仕入屋錠前屋72 エデンの架け橋 5

 ファッションビルを出て少し歩いたところで哲の電話が鳴った。表示された名前はバイト先の奴だったので、その辺で待っててくれと大和に伝え、道路に面したビルの入り口脇に避けて応答した。
 用事は飲みの誘いと、次のシフトの相談だった。込み入った話ではなかったが、シフトの話から明日の仕事の話になって、少しばかり長話になった。通話を終えて周りを見たが大和が見えない。小さい子供でもないし、行儀のいい子だから勝手にどこかに行くとも思えない。
 もう一度真面目に周囲を見渡すと、哲から少し離れたビル前のスペースで、大和よりは年嵩の、しかし二十代半ばにはなっていなさそうな男と何か話している。男は笑顔だが対する大和は困った顔をしているので、友達と偶然会ったのではなさそうだ。
 眺めていて気が付いたが、男はこの辺でよく見かける居酒屋キャッチの一人だった。哲もキャッチには顔見知りがいくらかいるが、今大和と話している奴は顔を見たことがあるだけで、口をきいたことはない。
 大和は私服だし、高校三年生と大学生なら見た目にそう大きな差はないだろう。それに、大和がぶら下げている袋は、秋野に渡すつもりで買ったものだ。高校生よりはもっと上の年代がターゲットだから、高校生とは思っていないのかもしれない。
 大和が一所懸命何か言おうとしているが、男はまったく聞いていない。時間が早くて暇なのか、そのうち近くにいた二人が集まってきて、三人が大和を取り囲んだ。別にカツアゲされているわけでなし、大和が居酒屋にのこのこついていくわけもないが、放っておくわけにもいかないから、哲は大和たちに足を向けた。
 昔と違って、悪い奴が分かりやすく悪い時代ではない。見た目はごく普通で、崩れた雰囲気などまったくない人間が豹変したりする。今時の若い奴は危険を察知する感覚が鈍いと思うことがあるが、もしかしたらそうではなくて、そんな世の中だから何が危険なのか分からないのかもしれないな、とふと思った。
 大和が肩越しに振り返り、近づいてくる哲を見つけて慌てた様子になる。何度か頭を下げ、男の話を遮ってこちらに向かって来ようとしたその時、さっきまでにこにこしていた男が突然大和の脛を蹴っ飛ばした。
 見た感じそれほど痛そうでもなかったが、大和はびっくりした顔で固まった。男が腕を掴もうとしてか、手を伸ばす。そこでやっと我に返ったらしい大和は哲に向かって脱兎の如く駆けてきた。
 必死な形相はちょっとおかしかったが、その後に三人ついてきているのはおかしくない。まったくなあ、と思いながら哲は周囲に目を振り向けた。
 哲は走ってきた大和の背中を押して「そっち走れそっち!」と押しやった。
「そっちって……!」
数歩走って、振り返りかけた大和の横に並ぶ。大和も結構速そうだが、哲も足だけは無駄に——と自分では思っている——速い。
「そこの赤い看板とこ左」
 肩越しに背後を見ると、居酒屋キャッチ三人は追ってきていた。そして、なぜか人数が増えて四人になっている。
 陽が落ちて暗くなり始めた所謂薄暮の時間、道行く人の数は一時的に減っていた。完全に暗くなるころにはネオンがこれでもかとあたりを照らし人が溢れるだろうが、今はそうでもない。そんな時間帯だからキャッチも声を掛ける相手がいなくて暇なのかもしれないが、高校生一人を追いかけてどうするつもりなのか分からない。それとも何も考えてはいないのか。
 細い路地を二回曲がったところで、哲は大和を追い越し、雑居ビルの裏口に駆け寄った。小汚い外見から期待したとおり、裏口の鍵は開いていた。
「ここ入ってろ」
 空けたドアの奥は細く薄暗い廊下になっていて人の気配はない。壁際に段ボールや木箱が積み上がっているから、表側は何かの店舗だろう。
「でも」
「うるせえ、でもじゃねえ! ガタガタ言うな!」
 怒鳴りつけたら大和は目を見開いて固まった。
「呼ぶまでこっから出て来んな。出て来やがったら秋野に言って今日中に何が何でも強制送還すっからな」
「あのでも、人が来て出てけって言われたら……」
「そんなもんお前、腹が痛くて一歩も動けねえとか何か適当に言っとけ!」
 まだ何か言いたそうな大和の鼻先で汚いドアをぴしゃりと閉め、ドアから離れた。
 大和にしてみたら危ないやつらかもしれないが、哲にとっては居酒屋キャッチの四人くらいなんでもない。それでも大和を隠したのは、万が一怪我でもさせたら、どんな災禍が我が身に及ぶとも限らないからだ。これに関してはいくら用心してもしすぎることはない。
