仕入屋錠前屋72 エデンの架け橋 8

「そんで、無事帰ったのか、弟は」
 月曜の夜、勤務を終えて店の裏口から出たら、秋野が当然のような顔で道の向こう側に立っていた。別に嫌ではないが、嬉しくも何ともない。そういう思いが顔に出たらしく、秋野は唇の端を曲げて笑いながら頷いた。
「ああ、午前中に追い返した」
 秋野は珍しく硬いスーツ姿だった。いつもはラフなセットの髪もタイトにまとめて、シックなネクタイを締めている。会社員には見えないが、海外の実業家とか何とか言われれば、誤魔化されてしまいそうな気はする。
「その格好で、なわけねえよな?」
「違うよ。これは仕事用だ」
「だろうな。それで見送りに行ったらなんつーか、悪目立ちするだろうな、大和が」
「どうして?」
 秋野が首を僅かに傾げ、瞬きした。哲の苦手な肉食獣めいた仕草だ。相変わらず面の皮一枚の下に潜む獰猛さを感じさせるが、万人がそれを察知するとは限らない。
「なんつーか、怪しげな秘書かなんかに見送られる金持ちか政治家かなんかの御曹司的な」
「全然意味が分からん」
 言いながら声を上げて笑い、秋野は哲に近寄ってきた。裏口に設置されている灯りが秋野の頬骨のあたりに当たる。削げた頬に浮かぶ笑みは普段と何も変わらなかった。
「飯でも行かないか。迷惑かけたから奢るぞ」
「昨日の飯代も払ってねえけど」
「あれは大和のついでだから話が違うだろ」
「いいけど、小洒落たとこは面倒くせえから行かねえ」
 鼻を鳴らす哲の頰を秋野の指が撫でる。乱暴に叩き落としたら秋野はまた笑った。
「この間見つけた店があるからそこに行こう。お前が好きそうなところだ」
 返事を待たずに踵を返し、秋野はゆっくりと歩き出した。

 連れて行かれた店は裏通りの古いビルとビルの狭い隙間に建っていた。舞台の大道具みたいなちゃちな造りの、両脇のビルより更に古臭い建物だ。両隣が建ったときにはすでにそこにあったのかと思ったが、間口の狭さからして、後で押し込んだようにも思える。どっちでもいいが、確かに店内から明かりが漏れてはいるものの、未だに営業しているのが不思議なくらい古ぼけていた。
「営業してんのか? 九十歳くらいのじいさんがやってそうな感じだけど、火の元平気かよ」
 思わず疑問を口にした哲に、秋野は肩越しに振り返って小さく笑った。
「建物はかなりやばそうだけど、やってるのはそんな年寄りじゃないから大丈夫だろ」
「ああ、そう……」
「変なところ心配するよな、お前は」
「うるせえな」
 背後から膝裏を蹴っ飛ばそうと足を出したが躱されて思わず唸る。秋野は後ろを見ずに低く笑って、建付けの悪そうな引き戸を思い切り引き開けた。
「いらっしゃいませ──ああ、お客さん、何て格好で!」
 奥から飛んできた声は若くはない男のものだった。続いて中に入ると店内が見える。奥行きはあるが、間口が狭い見た目のまま、幅はない。カウンターの中から身を乗り出しているのは五十代半ば過ぎから六十代前半くらいのガタイのいい男だった。
「何かまずかったですか?」
 不思議そうな秋野の声にぶんぶんと首を振り、男は太くて凛々しい眉を八の字にした。
「まずかねえけどさあ……こんな汚いとこにあんた、そんないい格好してきちゃ駄目だよ、汚れるよ、臭いもつくし」
「クリーニングに出せばいいだけだから、大丈夫ですよ。適当に座っていいですか」
「ああ、そりゃもう……好きなとこ座って」
 店は見た目があれなわりに案外と混んでいて、半分近くの席が埋まっていた。客層は色々だったが、秋野みたいな奴はさすがにいない。颯爽とした秋野と店に普通に馴染む哲と、おかしな取り合わせだと思っているのだろう、いくつもの視線が無遠慮に追いかけてきた。
「……お前と来たい店じゃねえな」
「何でだ」
「すげえ見られてる」
「服のせいだろ? 別にいつもこんな格好なわけじゃないし」
「服のせいかよ?」
「お前ねえ。俺をどういう育ちだと思ってるんだ? お前がいいとこのお坊ちゃんに思えるような生育環境だぞ。ここよりよほど場末の店にだって馴染めるよ」
 言われてみれば確かにそうだが、少なくとも今は悪目立ちの見本のようだった。
