仕入屋錠前屋72 エデンの架け橋 2

「……これから仕事なんだけどよ」
「ああ、知ってる」
「……」
 連絡すると言ったくせに、仕入屋はしれっとした顔でいきなり現れた。
 しかも哲の部屋の玄関先に、大和を連れて、だ。
「お前な」
 低い声で唸るように言う哲に口の端を曲げて笑って見せ、秋野は背後を振り返ってちょっとそこで待ってろ、と言いドアを閉めた。三和土に立ったままだから、上がり框に立つ哲の目線とほとんど同じところに目があった。
「連絡寄越すって言ってなかったか、てめえは」
「ああ、言ったな」
 睨みつけると秋野は笑い、悪い、と言ったが、笑顔を向けられたからといって何の埋め合わせにもなりはしないし、それどころか腹が立つ。
「お前の仕事が終わる頃に会う予定だったんだが、あいつの先輩だかの都合でね」
「んなもんお前、何とでもなったろうが」
「まあ、ついでだから連れてってくれ。昼飯は食わせてあるから」
「仕事にか」
「今日のは、別に連れてってもまずくないだろう」
 今日の依頼は骨董品店で古い金庫の解錠だ。確かに危ないことも怪しいこともない。
「仕事自体は何もねえけど、いいのかよ?」
「何が?」
「だから——いや、別に何を怪しまれることもねえだろうけど」
 哲のことをなんと説明しているのか知らないが、仕事仲間とでも言っているなら、どんな仕事をしているのかと詮索されないとも限らない。そう思ったが、秋野は「構わない」と言っただけだった。
「ああ、そうかよ。じゃあいいけど……何時にどこに連れてきゃいいんだよ」
「連絡する。今度はちゃんと」
 片眉を上げる哲に言い、秋野は踵を返した。
 と、思って油断したのが悪かった。
 半身になったと思ったら素早く向き直った秋野の掌が首に触れる。指先を感じたと思った瞬間には、両手で首を掴まれ唇に食らいつかれていた。薄っぺらなドア一枚隔てて大和がいるとか抗議する暇もない。
 ぬるりと潜り込んで来た舌の温度に昨夜の記憶が呼び起こされて、思わず呻いた。
 ここ数週間はお互い用事があってほとんど顔を合わせていなかった。哲は別にどうとも思っていなかったが、秋野はそうでもなかったらしい。それとも、単なる嫌がらせだったのか。どっちでもいいが、昨日の秋野はいつになく執拗に哲を抱いた。
 ご近所さんがいないのをいいことに哲も派手に罵詈雑言を吐き散らし、盛大に暴れてみたが、そんなことで怯むような仕入屋ではない。結局散々好き放題され仕舞いには死んじまうから勘弁してくれと懇願する羽目になって——勿論勘弁してもらえなかった——もうとにかく記憶を辿ることすらしたくなかった。
 それなのに、何もかも思い出せと言わんばかりの濃厚な口づけのせいですべてが一気に蘇り、喉が震えた。こみ上げた怒りに思い切り唇に噛みつきかけて、咄嗟に腹を殴るに止める。いまいちの殴打に不満気な哲の様子に気付いたのか、離れ際、秋野が微かに笑う気配がした。
「てめえ、嫌がらせも大概にしとけよ」
 手の甲で口を拭って睨みつけたが、どうせ暖簾に腕押しだった。秋野はにやりと笑うとドアを開け、大和を呼んだ。
「こんにちは!」
 こちらは兄貴と違って邪気のない笑顔を浮かべた大和が勢いよく入ってくる。前に会ってからそう時間が経っているわけではないので、当然ながら見た目は特に変わっていなかった。
「ええと、今日はよろしくお願いします」
 顔は正直あまり記憶になかったが、秋野とはあまり似ていないという印象は間違っていなかった。整った顔立ちではあるが、目の色と年齢を差し引いてもやはり似ていない。
「っていっても、連れ回すだけだけど」
「はい、聞きました。これから用事があるのに連れてってもらえるって……すみません」
「じゃあ俺は行くぞ。夕方連絡するから」
「うん!」
 大和が秋野を振り返って笑い、大きく頷く。
「迷惑かけるなよ」
 普段から弟より多大な迷惑をかけっぱなしの男はしかつめらしく言って、哲に一瞥を投げるとさっさといなくなった。
「あの野郎はまったく——従兄弟を悪く言う気はねえんだけど」
「いいえ、いいんです。大丈夫です。あの……」
