仕入屋錠前屋56 ANTHEM 1

 ミユキ・フーズはヤクザ上がりの三科康夫という男が起こした会社で、元々は、小さなお好み焼き屋である。ヤクザというより代々続く地元のテキ屋に近かった三科の組は、ヤクザを辞めて飲食店へと転身した。まさかここまで大きくなるとは、誰も思いもしなかっただろう。
 父親が退き息子に経営を譲った今は、全国チェーンなどを展開する会社にこそ及びもつかない規模ではあるが、それでも優良企業、有望な中小企業として認知されている。会社を継いだ息子の善行は、二世とか七光りとか言わせない、父より有能な経営者だ。
 その善行は、秋野の顔を見て笑い出しそうな、怒ったような、不思議な顔をしてみせた。
「……物騒だな」
「何が」
 片方の眉を引き上げ、善行は暫し窺うように秋野を見上げていたが、また口を開いた。
「喧嘩か?」
「喧嘩?」
「口の傷。うちの社員を驚かせるのは止してくれよ」
「ああ」
 秋野は、下唇の傷を舌の先で軽く舐めた。ようやく血が固まって瘡蓋になったところだ。絆創膏を貼るわけにもいかない場所だからそのままにしているが、確かに穏やかでないといえばそうとも言える。
 二日前の晩、哲に思い切り齧られた痕である。但し、喧嘩をしたわけではない。まあ中らずと雖も遠からず、ではあるが。
 秋野は煙草を取り出しかけ、善行の咎める視線に禁煙だったと気付いて軽く舌打ちした。
「その年になって喧嘩なんか止せよ」
「喧嘩じゃないよ。噛まれた」
「誰に」
「犬に」
「何言ってるんだ、お前」
 善行は溜息を吐き、椅子に凭れた。メモパッドに走り書きで、来月の日付と時間が書かれている。一見乱雑に積まれた書類に決済印が押してあり、付箋が山ほど貼られた資料らしき紙の束が一番上に乗せられてずり落ちそうになっていた。
「忙しそうだな」
「ああ、お陰様で」
「その忙しい時に、しがないチンピラ呼びつけて何だよ」
「……座れよ」
 促され、客用ソファに座り込んでテーブルに足を載せた。善行は嫌な顔をしたが何も言わず、秋野の視線を受けてふと目を逸らした。
「昨日は、妹が悪かったな」
 善行はデスクに肘を載せ、掌で頭を支えて顔を伏せる。善行が妹を庇うのも可愛がるのも自由だが、あの妹のお陰で要らぬ苦労を強いられているのにと、時折その溺愛ぶりに疑問を抱きたくなる。
 秋野はテーブルに載せた足の先を何とはなしに揺らしてみた。ブーツの爪先の向こうにある善行の顔は、デスクの天板と向かい合ったままだ。善行は、妹の美也とはまるで似ていない顔を上げた。その鋭い容貌を眺めつつ、秋野はテーブルからゆっくりと足を下ろす。
 不倫の挙句、別れ話をした相手を刺して怪我を負わせた女。善行の妹、広井美也への秋野の認識はその程度だ。
 兄貴に頼まれて彼女のお守りをした時に、秋野は美也に散々なことを言った。そのことで恨まれようと敵視されようとどうでもいいことだと思っていたのだが、何故かそうはならず、美也が今度は秋野に興味を示したから正直焦った。
 よく見たら物凄く好みのいい男だったという美也の言い草は、取ってつけたようで信じる気にもならない。大方不倫熱が冷め、手近にいた秋野にたまたま目が向いたというだけだろう。
 女に好かれて悪い気はしないが、面倒くさい女は遠慮したいし、おまけに善行の妹などとんでもない。兄貴から言い聞かせろと迫った秋野に善行が出した条件がひとつあった。
「……お前が妹のことはちゃんとするって言うから、哲と会わせたんだぞ」
「分かってる。申し訳ない」
「まあ、子供じゃないんだし、お前を責めても仕方ないけどな。さすがにあれはやりすぎだって言っておけ」
「どうしてああなんだかな。自分を安売りするなとは言ってあるんだが」
「本人は安売りしてるつもりじゃないんだろ」
