仕入屋錠前屋72 エデンの架け橋 7

 大和にとって秋野は、顔見知りに限りなく近い親戚だ。
 年に数回しか会わないし、会ったところで長時間一緒にいられることはほとんどない。せいぜい数時間、それも二人きりで会うわけではなく大抵両親や祖母が一緒だ。だから、誰かから親しいのかと訊ねられたら、そうでもないと答えるしかないのが実際のところだった。いくら大和が秋野を慕っていようと、それは大和の側のことでしかない。
 母が「ガイジン」だというのは小さい頃から知っていたし、お約束のからかいも勿論あったけれど、たまたまだったのか、それとも他に要因があったのか、子供だった大和にはよくわからないがからかいはからかいの域を出ず、深刻なものには発展しなかった。
 母が「ガイジン」なのは知っているから母方の親戚がいないのは当然と受け止めていたし、父は兄弟が多くて親戚は覚えきれないくらいたくさんいたから寂しいと思ったこともない。だから、初めて「従兄弟」である秋野と引き合わされたときは、戸惑いはしたが、ああ、お母さんの親戚も日本にいたんだな、と思っただけだった。
 秋野は母のマリアと目元がそっくりで目の色も同じだったが、それは母の弟の子供であれば当然のことだと思っていた。大和自身の目の色は父親譲りだが、そんなのは別にどちらでもいい。
 いつ頃だっただろう、この年上の従兄弟が従兄弟なんかではないと気づいたのは。
 母が大和の前で飲み込んだ言葉や、父との会話の端々。気を付けて耳をそばだててみれば、腑に落ちることは幾つもあった。
 従兄弟ではなく、父親の違う、年の離れた兄。詳しい事情は知らないけれど、多分母は彼を手放していた。それが手続きを踏んで養子に出したとかそういうことではないのは、母に対して冷たくはないが完全に他人行儀な秋野の態度を見れば、なんとなく想像はついた。
 道々そんなことを考えていたら、いつの間にか秋野の住んでいるマンションの前にたどり着いていた。高層マンションというわけではないが、少なくとも二桁の階数はあるだろう。オートロックではあるが、新築という感じではない。
 秋野が鍵を開けてドアを開ける。続いて玄関に入って三和土で靴を脱ぎ、揃えるふりをして——実際に揃えていたのだけれど——何故か涙が出そうになった目を閉じ堪えた。
 立ち上がって部屋を眺める。なんとなく想像していたとおり、綺麗に片付いた部屋だった。お洒落な格好をしていても部屋は汚いという人はいくらでもいるだろうが、秋野はそういう感じではない。
 雑誌に出てきそうな隙のないインテリアではない。大和が見る限り、程々にお洒落で、程々に生活感があって居心地がよさそうだった。
「こっちに布団敷いたんでいいな?」
 リビングの隣には寝室と思しき部屋があったが、秋野はもうひとつの部屋に大和を促した。いかにも使わないから物置代わりになっています、という感じの部屋だ。シーズンオフの衣類でも入ってるのだろう、衣装ケースや段ボールがいくつか積んである他は何もない。
「うん、大丈夫」
 荷物を、畳んで置いてあった客用布団の脇に置く。秋野はリビングに取って返し、何か飲むか、と言って冷蔵庫を開けた。連れて行ってもらったイタリアンで十分食べたが、手持ち無沙汰になりそうな気がして頷く。今まで秋野といて気づまりだったことはないけれど、今日は聞きたいことは全部聞こうと決めていたから気まずくなるかもしれなかった。
 ソファに腰かけ、渡された緑茶のペットボトルを受け取った。
「ありがとう」
「で、どんな迷惑をかけた?」
 突然訊ねられ、ペットボトルに口をつけていた大和は危うく緑茶を吹き出しかけた。
「!」
「慌てるな。哲に迷惑かけたからって怒ったりしないから」
 笑われて頬が熱くなる。友達相手なら慌ててなんかいないとムキになったかもしれないが、色んな意味で格が違う秋野相手に虚勢を張ったって仕方ない。大和は口元を拭い、ソファに座りなおして口を開いた。
「うーんと、迷惑かけたっていうか……俺が悪いわけじゃないと思うんだけど……」
 ファッションビルで土産を買ったところから順を追って話していく。大和にしてみれば居酒屋へのしつこい誘いをできるだけ丁重に断っただけだ。一所懸命説明しているうちに秋野は呆れた顔になったが、どうやらそれは大和に対する表情ではなかったらしい。
「まったく、どうしてそういうのを引き寄せるんだか、あれは。でもまあ、大したことがなくてよかったな」
「……うん、そうだね」
 物を指すような「あれ」という言葉を人に対して使うのは秋野らしくないような気がしたが、敢えて黙っておく。仲が悪いようには見えなかったし、祖母のところにも二人で来ていた。でも、友達、とは紹介されていない。二人がどの程度親しいのかは大和には分からない。
「その前は? 金庫開けるところも見せてもらったんだろう」
「あっ、そう! そうなんだよ、すっげえの! なんかちょこちょこっといじったらすぐバーンて開いてさあ!」
 知らない店で、初対面の人間が同席していたから、食事の間は無意識のうちに大人っぽく振舞おうとしていたかもしれない。だが、今は秋野しかいなかった。素直に驚きを口にしたら秋野が苦笑する。
「ちょこちょこっとな」
「だって、なんか何もしてないみたいな感じなのに、鍵なんかかかってなかったみたいに開けちゃうんだからすごいよ!」
「そうか」
「手に職ってやつだよね?」
「ああ、そうだな」
