仕入屋錠前屋72 エデンの架け橋 1

 枕に突っ伏していた顔に、振動が伝わってきた。振動は低く微かではあるが、途切れることなく続いている。
 バイトを終え、いつもの定食屋で秋野と飯を食い、知り合いのバーに移動して飲み、強制的にお持ち帰りされて殴る蹴るの激しい抵抗虚しく押し倒されたっぷり喘がされて今に至る。ということは、まだ深夜のはずだ。
「うるせえ……」
 哲は低くしわがれた声で唸ったが、当然ながら人でない相手に文句を言ったところで通じない。仕方ないから顔を枕から少しだけ上げて振動の元を探したが、見える範囲には何もなかった。
 くそったれ虎野郎が満腹になってまだせいぜい十五分。哲はまだ回復途上だ。散々食い散らかして満足したらしいろくでなしは、元気にシャワーを浴びに行った。あの野郎は二十代もあと僅かの哲より幾つも年上のくせに、一体どういう身体機能をしてやがるのか、と胸の内で悪態を吐く。元々なのか、それとももしかして年に一度以上の山籠りの成果なのか。だとしたら山に行く日程を何とか突き止め、どうやっても阻止すべきじゃないのだろうか。
 そうやってどうでもいいことをぼんやり考えている間も、振動は続く。
「ああもう、くそ」
 緩慢な動作で手に届く範囲にある布の塊を避けてみたら、秋野のジャケットの中から電話が掘り出された。
 自分のものではないし、どうでもいいと思ったが、あまりにしつこい。画面を見ると「マリア」とだけ登録されていて、何だどっかの女か、と思って放り出しかけたが、ほとんど溶解寸前の脳に何かが引っかかって手を止めた。そうえいば、あいつの母親はこんな名前じゃなかったか。
「おい!!」
「何だ」
 遠くにいると思って腹から大声を出したらすぐそこで声がしたから驚いた。
「音立てねえで近寄んの止めろっつってんだろうが!」
「普通に歩いてたよ。お前がまだぼんやりしてるからじゃないのか」
 下着を穿いただけの秋野はバスタオルで髪を拭きながらにやにやした。むかっ腹が立ったが、怒鳴りつける前に手の中でブルブルしているものの存在を思い出した。
「電話」
「かけ直す」
「でも多分あれだぞ」
「あれって?」
「母親」
 秋野は面倒くさそうに眉を寄せたが、それでもまだしつこく震えているそれを手に取り、応答した。
「はい」
 母親相手の電話なんて、素っ気ないものと決まっている。思春期以降の男なんかほとんどがそうだろうし、他人が聞いているとなれば尚更だ。だが、目の前の男の素っ気なさはそれとはまったく種類が違うものだということは知っていた。照れでもなければ、当たり前に鬱陶しがっているわけでもない。それは他人——せいぜい好きでも嫌いでもない知り合いに対するそれに限りなく近かった。
「ああ、大丈夫だ……え? 何だって? 分かるように言ってくれ」
 何度か訊き返した後、秋野の言語はタガログ語に変わって、哲には何を言っているか分からなくなった。
 哲はベッドの上でなんとか上体を起こし、暫くぼんやりした後、煙草を探して視線を巡らせた。多分着ていたパーカーの中にあるはずだが、どこに放り投げられたものやらパーカー自体が見当たらない。猛烈に一服したかったが、探すのも途轍もなく面倒だった。仕方なく諦めシャワーを浴びることにして、哲は渋々起き上がった。

 シャワーから出てきたら、秋野はきちんと着込み、ベッドに腰かけて煙草を吸っていた。秋野自身は普段着ながらもついさっきスタイリストが仕上げましたと言ってもおかしくない見栄えの良さだが、尻の下の寝具は相変わらず酷い有様だ。その縺れ絡まった布の上でこの男にされたあれこれを思い出したら、無性に何かを蹴り飛ばしたくなった。
「……俺の服はどこ行った、エロジジイ」
 不機嫌に問うた哲に、秋野は声も出さずに顎を振ってベッドの端を指す。見ると、さっきまで突っ伏していた枕の横に哲の服が纏めて置いてあった。
 下着に足を突っ込み、ジーンズを穿く。やっとパーカーが出てきたので、早速煙草のパッケージを引っ張り出した。ようやくありついた一服に思わず唸る。秋野はちょっと頬を歪めて笑い、煙を透かして哲を見た。
「なあ、哲」
「ああ?」
「頼みがあるんだが」
「……」
