういうとこの似合う奴が」
「別に場違いじゃないと思うけど。それより哲だって料理人の端くれだろ。向学心を持ってだねー」
「るせえな、俺に学とかいう字のついた単語はおよそ似合わねえんだよ。とにかく尻の座りが悪ぃっての。で、お前の従兄弟ってどれよ」
「あれ、ほらあそこで鼻の下伸ばして女の子に赤ワイン注いでる……」
「伸びてっか?」
「伸びてる。かなり伸びてるね。羨ましいな。綺麗な女の子たくさん相手にしてさ」
 俺なんて得意先は親父ばっかだ。零す猪田の頭上には太い木の梁が剥き出しになっている。焦げ茶の梁と白い天井、ダウンライトのやわらかな光。雑誌で取り上げられたというのも頷ける、所謂今時の洒落た店である。
 アイボリーの革張りソファ、曲げ木の脚のシンプル且つ優雅な椅子。全体に華奢な家具はいかにも女が好みそうで、そのせいか哲の目には頼りなく映る。
 誇らしげにワインのボトルを抱えた男は、従兄弟だと言われたせいか、目元と鼻が猪田に似ているような気がしないでもない。
「つったってよ、こんなとこ一人でくる女なんていねえんだから。大抵カップル——」
 言いかけた哲の声を遮るように、金属音が続けて響いた。猪田の従兄弟が驚いたようにこちらを見たが、勿論哲を見たわけではない。猪田が従兄弟と同じく見開いた目で哲を通り越して向こうを見つめる。肩越しに振り返った哲の目に映ったのは、斜め後ろのテーブル席の足元に散らばったスプーンやナイフの銀色だった。
「何よ……」
 哲に背を向けている女が震える声を出す。女の正面には顔色を失った男。金をかけた服や髪は芸能人か何かのようだが、顔は青ざめ、開きっぱなしの口が困惑を表すように顔の真ん中にぽっかり空ろに開いている。女はこちらに背を向けているから顔は見えない。紺のニットは背中が大きくくれていて、長い髪の隙間から、白い肌とピンクゴールドの細いチェーンが透けて見えた。そして、男と女が見上げているのはテーブルの脇に立つもう一人の男だった。
「何よ」
 もう一度、女が繰り返す。立っている男はなかなか男前だが、雰囲気に些か品がなかった。黒いシャツはノータイ、ピンストライプのスーツはまるでホストの仕事着だ。
「どういうつもり? こんなとこで、みっともない」
「お前こそどういうつもりなんだよ。あんな電話一本で俺のこと切ろうってのか、え?」
 痴話喧嘩か、と口の中で呟き哲は視線を皿に戻した。猪田は相変わらず口を開けたまま哲の背後を見ていたが、哲は最早そちらへの興味を失っていた。
 焦げ目がついたアスパラガスを口に運ぶ。塩とレモンとオリーブオイルだけの味付けだが、素材がいいのか妙に美味い。何事もないような顔をして料理にとりかかった哲を見て、猪田が眉を八の字にし、自分の手元と哲の背後を交互に見て結局フォークを持ったままビールを飲んだ。
「だから会いたくなかったのよ。止めてよ、人前で。私は今彼と食事してるの。あなたとじゃない」
「俺はお邪魔か? へえ、そうかよ」
 言い合いは続いていたが、女の連れの男は一言も発しない。恐らく立っているのが前の彼氏、座っているのが今の彼氏なのだろうが、今の彼氏のほうが穏やかな性質なのだろう。猪田の従兄弟がワインボトルを持ったまま走り寄ってきて、お客様、よろしければお掛けになりませんかと声を掛ける。男はうるせえ引っ込んでろと従兄弟を突っぱね、女は一緒の席なんてとんでもないわと甲高い声を上げた。
「……哲」
「ん?」
「止めたら」
「何で」
「慣れてるだろ、こういうの」
「確かに酔っ払いの相手は慣れてるけどな、俺はここの従業員じゃねえんだぞ。嫌だね」
「だけどさ」
「放っとけよ」
 ぼそぼそと口の中で呟きつつ、哲はグラスを手にした。背後で男が怒鳴り、何組かの客が料理を途中で止めてそそくさと席を立った。
 確かに、気持ちは分かる。哲はレジへと向かう男女を見ながらビールを呷った。男は、哲が言うのもなんだが品位に欠ける。食事を不味くこそすれ、少なくとも気分良く飲み食いするのにいい見世物ではなかった。
「哲」
「だからぁ、俺は」
「お前に関係ねえだろうが! 引っ込んでろよっ」
 皿が割れる音に、きゃあ、とどこかの席で女が悲鳴を上げた。男が猪田の従兄弟の胸を手で押す。もう一人の店員が男の肩を掴んだ。男はその手を振り払い、猪田の従兄弟が持っていたボトルを取り上げて喚く。振り回した瓶が当たって、従兄弟はよろけてテーブルの脇に尻餅をついた。
「お客様……」
「うるせえんだよ!」
 男がボトルを店員に投げつけたその瞬間。哲の視線はフォークの先に刺さったエリンギの方に向いていた。

 ごつん、という音は実在するのだと哲は変に納得した。
 本気でぶつける気がなかったのか、それとも単にノーコンなのか。事の真偽は定かではないが、男の投げたボトルは店員を大きく外れ、哲の後頭部に当たったのである。勿論哲はその瞬間を見てはいないから、すべてが想像ではあるが。
「…………いってぇ……」
「哲っ! 大丈夫かっ!?」
 猪田が椅子を蹴ってその場に立ち上がった。テーブルの上でフォークがカトラリーレストにぶつかって癇に障る音を立てる。
 猪田の声、店員の声、他の客のざわめきに店内のBGM。様々な音が頭に響き、哲は衝撃で前のめりになった姿勢のまま、後頭部に手をやった。既に腫れ始めている一箇所は、立派な瘤になるに違いない。哲はゆっくりと身を起こしつつ低く唸った。
「………………あったま来た」
「え」
 応えたのが猪田なのか店員なのかは分からない。立ち上がって振り返ると、スーツの男と目が合った。男はさすがに気まずげだが、それでも曲げた唇が俺は悪くないと主張しているようだった。男と言い合っていた女も立ち上がりこちらを向く。細面の白い顔は美人だが、今の哲に女の美醜は食べ残したエリンギ程度の問題である。
 床から立ち上がろうとする猪田の従兄弟を跨ぎ越し、店員を押し退け男の前に立つ。また一組客がレジに向かい、客の膝からはらりとナプキンが床に舞った。
「黙って聞いてりゃぎゃんぎゃんうるせえ。迷惑なんだよ、人が飯食ってる傍で」
 女の脇を通り、男の前に立つ。
「ああ? 何だお前? 関係ないやつは引っ込んでろよ!」
「他人の頭に瓶ぶつけといて関係ねえはねえだろうが、ああ?」
 男の鼻先に顔を寄せ、地を這うような声で凄んだ哲の迫力に怯んだのか、男の顔が一気に青ざめた。猪田の従兄弟が立ち上がりきる前にまた床に腰を落とし、口を開けて哲と猪田を交互に見た。
「ちょっと表出ろお前」
「ちょ」
「いいから来い」
 哲は男のピンストライプのスーツの襟を掴んで勢い良く引っ張った。首根っこを捕まえられた男は何か喚いていたが、肩越しに睨みつけると口を閉じた。荷物のように男を引き摺って出口に向かうと、何故か店員がホテルマンのようにガラス戸を開けて待っていた。
 男を外に連れ出す哲に、店員——後で聞いたが店長だった——は満面の、惜しみない感謝の笑みを向けた。