「——ねえ、秋野。大学ってさ、行く必要あるのかな」
「……必要はないかもしれないが、行けるなら行くに越したことはないだろう。進学して当然みたいな世の中だし、その四年間すら惜しいくらいやりたいことがあるとか言うなら話は別だが」
 秋野は表情を変えなかった。どんな言葉が出てくるか知っていたように泰然として、穏やかな顔で大和を見た。見慣れた色の瞳は、それでもやはり母のものとは違っている。
「でもさ、経済学とか、別に興味あるわけじゃないんだ」
「歴史でも外国語でも文学でも、文系だけに限定したって色々あっただろう」
「それはそうなんだけど——佐崎さんだって秋野だって行ってないよね? 大学」
「比較対象にならんだろ」
 何の感情も籠らない声でさりげなく言われたが、住んでいる世界が違うとはっきり言われた気がした。
 秋野がどんな生活をしているかは、訊ねても誰も教えてくれないから知らなかった。身なりにも立ち居振る舞いにもみすぼらしさはない。だから、生活に困窮していないのは高校生の大和でも分かるけれど、知りたいのはそういうことではない。訊きたいことはすべて訊こうと決めてきたのに、やっぱり気が引けて大和は違うことを口走った。
「だってさ……手に職をつけるってことなら専門学校だっていいし、就職したっていいわけだし」
「同級生はどうなんだ」
 大和はぐっと詰まったが、渋々答えた。
「ほとんど大学進学」
 別に自慢ではないが、大和が通う高校は地元ではそれなりにレベルの高い進学校だ。家庭の事情や、それこそ本人の強い意志がなければ大学進学が当たり前の環境である。
「それは分かってる! 分かってるけど、でも、佐崎さんみたいに色々できることがあれば就職にも役立つし、理系とか教職志望ならともかく、文系で四年も勉強したってそれが何になるのか分からないし、俺絶対進学したいわけじゃない、だから」
「大和」
「だって俺は何にも知らないで一人だけ幸せだった!」
 勢いで口にして、大和ははっと顔を上げて秋野を見た。
「俺が不幸だって言いたいのか?」
 低い声で返された。
 秋野は微かに首を傾げ、しかし怒った様子もなく、どちらかというと悲しそうな顔をしていた。そんなつもりじゃない。秋野が不幸だなんて言うつもりじゃない。どうしていいか分からなくて、大和は滲んで来た涙をぐいと拭った、鼻の奥がつんとする。
「違う……!」
「お前が存在することで俺が不幸になったことはないし、これからなることもない」
「でも——」
 言い返しかけて今頃気づく。大和は秋野を見上げていた。秋野はさっきから立ったままだったのだ。まるでこの会話にもこの部屋にも——大和にも馴染まないというように。
 背筋が伸びたいつもの姿でそこに立つ彼は、母と同じ色の、でもまるで違う何かが底に沈んだような目で大和の中を真っ直ぐ覗き込むように見つめていた。
「お前が何か、例えば進学を諦めたからって、俺が幸せになることもない。どっちかっていうと後ろめたくなるだろうな。俺のせいだって」
「でもきっと、秋野が幸せになれば母さんとだって!」
「……今更取り返せないものはたくさんある」
 秋野はゆっくり大和の前に来て、センターテーブルを足で押しやるとその上に腰を下ろした。大和の向かいに座る秋野の顔は大和より低いところにある。秋野の顔を見下ろしたのは初めてだった。
「お前がいくら俺のために頑張ってくれてもな、大和。俺とマリアは気持ちが通じた親子にはなれないよ。だけど別に彼女を憎んだりしてないから心配しなくていい」
 ぼろぼろと涙が零れた。
 悲しいのか、悔しいのか、それとももっと違うものなのか分からない。それでも涙は次から次へと湧いて出てきた。
 兄弟なのか、と訊ねることはもうしなかった。分かってしまったけれど。ようやく理解したのだ、どっちだって同じことだと。秋野は母も、大和も大事に思ってくれている。兄弟だと——家族だと思ってくれなくたって構わない。続柄なんて何だっていい。
「俺がなんかしたからってどうにかなるなんて……でも、俺は架け橋みたいなものになりたいだけだよ——母さんと秋野の」
「要らないよ」
 秋野はひどく優しい声で言って、大和の両手をそっと握った。指の長い大きな手。長い指の先の爪のかたちに気が付く。自分たちは色々な意味で似ていない兄弟なのだろう。だが、どうしてだか爪の形だけはそっくりだった。
「俺は昔も今も不幸じゃない。幸せじゃないこともあったが、人生なんてそんなもんだし、万人が常に幸せな世界なんてない」
「秋野——」
 楽園なんてないのだ。秋野の言うとおり。百パーセント誰もが満足する世界なんてあるはずがないのは、高校生の大和だって知っていた。それでも訊ねずにはいられなくて、大和は拳を握り締めた。
「秋野は今、幸せなの?」
 金色にも黄色にも鳶色にも見える秋野の瞳が長い睫毛に隠れる。ゆっくりと瞬きした秋野は大和を突き抜けてどこか遠くを見ているようだった。そうでなければ何かを聴いているようだった。まるで、金庫に手を触れながら何かに耳を澄ませていたあの人のように。
「——幸せかどうかは分からない。でも、それはお前ともマリアとも関係ない」
 秋野の声は低く穏やかで、どうしようもなく優しかった。まるで、秋野には与えられることのなかった父親が語るように。
「お前はちゃんと幸せになりなさい。誰に後ろめたく思う必要もないんだから」
 ほんの数秒力を込めて離れようとした秋野の指を握り返し、大和は泣きながら何度も頷いた。