 普段なら言下に拒否するところだが、哲は敢えて沈黙した。知り合って数年、どんなときの秋野が厄介かくらいはいい加減学習済みだ。びびっているわけではなく、逆らえないということもない。だが、面倒くさいのは嫌いだし、こういう顔をしているときのこの男は最終的には哲の手に負えないくらい面倒くさい。
「哲?」
「——内容による」
 煙を吐きながら言うと、秋野は目を細めて低く笑った。多分、哲が何を考えていたかくらい分かっているのだろう。
「明日は——もう今日か、休みだよな?」
「……ああ」
 日付は変わって今日は日曜だ。祝前日だから店は開いているのだが、哲のシフトはいつもどおり、日曜休みのままだった。
「だけど昼すぎに出かけるぞ。すぐ終わるとは思うけど」
 秋野は微かに頷いた。明日は解錠の仕事が一件入っていて、依頼主は秋野の知り合いだった。
「午後半日でいいから付き合ってくれ」
「いいけど、何に」
「子守」
 秋野は顎を上げて天井に向けて煙を吹き上げた。
「子守ってお前」
「って言っても、赤ん坊じゃない。高校生だ」
「……」
 深夜の、母親からの電話。そして高校生とくれば、連想するのはただ一人だ。秋野は哲の表情を見て面白くもなさそうに笑う。削げた頬を歪めたその笑いが、普段より少しだけ荒んで見えた。
「ご想像どおり」
「……お前の」
「弟」
 気のなさそうに呟いてもう一度煙を吐き、秋野は吸殻を灰皿に放り込んだ。
 秋野の弟は中牧大和と言い、秋野とは父親が違う兄弟になる。秋野は母親が二十歳かそこらの時に産んだ子供で、その後母親が日本人と結婚してからできた子供である大和とは大分年の差があった。
 母親は兄弟仲良くして欲しいらしいが、秋野は大和と特別親しくする気はなさそうだった。疎んじているのではない。寧ろ大切だから、近寄らせたくないのではないかと思う。兄弟だと告げるのも大和が成人するまで待てと言ってあるとかで、今のところ、秋野は大和の従兄弟という設定だ。
 だが、哲が見た限り、その嘘は肝心の大和にはバレている。大和が今も騙されているふりを続けているのは、逆に大人たちの事情と気遣いを子供なりに汲んでいるからだろう。
「高校生の相手なんて、何すりゃいいんだよ」
「俺だって知らん」
 秋野は無責任に言い放って肩を竦める。
「つーか、何でこの時間の連絡よ?」
「あいつ、春から大学で——こっちに来る予定らしい。受かればな」
 そういえば、温泉宿で会ったとき、高校三年生だと言っていた。
「ふうん」
「それで、一年先輩のところに下見がてら遊びに来てるって」
 今週は土日祝の三連休だ。学校をさぼっているわけでもないし、男だし、騒ぐことでもないだろうと思ったら、顔に出たのか秋野も微かに笑った。
「それが、母親あてに送った、連休は泊まりで出かけてくるってメッセージがネットワークのトラブルか何かで届かなくて、連絡が取れないもんで大騒ぎになったんだそうだ。結局連絡ついたはいいが、マリアが怒り心頭で」
 長い溜息を吐いて、秋野はゆっくり腰を上げた。
「日曜は俺のところに泊めて、月曜朝いちで帰ってこさせろって」
「泊めるってここにか?」
「まさか。床に転がしとくわけにいかんだろう。小学生ならまだ一緒に寝るって手もあるが、高校生と同じベッドで寝る気にはならん。泊めるだけなら他に部屋はいくらでもあるんだけどな、それなりに生活感くらい出しておかないとならんし」
 要は、ここが俺の部屋だ、と連れて行って疑われない部屋を用意するのと、その他諸々に半日かかるということか。
「ここに簡易ベッドでも入れるほうが簡単じゃねえのか、そんなスパイの偽装みてえなことしなくても」
「——そうだな」
 目の前に立った秋野が目を細めて哲を見た。虹彩に散る金色の斑紋に、ライトが当たって小さく光る。伸びてきた手を乱暴に振り払い、哲は秋野に向かって煙を吐いた。
「触んじゃねえ」
「そう言うなよ、冷たいねえ」
「うるせえ、さんざっぱら好きに触っといてよく言うぜ。邪魔だから退け」
 秋野は喉の奥を鳴らすようにして笑い、哲の銜えた煙草を取り上げて吸いつけた。
「明日また連絡する」
「退けっつってんだろうが」
 押し退けたら秋野の身体が素直に引いたので、哲はベッドの上のTシャツに手を伸ばした。パーカーを羽織り上着を重ねて、髪を手櫛で適当に直す。そんじゃあな、と声をかけたら、秋野はああ、と答えてまた煙を吐いた。