「まあ、いいけどよ」
「生二つ。あと、適当にお勧め見繕って出してもらえますか」
 秋野は、勝手に注文して注文を取りに来たおばちゃんを追い払った。
「食いたいものがあったら好きにオーダーしろ」
「注文する前に言え、そういうことは」
 文句は言ってみたが、正直言って腹が膨れれば何でもいい。秋野はいつもどおり、お前も料理人の端くれなのにな、と呆れたように言ってちょっと笑った。
「そういや、弟に貰ったか、あれ」
「あれ? ああ、Tシャツか? 貰った」
「そりゃよかった。一所懸命選んでたぞ、健気にも」
「──嬉しくないってことはないけどな」
 秋野は煙草を銜えて火を点け、眉を顰めて吸い付けた。老若男女誰でも、この瞬間はなぜか厳しい顔になる。そして哲は毎度秋野のこの顔に目を奪われる。
 普段は下から見上げる秋野を、眺め下ろすような角度から見ることはそれほど多くない。怒りを堪えているようにも、苦しそうにも見えるその顔がなぜか好きなのだ。ぶん殴りたいと思うと同時に舐めちまいたいな、とも思うが言わない。哲に関してはただでさえ鬱陶しいくらい自惚れている男だ。何もわざわざつけ上がらせてやることはない。
 今回も黙って煙草を銜えた哲は、秋野が卓の上を滑らせて寄越したライターを擦って火を点けた。服に合わせたのか、いつもは百円ライターなのに、今日は高級そうなのを使っている。
「色々聞きてえっつってたけど、結局バラしたのか、兄弟だって」
 ライターを戻して訊ねる。
「ああ、まあ……流れで」
 秋野が何か言おうとしたところで店のおばちゃんがビールと突き出しの小鉢を盆に載せて登場した。
「はい、生二つね! 料理は適当に出すけど、お連れ様は好き嫌いない?」
「何でも食いますよ、俺もこいつも」
 秋野はおばちゃん向けの人懐こい笑顔を浮かべ──まったく、ろくでもないにも程がある──渡された小鉢を卓に置いた。おばちゃんがせかせかと厨房に戻っていくのを目で追いながら、秋野はゆるゆると煙を吐いた。
「訊かれてもしらばっくれるつもりでいたんだけどな、まあ……どうせバレてるならムキになって否定しても無駄だろうから」
 溜息を吐き、長い指の先をジョッキの表面に滑らせる。
「それより、お前に迷惑かけたらしいな」
「迷惑?」
「買い物の方じゃないぞ、言っておくが」
 正に買い物のことかと思った哲は眉を寄せた。
「別に。キャッチのことならお前、あれは迷惑っつーよりぬか喜びっつーか。あんなに追いすがってくるからどんだけやる気かと思ったら、一発ボディに食らわせただけでぶっ倒れやがって、腹が立つったらねえ」
「お前の怒るポイントは相変わらず間違ってるな」
「うるせえよ。あ、そういや、迷惑どころか弟に叱られたわ」
 片眉を上げる秋野の目の前で右手をひらひらさせ、哲は続けた。
「鍵の仕事できなくなったらどうすんですかっつって、こう、マジな顔してな。人を殴るなんて、って言うからよ、それはよくないって指摘されると思ったらお前、右手が傷つくかもしんねえってよ」
「……」
「姿形とか性格は似てねえけど、そういうとこそっくりだ、お前ら」
「全然喜べないな」
 秋野が真顔で言うから、哲は思わず笑った。
「そりゃあ、んなとこ似ても別に嬉しかねえだろうけど」
「そういうことじゃなく」
「ああ?」
「──いや、いい。気にしないでくれ」
 秋野は銜え煙草でネクタイを緩めて引き抜き、ワイシャツのボタンをひとつ外した。高価そうなネクタイを無造作にジャケットのポケットに突っ込んで、片手で髪を掻き回す。
 そこに現れたのは、いつも通りの、胡散臭いがさっきまでより数段男前な秋野だった。髪は適当に崩したからか、無造作というよりは乱れていて、寝起きの頭のように見えた。束になって目の上に落ちかかる前髪を透かして、秋野の、照明のせいで黄色く見える薄茶の瞳が哲を見た。
 寝乱れたようだと思ったからか、不意に二日前のことが蘇って腹の底がざわつき、哲はぶるりと身震いして舌打ちした。秋野は何か訊ねるような表情を見せたが、この男にしては珍しく気が付かなかったと見え、哲から手元の煙草に目を移して灰を払った。