 哲はビルから離れて道の反対側に渡り、ゆっくりと歩き出した。撒いてしまうこともできそうだったが、その結果大和とはぐれたらそれはそれで面倒くさい。
 どたどたと喧しい足音がして、肩越しに振り返るとちょうど大和のいる雑居ビルを通り越したキャッチたちが、哲を見つけて走ってきた。大和を蹴っ飛ばした奴ともう一人は元気だが、最後の一人はだいぶ息が上がっていて辛そうだ。不摂生のせいか運動不足か、なんだか知らないが期待はできそうにない。
「しかも頭数減ってねえか? つまんねえなあ、おい」
 思わず呟いたのは、途中で増えたはずの人数が元に戻っていたからだった。
「なあ——」
 数分前に大和に見せた愛想笑いはどこへやら、険のある表情と物言いを丸出しに、男は身体ごと振り返った哲の前に立った。
「さっき連れてたヤツどこ?」
「何で」
 何の構えもなく問い返されて面食らったらしい。男は数回瞬きした後、一段と不機嫌そうな顔になって舌打ちした。
「関係ねえだろ。誰だよ、あんた」
「知り合いだけど。あいつ何かした?」
「……俺がせっかく親切でいい店に連れてってやるっつってんのに、話も聞かねえでさぁ——」
 着信があったのか、男はポケットからスマホを取り出した。液晶画面を見ながらどうでもよさそうに続ける。
「話の途中で勝手に抜けるとか、失礼じゃねえ? こっちはわざわざ声かけてやってんだぜ? どうせこれからどっか安い居酒屋とか行くんじゃん。だったらさあ、どうせ行くなら、得なほうがいいに決まってるし」
「高校生だから居酒屋は行かねえだろうな」
「あ、そうなの?」
スマホから目を上げてそう言ったが、男の表情は変わらなかった。
「つーか今時高校生だって普通に居酒屋行くだろ、フツーに。それに結構高いショップの紙袋持ってたし、金持ってんだよな? だから連れてきて」
「……」
「てかあんたも行くだろ? 一緒に」
「行かねえな」
 男はむっとした顔をしてスマホをしまうと、物も言わずに今度は哲の脚を蹴っ飛ばした。男はにやりと口の端を歪めて哲の顔に目を向け、そうしてそのまま固まった。
 にっこり笑ってやっているのに、失礼な反応だ。
「何も言わねえで蹴るなよ」
「え——」
「ああ、まあでも俺も蹴りますよーとは言わねえか。言わねえな。どうでもいいけど、正当防衛成立だよな?」
「……あの」
 戸惑った表情の男に一歩近寄り、哲は両手の指を組んで間接をごきりと鳴らした。
「どこにも行かないで、ここで俺と遊ぼうぜ?」

「佐崎さん!」
 まったく不甲斐ない連中だ、と溜息を吐いたところで背後から声をかけられ、哲は眉間に皺を寄せた。
「こら、出てくんなっつったろうが」
 そうは言ったが、居酒屋キャッチはすでにこの場にはいないからまあいいか、と思い直し、駆けてくる大和の方を向いた。
 前触れなく鳩尾に叩き込んだ一発で最初の男は地面に倒れた。手加減はしたが、腹に力が入っていなかったのか、身体が浮き上がるほどの衝撃になったらしく、地面の上で身悶え起き上がりもしてこなかった。他の二人も大した経験はないようで、結局何発か殴っただけで戦意喪失してしまい、支え合って逃げて行った。
「大丈夫なんですか!?」
 いつから見ていたものか、大和の顔色は青かった。普通に生活していたら、テレビで格闘技でも観戦しない限り殴り合いに出くわすことなどそうないのだろう。酔っ払い同士の小競り合いくらいはあるだろうが、それだって高校生には縁遠い。
「おお、見ての通りな。あいつら手応えがねえったら」
「でもあんなふうに人を殴るなんて」
 まともな高校生なら当たり前の台詞だと思って、ああそうだな人を殴るなんて良くないことだ、と返しかけたら先があった。
「右手怪我したらどうするんですか! 利き手でしょ!?」
 ぽかんと口を開けた哲の顔をどういうふうに取ったのか、大和は益々眦を吊り上げて哲の右手に目をやった。
「若先生から聞いたことあります! 人を殴ったら自分の拳も傷めるって。あんなことして、佐崎さん、鍵の仕事するのに、手が使えなくなったらどうするんですか!」
「……お前ら、間違いなく血縁な……」
「え?」
 言い方は違うが、言ってることは兄貴と同じだ。そう言ってやったら喜びそうだが、結局首を振るに止めた。
「いや、何でもねえ」
「誤魔化さないでくださいね!」
「えー? 聞こえねえな」
「ちょ……」
「さて、そろそろ連絡してみっかなあ、従兄弟様に」
「佐崎さん!」
「いやなんか最近年のせいか耳が遠くて」
「何言ってるんですかもう!」
 まだ何か言っている大和から逃げるように足を速めつつ、哲は小さく溜息を吐いた。