 そこでようやく、名乗ったことがないと気付いた。
「ああ、悪ぃな。佐崎です。佐崎哲」
「中牧大和です」
 大和は元気よく言って頭を下げ、にっこり笑った。

 大和の荷物は、背負っているリュック以外は駅のコインロッカーに預けてあるというので、そのまますぐに部屋を出て依頼主のもとへ向かった。幸い今日の依頼主である骨董店は哲の部屋から徒歩圏内にあった。
 昼間とはいえ、要は飲み屋街である。高校生を連れ歩くのはどうかと思ったが、怪しげな店は例外なく閉まっている。昼間も営業しているのはランチもやっているチェーン店がほとんどだからまあいいだろう。大体今は一番近くにいる身内が連れて行けというのだから、反対したって仕方がない。
「お仕事ってなんですか?」
 大和は珍しそうに周囲に目を向けながら、並んで歩く哲に目を向けた。身長は哲とほとんど変わらないが、大和の方が若干低い。哲も痩せているほうだが筋肉はついている。対して大和はすらりと細く、いかにも今時の、少女漫画から抜け出た男みたいな体型だった。とはいえ、まだ高校生だ。これからどうなるかは分からないが。
「あー、鍵師って分かるか?」
「ええと、テレビでたまにやってるの見たことありますけど……家の鍵とか失くして呼んだら開けてくれるっていう……」
「ああ、そう、それ。今日は家の鍵じゃねえけど」
 大和は何度か瞬きして、細身のデニム、サーマルニットにジャケットを重ねただけの哲を見た。
「ああいうお仕事の人って作業着っていうか、お店のユニフォームみたいの着てるのかと思ってました」
「会社でやってるとな。俺はそういうんじゃねえから」
「個人でやってるってことですか?」
「そう」
「すごいですね!」
「いや、すごかねえよ、別に。それだけじゃ食ってけねえから他のこともしてるし」
 大和はちょっと黙ってから躊躇いがちに口を開いた。
「秋野は……」
「あのな」
 言いかけたそれを遮り、哲は大和に向き直った。夜には賑やかになる通りも、今は人通りが少なく静かだった。日曜なのに出勤なのか、急ぎ足で通り過ぎる会社員に束の間目を遣り、哲は大和に視線を戻した。
「あいつがどんな奴かは、訊かれりゃ答えてやる。俺の主観だから真実とは限らねえけどな。けど、何の仕事してるのかとか、普段どんな生活なのかとか、そういうことは答えねえから訊くな」
「……俺」
「最終的にどういうことを知りたいのかは何となく分かってる」
「佐崎さんに訊くのは、卑怯ですか」
 子供っぽい真っ直ぐな目で見つめられ、哲は思わず苦笑した。
「卑怯かどうか知らねえけど、もしそうでも俺はそれに文句つけられるほど真っ当な人間じゃねえ。それに、誰に訊いたってそんなの質問する方の自由じゃねえの? そういうこと言ってんじゃなくて、単に俺が勝手に何か喋ったらあの野郎は激怒するし、そうなったら俺の手には負えないから勘弁ってこと」
 まだ細い手首に嵌った大きくてごつい腕時計。その対比が妙に大和を子供っぽく見せている、と何となく思う。ほとんど初対面に近い少年に対する情はない。だが、俯いた大和が叱られた小さな子供に見えて、哲は小さく嘆息し、その頭を乱暴に撫でた。
「そうしょげんな。後であいつを質問責めにしてやりゃいいだろ」
「——はい」
「じゃあ」
「あの、だったら、佐崎さんのこと訊いてもいいですか」
「ああ? 俺? 別にいいけど——」
 ほとんど同じ高さにある大和の顔を見て、哲は眉を上げた。何でも正直に答えるとは限んねえぞ、と腹の中でだけ断っておく。
「何で、ええっと、鍵師になろうと思ったんですか?」
 哲は大和を促して歩き出しながら、そこ来たか、と唸り声を上げた。
「言いたくなかったらいいんですけど」
「ああ、いや、言いたくないとかじゃなく……俺のじいさんがやってて」
 横を歩きながら真剣な顔をしてこちらを見上げている大和を一瞥し、哲はちょっと溜息を吐いた。
「大学行くんだろ? 何か悩んでんのか、進路」
「……」
 知らない人間が今の職業を選んだ経緯に、高校生が本気で興味を持つとは思えなかった。案の定、大和は硬い顔で哲から目を逸らし、それ以上何も喋らず骨董品店まで黙ってついてきた。