仕入屋錠前屋72 エデンの架け橋 6

 秋野に連絡すると、部屋の準備はできたらしいが、先に飯を食うという。大和の普段の生活は知らないが、卒業間近とは言え高校生だし、哲や秋野と違って深夜に飲んで何も食わずにおしまいということはないだろうから、妥当な判断と言えた。
 秋野から指定された店は今まで行ったことがないところだった。
 店に向かう途中、今度は知り合いの居酒屋キャッチに声をかけられてちょっと世間話をし——大和は警戒した野良猫状態だったが——何事もなく別れて店に向かった。
 小さなビストロはチェーン店ではないだろう。大通りには面していないがそこそこ人通りがある場所で、哲と大和が入口にたどり着く直前にもカップルが一組入って行った。
 大体においてイタリアンとか洋食とかが苦手な哲は店のドアを潜りつつ眉を寄せた。食い物としては普通に美味いと思うが、店の雰囲気が嫌なのだ。もっとも、今時の若者であるところの大和は哲が不得手なこじゃれた雰囲気が嬉しいようで、足取りは軽かったが。
「いらっしゃいませ」
 木製のドアを押し開けたらカウンターの向こうに立つ男がこちらを向く。男は背が高く、針金のように痩せているという表現がぴったりくる痩身で、髪は半白だった。とはいえ量はしっかりあって、見たところ三十代の後半か、四十代の前半。要は若白髪なのだろう。メタルフレームの眼鏡のレンズは素通しに見える。度が弱いのか伊達なのか、どちらにしても、レンズの向こうの一重の目は、何となく鋭すぎるように見えた。
「お二人様ですか?」
 店内には他に女性店員が一人いたが、先に入ったカップルのテーブルについていたので、男がカウンターを回ってこちらに出てきた。席は半分くらい埋まっていて、料理のいい匂いがする。
「いえ、待ち合わせです」
 そういやあいつは何て名前を告げてあるんだと一瞬躊躇したが、男はああ、と声を上げた。
「秋野のお連れ様かな」
「ああ、はい」
 頷くとぱっと笑顔になる。そうやって笑うと目尻にくしゃっと笑い皺が寄り、どこか近寄りがたい雰囲気が払拭された。
「こちらです。どうぞ」
 店は広くないが、家具や衝立の配置でうまくスペースを使っているようだ。奥のほうまで席があり、入り口からは見えにくい壁際の席に秋野が座っていた。先に行かせた大和の顔を見て、煙草を灰皿に押し付けて消した秋野は、目元を和らげた。
「迷惑かけなかったか」
「ええと」
「お前のが普段からよっぽど迷惑だっつーの」
 低い声で、しかし遠慮なく言った哲に驚いたように店の男が振り返る。秋野は哲の文句は聞き流し、男はオーナーシェフの成田だと紹介した。成田にも二人の名前を告げる。しかし、大和は「親戚の」が冠されたからいいが、哲に関しては名前だけだ。成田もなんとなくどう挨拶していいか戸惑ったふうだったが、秋野はそのまま続けた。
「この間話した知り合いだ。過剰にやり返すのが心配だっていう」
「ああ!」
 何だその説明はと思ったが、口を出したら藪蛇になりそうなので、椅子に腰を下ろしながら秋野を睨みつけるに止めた。
 成田は笑い上戸なのか、引き笑いしながら哲の背中をばしばし叩き、睨まれるとまた笑って、呆気に取られる大和の頭をくしゃくしゃにして戻って行った。
 適当に出してくれと言ってあるらしく、メニューは見なかったが、食い物は色々と運ばれてきた。大和がいるせいか、それとも哲がいるせいかはわからないが、食材にも味付けにも妙な捻りはないスタンダードなメニューが多かった。そうは言っても手は込んでいたし味は上等で、成田という男の腕がいいのは知れた。
 食事は恙なく進んだ。最初に迷惑をかけなかったかと訊ねられて大和が躊躇ったことを見逃す仕入屋ではなかったが、ここで問い詰めるのもなんだと思ったのだろう。同じように大和も、この場で話すことではないと思ったらしい。顔は似ていないが、そつないところはよく似ている。
 デザートは希望を訊かれ、大和だけがオーダーした。哲もそうだが、秋野もほとんど甘いものを口にしない。そこらへんの好き嫌いは兄弟でも似なかったらしい。
 大和のデザートがきたところで哲の電話に着信があった。店からだったので断って席を外して応答したら店主のおやじだった。
「悪い、店から電話入った」
 席に戻って言うと、秋野が僅かに眉を寄せる。
「何かあったのか?」
「いや、ただなんか一人急に具合悪くして帰ったみてえ。俺これからシフト入るから。悪ぃな、途中で」
 大和に声をかけると、何故か心細そうな顔をされた。別に嬉しくもないのだが、どうも男子高校生には懐かれやすい。
「いえ! 今日はありがとうございました」
「明日は気をつけて帰れよ」
「あの——仕事ってまた鍵のですか」
「いや、別のやつ。飯代は後で」
