仕入屋錠前屋72 エデンの架け橋 4

 ぼんやりと行き交う客の頭を見ていたら、背後から呼ぶ声がしたので肩越しに振り返った。哲は吹き抜けを囲む手摺から手を離し、大和のほうに足を向けた。

 秋野から連絡が来るまでに行きたいところはないかと訊ねると、少し考えてから、大和はいくつかファッションビルの名前を上げた。今時の高校生はそんなものなのだろう。地元に店舗がないブランドでも、ネット通販で何でも手に入る。そういう意味ではどんな田舎町に住んでいようと関係ない時代だが、実際に店に行き、手に取って選ぶ楽しみはまた別、ということくらいは哲にも分かる。駅に直結のところもあったので、そこでいいかと言うと大和は嬉しそうに頷いた。
「何買うんだ」
「ちょっと服とか見て……あと、彼女にお土産、なんかあるかなって」
「ああ——駅限定のスイーツだけってわけにはいかねえよな?」
 大和はちょっと頬を赤くして、照れたように顔を背けた。そういうところはまだまだ子供っぽくてかわいらしい。
 好きに見てこいと——そういえばつい最近も別の男子高校生に同じことを言ったなと思いながら——大和を送り出し、まずは喫煙ルームを探して館内を彷徨い、同じように避難してきた大勢のお父さんやら彼氏やらと並んでのんびり一服した。便所に寄ってからぶらぶらと元の場所に戻り、どこにいるんだとメッセージを送ってみたら、メンズファッションのフロアにいるというからエスカレーターに乗って上階へ向かう。
 二十代から三十代くらいがターゲットのショップに大和の姿が見えるのを確認して、哲は吹き抜けに足を向けた。フロアの真ん中が吹き抜けの構造になっていて、そこを囲むようにベンチがいくつか設置してあった。
 下から見上げてスカートの中でも見えたらまずいからだろう、曇りガラスを模したパネルと手摺が回してある。手摺に凭れて階下を見下ろすと、大勢の客の頭が見えた。三連休だから人出は普段より多そうだ。
 自分の服を買うときには哲もこういうところに来るけれど、必要以上に長居はしたくないから用を済ませてさっさと帰る。誰かをぼんやり待ったりするのは随分久し振りだった。軽い付き合いの女はそれなりにいたが、所謂デートをするような「彼女」とはここ数年ご無沙汰だった。哲自身が面倒くさがりで積極的に作ろうとしないというのも勿論あるが、主な原因は考えるまでもなくあの男だ。
 考え出したらまたぞろ腹が立つから、秋野のことは頭から追い払う。そうして階下に目を向け暫くした頃に、大和が哲の名前を呼んだ。

「すみません」
 哲が歩み寄ると、大和は棚の上に広げたTシャツを二枚並べて待っていた。
「どうした?」
 同じデザインの無地のTシャツ。色違いで悩んでいるらしい。
「どっちが似合うか?」
「はい、ええとでも俺じゃなくて……」
 なるほど、それでこの店か、と腑に落ちた。大和の年代にしては背伸びしていると思ったが、兄貴のために何か買おうと思ったなら頷ける。
 実際のところ秋野が身につけているものでファッションビルで買うようなものはほとんどない。Tシャツ一枚にしても、目を剥くような値段のものがほとんどだ。だが、そんなことは問題ではないし、それは大和も分かっているのだろう。
「どっちがいいと思いますか?」
 黒と白を並べられたが、まあ正直どっちでも同じだと思う。
「似合うと思うほうでいいんじゃねえの」
「じゃあ黒かなあ……あの、秋野ってこういうとこ一緒に来る彼女とかいます?」
「さあ——知らねえなあ」
 知らないのは嘘ではない。あの男がどこにどれだけ女を隠しているか——隠しているわけではないだろうが——興味もないので訊いたことはない。
「俺もあいつの付き合ってる相手を全部見たわけじゃねえし……何で」
「いえ、なんかこういうの迷惑かなとか」
「従兄弟にもらうのと彼女にもらうのとじゃ全然意味が違うじゃねえか。気にすんな、そんなの」
 大和は安心したように頷き、黒い方を持ってレジに向かった。まだ少年らしくひょろりとした背中を見送りながら、哲は何の脈絡もなく多香子のことを思い出した。多香子もこんなふうに秋野の服を選んだりしたのだろうか。当たり前の恋人らしい穏やかな時間をどれだけ持つことができたのだろうか。
 大和は以前、掠め取る気はなかったと自分を責めるように呟いた。その言葉通り、大和が秋野の持つべき何かを奪ったのかと考えてみれば、多分そんなことはないだろう。
 例えば多香子が秋野と別れたのは、産まれ育ちとは無関係だ。戸籍や教育の有無にしても、大和が産まれる前の話で、彼の出生に至る諸々は何の影響も及ぼさない。
 だがそれでも、兄のために何かしたいと思う大和の気持ちは、そのこととは無関係に存在しているのだろう。
 健気よなあ、と独り呟いて、哲は大和が置いて行った白いTシャツを畳みながら小さく溜息を吐いた。