 おばちゃんが何やらいい匂いのする炒め物と数本の串を盛った皿を持って登場したので話が途切れる。煙草を一旦灰皿に置いた哲が串にかぶりつきながら「で?」と言うと、秋野は短くなった煙草を銜えて首を傾げた。
「うん?」
「誤魔化すんじゃねえ。で、何だって」
「何が?」
「しらばっくれてねえでさっさと言っちまえ。そういうことじゃなく、何だ」
 周囲の会話や食器が触れ合う音、厨房からの音が一瞬遠ざかり、ついこの間もこんなことがあったなとふと思い出した。尾山の家の換気扇の下だ。音に包まれているせいか音が消え、まるでガラス越しに別の世界を見ているような感じがした。
 あの時は尾山と自分だけが取り残されたような気になった。今は尾山ではなく秋野がいて、どうせ二人きりで取り残されるなら、尾山でなくてこいつがいいと尾山には失礼なことを考えた。何せ、秋野以外の相手ではストレス発散、つまり、主に殴る蹴るが満足にできない。それから、まったくもって不本意だが──そんなことを考えたら、またぞろ身体の奥がざわりと波立った──暴力以外のあれやこれやも。
「だから……」
 低い呟きが、音の隙間を縫うように哲の耳朶を打った。咀嚼した肉を飲み下し、吸いかけの煙草を取り上げ銜える。
「俺に似てると思ってほしくない。そんなところ」
「いや、でも、別にそこが似てるって自覚したとしてもよ、弟が当たり前の高校生じゃねえってことにはならねえ──」
「そうじゃないよ、馬鹿だね。大和がどう思うかってことじゃない」
 秋野は喉の奥で笑い、煙草を灰皿に放り、指を伸ばした。ついさっきジョッキの水滴を撫でた長い指が、テーブルをゆっくりと叩く。滅多に見せることのないどこか落ち着きを欠いた仕草に、哲は煙草を銜えたままの唇の隙間からゆっくりと煙を吐いた。
「お前に、あいつが俺に似てるって思ってほしくない。しかも、そんな部分……言ってる意味、分かるか?」
 自分自身に向けたものなのか。どこか嘲笑めいた色を含んだ笑みを見せ、秋野はそれ以上何も言おうとしなかった。
 元々食事しながら会話が弾む仲ではないから、ぽつぽつとどうでもいいことを話しながら飲み、合間に食って、そうしながら哲は何とはなしに、昨日話した大河の言葉を思い出した。
 ここからどこかへの架け橋。
 別にそんな言葉を真に受けてもいないし、はっきり言ってどうでもいい。思い出したのは、哲自身がどうこうということではなくて、多分大和がなりたいのはそれなのだろうと思ったからだ。秋野の今の境遇から、幸せな当たり前の世界への──秋野からしてみれば、作り話の楽園にも等しい世界への、橋渡し。
 だが、今はどんなに作り物めいて感じても、もしもそこが秋野の行くべきところなら、どんな紆余曲折があったとしても、多分いつかは辿りつくだろう。
 その時、秋野はきっと、立ち止まる。そうなったらさっさと行けと尻を蹴り飛ばしてやるのは多分自分の役割だ。そうして一人この場所に残されただ突っ立って、ガタガタに崩れる自分に呆れる羽目になったとしても仕方ない。誰かが行くべきところに行くというのなら、他人にはどうにもできないことだ。
「どうした?」
 秋野の声で我に返った。長くなった灰が崩れかけている。秋野が灰皿を差し出しながら、哲の顔を覗き込んだ。
 行かないでくれなんて、死んでも言わない。もしそんな日が来ても、絶対に。
「……哲?」
 低く、微かに語尾が掠れて消えるその呼び方に、今度こそどうしようもなくなった。こいつの喉元に食らいつきたい。もっと言えば、滅茶苦茶に噛み千切られたい。そして余さず食われてしまいたい。今、すぐに。
 秋野の目をじっと見返す。秋野は僅かに目を眇め、そして片笑みを浮かべて「出るか」と言った。
 この先どうなるかなんて分からない。少なくとも自分の行く先に楽園がないことだけは、間違いないと思うけれど。
「哲」
 店を出て数歩、左腕を掴まれ後ろに引っ張られた。秋野の息が耳に触れる。
「──どこに行きたい?」
 身を捩り、肘鉄を食らわせつつ腕から逃れ、秋野に正面から向かい合う。
「一番近えとこ」
 一歩近づき、細められた色の薄い瞳を覗き込んだ。
「鍵がかかって──」
 お前がいれば、どこでもいい。