仕入屋錠前屋72 エデンの架け橋 3

 哲が勝手に骨董品店に抱いているイメージといえば乱雑、という感じだが、目の前の店内は小ぎれいだった。ガラスのドアには準備中の札がかかっていたが、鍵がかかっていなかったので押し開ける。埃っぽさも黴臭さも感じない。今時の雑貨屋みたいな雰囲気だ。
「こんにちは」
 それほど広くない店内は一目で見渡せるが、人気はない。
「すみません」
 もう一度呼んでみたが応答はない。鍵がかかっていなかったし、留守だとは思えない。誰もいねえなと呟きながら、入り口で待っていた大和を振り返る。そのタイミングで、店の奥のほうからものすごくでかい音がした。
「ダメダメ、駄目だってばっ! 来ないでっ!」
 切羽詰まった悲鳴は多分女の声だ。大和が慌てたように声のほうに向かいかけ、はたと立ち止まって哲を見上げた。
「あのっ……勝手に入っていいと思います?」
「……一応、約束してるしなあ」
 そう言ったら大和は物音のほうに駆けて行った。いくら相手が十代でもまだ身軽さで負ける気はしないが、哲にはそこまでの緊急事態とも思えないからのんびり後を追う。レジカウンターらしきものの裏に洒落た衝立があり、その向こうに目立たないドアがあった。
「大丈夫ですかっ!?」
 呼ばわりながら大和がドアを開ける。途端に何かが飛び出してきて、今度は大和の悲鳴が店の中に響き渡った。