 高校の同級生だという彼女への土産も買って、哲と大和はビルの中のコーヒーショップに入った。何の迷いもなく小洒落た飲み物をオーダーする大和の後ろ頭を見ていたらやっぱり年寄り臭い気分になったが、まあ実際大和よりは年寄りだ。
 窓際の席に並んで腰掛ける。窓の外は何の変哲もない都会の風景だが、高層ビルと人が多いと大和はそれなりに驚いていた。
「こんなにたくさん人がいるんですね」
「そんな違うか?」
「違いますよ、全然」
「ふうん。でも観光客とか、近くの県から通ってる奴も多いし」
「ああ……そうか、地元の人だけって色分けとかしたら、もしかしたら意外といないのかもしれないんだ」
「自分だって春になったらあの中歩いてんだろ」
「あ、それは、大学受かったらですけど——」
「で?」
 特に何も言わなかったが、紙コップを手の中で弄りながら少し躊躇い、大和は身体を斜めにして哲を見た。
「佐崎さんは、大学は?」
「俺は高卒」
「そうですか」
 大和は手元のカップに目を向けた。長くて濃い、そこだけは兄に似ている睫毛が上下して、下瞼に影が落ちる。
「大学に行って何がしたいとか、あるわけじゃないんです。なんか、みんな行くからってだけで、学部とかだって偏差値で選んでて、就職の希望とか、そんなこと全然決まってなくて」
「それって当たり前じゃねえの? 高校生で将来やりたいことしっかり決めてる奴なんてそうそういねえだろ。大抵は何となく進学するもんじゃねえか」
「……でも、佐崎さんだって、何か理由があって進学しない道を選んだんですよね?」
「あのなあ」
 哲は思わず笑い、大和の顔を見た。深刻そうな表情に笑ってはいけないと思ったら更におかしくて止まらなくなった。
「いや、悪ぃ。馬鹿にしてるわけじゃねえよ」
 やっと笑いが収まったので、コーヒーを啜って息を吐き、哲は大和に目を向けた。
「俺はグレてたんだよ」
「グレ……って」
「煙草吸って授業サボって喧嘩ばっかしててなあ。今もいんのかな、ああいう絵に描いたような不良高校生って?」
 笑っていいものかどうか迷ったのか、大和は何とも言えない顔をした。
「いつ退学になってもおかしくないって感じでよ。でも、折角入ったんだからせめて卒業だけはしてくれって祖父さんが言うもんだから、留年してやっとこさ卒業したってだけ。進学なんて考えたこともなかったな。でも考えなかった理由もねえし、選んでもいねえ。その時の状況に流されて行けるほうに行っただけ」
 周囲にはそんなダメな奴はいないのだろう。大和は何と言っていいか分からないようで、困った顔で哲と紙コップを交互に見た。
「でも——」
「しっかり目的持って進路決めてる奴、周り見てどんだけいるよ? なんとなく、で手に入るのが恵まれてるって感じるなら、そう感じられるってのはいいことだと思う。だけど、だからって後ろめたく感じる必要なんかないと思うし、同じこと言うと思うぜ、あいつも」
「……そう思います?」
「お前が大学行くのやめるっつったら、あいつは自分を責めて俺に八つ当たりするに決まってる。ああやって澄ましたツラしてっけど本気で機嫌損ねたらなかなかすげえもんがあるんだから、止めてくれよな、マジで」
 本気で嫌そうな顔になったと見えて、大和は吹き出し、少し緊張の緩んだ顔でカップに口をつけた。
「後ろめたく思うのはお前の役割じゃねえんだよ」
 じゃあ誰が、とは訊かれなかった。
 顔は似ていないし、性格も多分全然違う。それでも、この聡さはやはり血なのだろうか。だが、だとしたら一体誰の血だ、と思いながら、哲にとっては珍しくもない、コンクリートばかりの風景に目を向けた。
 産まれてくる我が子の顔すら見ないで逃げた男か、自分が生きていくのに精一杯で責任から逃げた女か。その子供らが備える聡明さが彼らから受け継いだ資質だというのなら、なぜ今、苦しんでいるのはそもそもの原因を作った当人たちではないのだろう。
 錠前が語る何かに耳を傾ける哲に、何を聴いているのかと訊ねた少年と、口に出しこそしないが同じことに気付いている半分血の繋がった兄。彼らのために何かできるとか、しようなんて思いもしないが、せめていつか二人それぞれ僅かなりとも報われる日が来るといい、と思うくらいなら哲にもできた。
 ガラス越しに見る光は傾きかけ、僅かにオレンジがかっている。きれいですね、と呟いた大和の大人びた表情が照らされて、長い睫毛の先が金色に透けていた。