 後半は秋野に言って席を立ち、鍋の中を覗き込んでいた成田に会釈して店を出た。

「あーっ、哲さん、哲さん!」
 テーブル席の刺盛りを運び、空いたジョッキを盆に載せて厨房に戻るところで声をかけられた。振り返ったら隅の席でやたら大きい身振りで手を振っている奴がいる。誰だっけと思いながら寄っていくと、顔見知りの居酒屋キャッチだった。今日三度目の居酒屋キャッチ、今日は随分こいつらに縁がある日だ。連れは派手な若い女で、こちらは初めて見る顔だった。
「よう。毎度どうも」
 最初はごく当たり前にキャッチとして声をかけてきたこの若い男は、哲が居酒屋勤務だと知るとセールストークをあっさり引っ込めた。店の名前を訊かれたから教えたら、それ以来たまにやってきては飲み食いしていく。キャッチとして契約している居酒屋があるんじゃないかと訊ねたら、高くてまずいから自分では行かない、と言う。正直なのはいいが、それはどうなんだと呆れたら、じゃあ契約する店を変える、とか言っていた。実際にそうしたかどうかは知らないし、どうでもいいのだが。
「哲さんさあ、今日、ミチオ殴った?」
「はあ?」
「やだうそマジでぇー! やばーい」
 そう言って笑ったのは連れの女だ。ついでなので、二人の間にある空いた皿も盆に載せた。女がカルピスサワーヒトツ、と何故か棒読みで言う。
「そっちは、飲み物追加は? つーかミチオって誰」
「あ、俺緑茶ハイ……え、てか、友達っつーか、いや、知り合い?」
 疑問形か、と思ったがそこは口には出さない。
「カルピスサワーと緑茶ハイひとつずつな。あんたの知り合いは知らねえ」
「えー、俺と哲さんの仲なのに?」
「つーかあんたの名前も知らねえけど俺」
「えっ」
「うっそ、マジうける」
 最後はまた連れの女だ。過去に名乗ったつもりだったのか、ぽかんとした顔をしていた男は、気の抜けた声で「中村大河です」と名乗った。
「あたしは知ってるよ! おっきいかわで大河なんだよねー」
「ああ、そう」
 大河とか大和とか、キャッチに加えて今日はそんな名前の奴らばっかりだとどうでもいいことを考える。げらげら笑っている女に口を尖らせて見せ、大河は哲に目を戻した。
「キャッチっすよ、ミチオ。大体同じとこにいるからちょっと喋ったりするんすよ」
「ああ……」
 今日殴ったキャッチと言ったら奴らしかいない。勿論、どれがミチオだか分からないが。
「いや、確かに——けど何でお前がそれ知ってんだ」
「ミチオに聞いたからっす」
「そうじゃなくて、ミチオに名乗ってねえぞ俺は」
「うん、でも分かったんす」
 哲は伝票を前掛けのポケットに突っ込みながら首を捻った。哲は特別目立つ容姿ではないから、話を聞いただけで人定されるというのもおかしな話だ。三度の飯より喧嘩が好きだ、なんて大河に話した覚えもないし、今日は私服の時点でこの男に会ってはいない。
 眉を寄せる哲の腕に何かが触れた。目を遣ったら、大河の連れの女がきれいにネイルした爪の先で、哲の肘をつついていた。
「あのね、おにいさん」
「ん?」
「大河はねえ、ちょっと変わってんの」
「ふうん? そうなのか」
 目の前に本人がいるのに、女は大きく頷いた。大河もどうでもいいのか聞いていないのか、鶏の唐揚げをもぐもぐやっている。
「なんかちょこっとずつ色々見えんだよ」
「霊感とかいうやつか? 俺死んでねえけど」
「んー、違う違う、そういうのと違うけどぉ。でもなんか、なんだろ、ねえ大河ぁ。何だろうねえ?」
「分かんねえなー」
「まあ何でもいいや。中戻るからな」
 いつまで付き合っていても分かりそうもないのでそう告げると、女はバイバーイと手を振った。大河が唐揚げを頬張ったままこちらも箸を持った右手を振って、口に物を入れたままの不明瞭な発音で「カケハシっすよー」と言った。
「はあ?」
 立ち止まって振り返ったら、大河はいつもの、どこか焦点がずれたような目で哲を見ながら唐揚げを飲み込んだ。
「佐崎さんはカケハシなんすよ」
「かけはし……あれか、架け橋のことか? 何かと何かを繋ぐやつのこと?」
「そうっす」
「何と何の?」
「こことどこかっすねえ」
「……悪ぃな、意味が分かんねえわ」
「いいんっすよー」
 何だかよく分からないが、大河は満足したらしく、スマホを取り出した女と何か話しはじめた。おかしな奴だと思いながら厨房に戻り、カルピスサワーと緑茶ハイをオーダーして下げた皿を流しに突っ込んだ。
「佐崎、ちょっとこっち手伝ってくんねえ? なんかさあ、竜田揚げ六皿一遍に注文入ってんの、全部違う卓から」
「はあ? 一遍に六皿ぁ? 何で?」
「知らねえよ、何だってんだよなあ」
 揚げ物の準備をしながら馬鹿話をして笑っているうちに、大河と大河の口にしたことはすっかり忘れた。哲が次に厨房から出た時は、大河と連れはすでに席にはいなかった。