「本当にごめんなさい!」
「ああ、いえ……」
 大和にすごい勢いでウェットティッシュとおしぼりを差し出した女は四十代後半くらいか、この店のオーナーだそうだ。
 昨日仕入れたばかりの品物を片付けているうちに時間を忘れ、夢中になってしまったらしい。ちなみに店は雑居ビルの一階にあり、カウンター裏のドアは倉庫スペースに直結している。
 で、箱のひとつを開けたらツヤツヤして黒くて飛翔する例の奴が飛び出してきて大声を上げたらしかった。そこへ不運にも現れたのが大和で、ドアを開けるなり顔に一撃というか、奴の体当たりを食らったのだ。
 大和の顔を踏み台にして更なる高みを目指した奴はしかし、次に登場した人類に素手で叩き落とされ容赦なく踏みつけられるという憂き目に遭った。
 惨状を目の当たりにした大和の目に浮かんだのは哲への感謝というより慄きだったが、まあ別に好かれようと思っているわけではないのでそこはどうでもいい。
 哲も同じように差し出されたウェットティッシュを使って手を拭く。本当は石鹸で手を洗いたいところだが、取り敢えず仕事を済ませる間の用は足りる。
「じゃあ俺は仕事してくっから」
 哲が言うと、おしぼりで顔を拭いていた大和はぱっと哲の方を向き、見てもいいですか、と声を上げた。
「いいけど……」
 俺が解錠するところを見て楽しいのは多分お前の兄貴くらいだぞと思ったが、そんなことを言ったって——言わないが——仕方ないからオーナーに目をやった。小さくてぽっちゃりした元気なおばさんという感じの依頼主は、注目に気づくと、正にぴょんと飛び上がった。
「あら、あら勿論、いいですよ! どうぞ! どうぞお好きに! 金庫は入ってもらったらすぐ分かりますから!」
 依頼主だというのにすっかり恐縮してまくしたてると、飲み物でも用意しますと言って慌ただしくし始めた。
「あー、その、どうぞお構いなく」
 バタバタしている背中に声をかけたが聞こえていないらしいので、哲は小さく溜息を吐いて倉庫スペースに足を向けた。
 店舗部分よりは乱雑ではあるが、それでもそこは総じて片付いていた。依頼人は几帳面な性格なのだろう、箱には中に入っているもののリスト——写真入り——が貼付されていて、恐らく中身のカテゴリ順にきちんと並べられている。散らかっているのはさっきまで開けて作業をしていたという大きな段ボールの周辺だけで、哲はそこを回り込んで更に奥に足を向け、金庫を発見して思わずその場で立ち止まった。
「わっ」
 すぐ後ろにいた大和が哲の背中にぶつかりかけてたたらを踏んだようだがどうでもいい。
「佐崎さん……?」
「山田金庫じゃねえか」
 うっとりした声が出た。この場に秋野がいたら笑われただろうが、いないのだから関係ない。
「やまだきんこ? メーカー名ですか?」
「ああ、そう。明治とかの」
「めいじ……あ、それって元号の明治ですよね」
「ああ」
 哲は金庫に近寄った。高さはそれほどない、小ぶりの耐火金庫だ。黒っぽい塗装は剥がれたり錆びたりしていて大分傷みがあるが、それでも状態はいいほうだろう。
「キャスターついてますけど」
 後ろに立つ大和が言う。確かに、金庫の底には、四つの車輪がついている。
「模様替えんときはいいけどなあ」
「泥棒は転がすだけでいいですよねえ」
「なんつーか、やっぱ昔は呑気よな」
 大和が小さく吹き出すのを聞きながら、金庫の正面にしゃがみこんだ。扉の上の方には製造会社のプレートがついていて、哲も、この部分だけが飾りとして売られているのは結構目にする。真ん中の左側にはハンドル、右側にはダイヤル。そして、その下には鍵穴を塞ぐ蓋があり、これはずらすだけですぐに動かせる。事前に聞いていた内容だと、鍵も紛失しているらしい。
 哲は揉み手せんばかりの心境で金庫を眺めた。同時代の金庫は、山田金庫だけでなく、有名どころだと竹内金庫、その他にも大倉金庫や萱内金庫と様々ある。すでに製造されていないものだから、しょっちゅう解錠できるわけではない。ダイヤルがきかなくなっているものも多いから、両方いじれるのは久々だ。
 手を伸ばして扉に触れると、いつもの通り、意味のない数字の羅列が頭の中に流れ込む。ぼんやりした顔をしていたのだろう。大和の呼ぶ声で我に返った。
「佐崎さん、大丈夫ですか? 何か——」
「……何でもねえ。作業すっから、話しかけんな」
「——はい」
 大和のことはさっさと頭の中から追い出し、哲はもう一度扉に触れた。何の意味があるのかまったく理解できない奔流が、また頭の中をごうごうと流れ始め、外の音は聞こえなくなる。数字だと思うのに、視覚というより聴覚がより反応するのは何故なのか。それは哲にも分からないし、考えたこともあまりない。
 昔からそうだ。超能力めいたものではないにしろ、誰もがそうではない、という意味では特殊な感覚。流れ落ちる滝のような数字の流れから、目的の部分を拾い上げることだけが何故だかできる。いつもなら。
「——けどなあ」
口の中で小さく呟き、哲は古い金庫に目を遣った。
 根性曲がりめ。お前のダイヤルは数字じゃなくてイロハニホヘトじゃねえかよ。
 胸の内で文句を垂れながらダイヤルに触れる。ひんやりと硬い金属をそっと撫でる。ほんの微かな歪みとひっかかりを捕まえようと、哲は細く長く息を吐き出した。

 構造自体は単純な古い金庫はほとんど時間をかけずに解錠できた。哲自身は金庫内部のことにはまったく興味がなかったが、大和が見たいというので扉を開く。鍵のかかっていない内扉を開くと、上段は仕切りのないスペースになっていて、下段は抽斗が二段になっていた。
 当然ながら中は空だろうと思って抽斗を開けたら、一番下の段に、何故かスミレの押し花が挟まった薄い紙が入れてあった。
「あらあ、なんだかロマンチックですねえ!」
 依頼人は喜び、大和と誰が何で入れたんでしょうねとはしゃいでいたが、哲に言わせれば変色しきった押し花なんて気色悪い限りだ。結局は枯草だし、わざわざ死んだ花を入れておくなんて呪いかなんかじゃねえかと思ってしまう。押し花を潜ませた乙女かオバサンか、もしかしたらオジサンに思いを馳せる繊細な心は持ち合わせていないが、一応大人の常識くらいはあるので、そんなことは口にせず、出されたお茶をおとなしくご馳走になってから店を出た。
「佐崎さん?」
 店を出たところで、大和が遠慮がちに声をかけてきた。
「何」
「さっき、あの——作業してるとき……何を聴いてたんですか?」
 驚いて、咄嗟に答えが出てこなかった。
 大和は暫く哲の顔を見ていたが、すみません、変なこと訊きました、と言って子供っぽく開けっ広げに笑ってみせた。