仕入屋錠前屋55.5 加速する熱情

 お前、俺を何だと思ってんだ。さすがに自分で引っこ抜きゃしねえよ。
 ちゃんと抜糸に行けよ。そう言った秋野に、哲は大袈裟に溜息を吐いた。
 チハルの騒動の後、輪島のところで手当てを受けた哲は空腹のせいで不機嫌だった。奢ってやるという秋野に適当に頷き、結局ふらふらと入ったのはそのへんの汚いラーメン屋。二晩殆ど何も食べていない哲は大して美味くもないラーメンと餃子を残さず食べ、今すぐ肺癌になるのではないかというくらい次々と煙草を吸い、眠そうな顔で帰って行った。

 あれから二週間、哲の顔を見るのは久しぶりのような気がする。相変わらずノックの代わりにいいだけドアを蹴飛ばして現れた哲は、用事はないが寄ってみた、と言って、秋野が差し出した缶ビールを勢いよく飲み干し缶を握り潰した。
「潰すなよ」
「何でよ」
「何となく。品がない」
「元々ねえよ、そんなもん」
 向かいに腰を下ろした秋野に吐き捨て、哲は煙草を取り出した。
「ライターどこやったっけな……」
「そこの上着の中に入ってないか? 勝手に出せ」
「これか? 何か重てえぞ、この服」
「ああ、この間のチハルのナイフだろ。持ってきちまったんで返そうと思ってたんだが、あいつも俺の顔見たくないだろうと思ってな。結局、そのままになってる」
 秋野は哲が取って寄越した上着のポケットに手を突っ込んで、ナイフとライターを取り出した。ライターをテーブルに置き、ナイフのブレードロックを外して刃を取り出す。うっすらと付着しているのは哲の血だろう。タイガーストライプと呼ばれる縞模様が浮いた刃先が、蛍光灯を反射して不穏に光る。粘ついた血液を見ていると、後ろめたさに押し戻されていた怒りの残滓が喉奥からせり上がり、舌の上に苦味を残す。
「……まったく」
 思わず口から出た呟きに反応したのか、哲が顔を上げてこちらを見た。煙草を銜え真正面から見つめる顔には、先日の傷の痕がまだ残る。頬の傷は縫わずに済んだが、軽く見えた顎を七針縫った。顎のほうがより動きが多く、そのままでは傷が閉じないらしい。七針というと大怪我に聞こえるが、手足を縫うより一針一針の間隔を詰めて細かく縫うから、その上での七針である。何れにしても、傷はそのうち消えるだろう。中年ならいざ知らず、後半とはいえ二十代の身体だから、回復も早い。
 そうは言っても、少なくとも舐めれば治るという傷ではなく、一歩間違えばそれが手指につけられていたかと思うと今更ながらまたひやりとし、秋野はナイフを持った手を伸ばした。
 刃の平らな面で頬を軽く叩くと哲は僅かに眉を寄せ、煙を吐き出した。
「幾ら俺が大事にしたってな、持ち主に自覚がなけりゃ、そのうち傷むぞ」
 薄っすらと血糊がついた刃を哲の削げた頬に当てたまま口に出す。哲の低い体温は、ステンレス鋼にどれくらいの速さで浸透するのか、そんなことを考えた。
「かもな」
「かもな、じゃないだろ」
 面白くもなさそうな顔をして、哲は僅かに身体を引いた。頬から離れたナイフを横目で見下ろし、哲の視線が血の痕と秋野の間をゆっくりと行き交った。
「お前の血だ」
 なんと言うこともなくそう言った秋野の目を見つめたまま、煙草を灰皿で押し潰し、哲は秋野の手ごとナイフを掴んで引き寄せた。
 哲の舌が、刃を辿る。
 哲が己の手に刃先を向けていたその時、秋野の耳奥に響いた急激に血が下がる音。今甦ったその音は、もしかしたら血が逆流する音かも知れないと、頭の隅でぼんやり思った。
 テーブルの上に転がる潰れたアルミ缶の銀色が、捻り潰された刃物のように視界に刺さった。
 哲の舌はエッジには触れず、ブレードをべろりと舐める。こびりついた血液は、多少のことでは取れないのだろう。そもそも、何のために哲がこうしているのか分からない。
 緩慢な動きは静止画を見るようで、現実感が薄かった。哲の手に覆われたまま手首を捻り、エッジの部分に軽く力を入れた。哲の舌の皮一枚が裂けて血が滲む。哲の顔に一瞬浮かんだ酷く凶暴な衝動に、腹の底が鉛を呑んだように重くなった。
「舌を切り取られたいのか、馬鹿」
 呟く秋野の顔を見ながら、哲は舌全体でキックからエッジをなぞった。唾液と血が混じり合い、刃を汚す。細い糸が刃先と舌を繋いで伸び、唐突に切れた。
「お前が持ってる刃物を手に突きつけるほど馬鹿じゃねえよ」
 口の端を歪めて笑った哲の眼前。
 秋野はナイフをテーブルに置いた哲の右手の真横に思い切り振り下ろした。

 微動だにしない哲の右手は、力が抜けた自然な形でそこにある。
 哲の手から五センチ。テーブルの天板に突き立ったナイフはまるでオブジェのようで、どこか笑いを誘う。
「おっかねえな」
「挑発するからだ。調子に乗るな」
 秋野は哲の顎を掴み、無理矢理口を開かせた。低く呻いて手を振り払おうとする哲を払い除け、口腔に指を突っ込んだ。歯列をこじ開け、傷ついた舌を検分する。舌の真ん中についた傷から放射状に血が滲み、まるで花のようだった。
 親指の先で血を伸ばす。口蓋から前歯の裏まで指で辿ると、哲が嫌そうに眉を寄せ、秋野の指に歯を立てた。
 真っ赤な花のように広がる血に、加速するのは熱情か、それとも単なる劣情か。
 熱情という名の赤い花、大輪のあの薔薇の美しさが、秋野には分からない。女が好きそうな艶やかさと華やかさに感じる毒を、舌の上で今感じる。
 親指を根元まで突っ込んで、手の甲まで押し込むように。哲の唇の端から飲み込みきれない唾液が伝った。
 興奮した犬のように唸る哲の歯の間で手が濡れていく。ぎりぎりと噛み締められる痛みを感じながら、秋野は哲の髪を手荒く掴んで引き寄せ、耳の中に舌を押し込んだ。
「食い千切ってみせろよ。躾の悪さも行くとこまで行けば立派なもんだ。なあ、錠前屋」
 手を引き抜き、そのまま返した手の甲で哲の頬を張る。
 くっきりとついた歯型には、哲のものではない赤い血が滲んでいた。