 昨日の昼間、どこで聞きつけたのか秋野の出先に現れた美也は、話を聞いてくれなければ帰らないと人前で散々ごねた。泣かれ地団太を踏まれてはさすがに放っておくこともできず、渋々ついていった高級ホテルの部屋で美也は突然脱ぎだして、秋野は何とか服を着せようと、散々な目に遭ったのだ。
「女に脱がれて心底困ったのは初めてだったよ」
「すまん。情緒不安定なんだ。この間もなんとかいう男と別れたとか言って」
「——身内だから庇うのもいいが、甘やかすなよ。大人なんだから過保護にするな」
「お前だって同じだろう」
「何が?」
「何がって、あの佐崎っていう若いのだ」
「どういう意味だ」
 本気で問い返すと、善行は逆に驚いたような顔をした。
「お前が何で俺に会わせたくないのか分からなかったが、会って尚更分からなくなったよ。どう見ても庇護が必要なタイプには見えなかったぞ」
「別に庇ってない」
「そうなのか? まあ、それだけ目をかけてるっていうことなのかも知れんが」
「そういうんじゃないよ」
 思わず苦笑を漏らした秋野を怪訝そうに眺め、善行はメモパッドに何か落書きをし始めた。
 どうでもよさそうに紙に線を引いている善行は、確かに自分に似ていると思うし、美也も、そして哲もそう言っていた。
 自分に似たものを見て自己愛を感じるタイプの人間もいるだろうが、秋野自身はそうはなれない。似ているということは、長所も短所も多かれ少なかれ似ているということだ。己の欠点を眼前に突きつけられるというのは、いたたまれない。誰しも冷や汗が浮かぶことだし、秋野も決して例外ではない。
 短所を目の前にして怯む自分を見られたくないのは自然なことだと思う。勿論相手との関係にもよるが、哲にはそういうところにはいて欲しくないと思うし、だから善行に会わせるのが嫌だったのだ。
 善行がメモパッドを一枚千切り丸めかけて止め、手帳に時間を書き写すのをぼんやり見つつ、秋野は組んだ指の先を無意識に擦り合わせた。
 弱みを見せたくないというのとはまた違う。自分の弱さを見せるのはいい。そのことで哲がどう思おうが、それは秋野にはどうしようもないことだから別にいい。
 ただ、自分の暗部に向き合うときに、誰かに傍にいられるのが嫌なのだ。独りにして欲しい、そう思うのは、他人ではどうすることもできないからかも知れないし、もしかすると案外無意識の見栄かも知れない。
 誰の助けも要らない、というほど自惚れても悟ってもいない。だが、誰にも助けてもらえないことも確かにあるのだ。
「——まだ若いんだし、年相応の、人のものでない男を探してやれよ」
「言うこと聞くかどうかは分からんがね」
 目を上げて答え、手帳を内ポケットに仕舞った善行は広い肩を竦め、深く長い息を吐いた。
「これから会うんだ。もう迷惑はかけない。きつく言っておく」
「そうしてくれると助かる。美人だし勿体ないが、お前を兄とは呼べないからな」
「俺だってお前みたいな義理の弟は願い下げだね。三十もとうに超えて喧嘩で怪我してるようなやつに美也はやれん」
 書類の付箋を一枚剥がして矯めつ眇めつしながら、善行は呟いた。
「だから、喧嘩じゃないって言ってるだろうに」
「犬に噛まれたなんて嘘、つまらんぞ」
「犬みたいなもんなんだよ。庇う必要なんかないってのが分かるだろ」
「は…………」
「あの馬鹿は俺を助けてはくれんし、俺も助けて欲しくはない。けど、お前の妹は誰かに手を差し伸べて欲しいのかも知れないな」
 目を瞠った善行の手から付箋が舞い落ちる。秋野は腰を屈め、足元に落ちた小さな黄色い紙を摘み上げた。善行と目が合って、秋野はその気の抜けた顔に思わず苦笑した。
「俺は溺れてしがみつく人間を沈めて一人で生き残るタイプだってあれが言ってたが、その通りだ。俺に彼女は助けられん」
「……お前」
「俺には無理だ。俺の腕は、自分の分とあれの分、二本しかない」
 口元を歪め、秋野は拾い上げた付箋をテーブルの上にそっと置いた。