仕入屋錠前屋71 一線を越えたい 5

 疲れているのだったら泊まっていけと言われたが、哲と一緒に尾山家を出た。何も哲と一緒にいたかったわけではなくて、明日の朝やら何やらのことを考えたら面倒になったからだ。
 エリは折角だから泊まるといってでかいバッグを掲げて見せたので、行きと同じく哲と二人並んで駅まで歩く。哲は何故か不機嫌だった。煙草を吸いながら尾山と長話をしていたから何か言われたのかとも思ったが、その後の尾山への態度を見ていると、どうもそうでもないらしい。
 遅い時間だからか電車は空いていた。終電ではないが、あと数本、と言ったところだ。座席に並んで腰を下ろし、押し黙る哲に着いたら起こしてくれと頼んで目を閉じる。それまでは今にも寝そうだと思ったが、いざ座ってみると意外に眠れなかった。
 線路から伝わる振動やアナウンスをぼんやりと遠くに感じる。それでもふと意識が遠くなって身体が僅かに傾ぎ、腕を組んだ肘のあたりが哲の腕に一瞬触れた。
「おい」
 低い声で着いた、と言われたから目を開けた。哲はさっさと立ち上がっている。秋野が乗り過ごそうが気にしないといった風情の痩せた背中を急がず追う。外に出て、飲み屋街の方向に歩き出すとまだ人出は結構あった。どこかで馬鹿でかい声で電話をしている奴がいる。台湾人らしき観光客の女が三人、通り過ぎる秋野に向かって流し目をくれた。三人それぞれ結構美人だ——半分眠った頭でそう考えて彼女たちに愛想笑いを返し、哲の二歩くらい後ろを歩きながらなあ、と声をかけたら、哲は足を止めず、肩越しに振り返った。
「あ?」
「お前、何で不機嫌なんだ?」
 哲が答える前に、やたらでかい声が割って入った。
「お兄さぁん、飲み放題——ああ、なんだ、哲さん」
「あ、よう」
 真っ赤なケースをつけたスマホ片手に哲に声をかけた居酒屋キャッチの男が、一緒に止まった秋野に気づいて哲に目を戻した。
「お友達っすか」
「そんな仲良しじゃねえ」
「そうなんす?」
 変な日本語だなと思いながらキャッチを眺める。二十歳をいくつか超えたくらいだろう。ごく普通の格好の若いやつで特別胡散臭くもないが、昨今のヤクザと同じで、今時は外見から判断できないから色々と難しい。
「うわ、でもなんかめっちゃ男前っすね。脚長いし、って、え、あれ、ガイジンさんっすか? 観光とか? 飯食うならいい店紹介しますよ。俺一品サービスできるんで、そしたら飲み放題つけてこのお値段なんすよね。俺今からちょい電話してみますから、そしたら一緒に」
「こらこら落ち着け。ガイジンさんじゃねえし、勧誘は無駄だ」
「あ、そうなんっすか?」
「つーか、この辺はこいつの知り合いだらけだ。やばい店に連れてったら逆にお前がぼったくられっから止めとけ」
「えーっ、マジすか、やばいっすね」
 笑いながら言うキャッチの目はどこか虚ろで、二人を見ているのに見ていないようにも見えた。
「でも哲さん、俺そんなことしませんよ。そういうのは止めたんっすよ。今はマジ穴場しか紹介してませんから」
「ああ、そう」
 哲は気のない様子ながらも一頻りキャッチに付き合ってからようやく歩き出し、おとなしく待っていた秋野を一瞥した。
「……さっさと帰ればいいじゃねえか。何犬みたいに黙って待ってんだ」
「眠くて喋るのも億劫でな」
「だから」
「質問の答えを聞いてないし、お前は答えたくないからあのキャッチに付き合ってたっていうのも分かってる」
「……」
「尾山さんと何か話してたろ、さっき。何か気に障ることでも言われたか」
「そんなことねえよ。お前のガキんときの話とかを聞かされた」
「何だそりゃ」
「日本語話せなかったとか」
「ああ——」
 そんなことは秘密でも何でもない。訊かれたことがないから哲に言ったことはないが、隠していたわけでもない。別に大した話はしていなさそうだ。だとしたら、哲の不機嫌は秋野とは何の関係もないものだろうかと首を捻る。疲れているせいか頭が上手く回らない。
「あと、お前が一線を越えりゃいいと思ってたって」
「どういう意味だそれは?」
 一線を越える、と聞いて秋野が真っ先に思い浮かべるのは犯罪行為だが、尾山が秋野にそれを期待するとは思えない。
 人の流れに乗ってゆっくりと歩む哲の顔を斜め上から見下ろす。肉が薄い鋭角的な輪郭に街灯やらネオンやらが当たる。まるで昼夜を逆転させようと企む何者かがいるかのように、夜だというのに辺りは明るい。くっきり照らし出された哲の顔は、やはりどこか普段と違う。
「持たないって選択と、欲しいって言えないことは別なんだってよ」
 そんな話を哲にした尾山の真意は分からないが、想像はつく。哲が秋野にとって何なのか、尾山には何も話していないが、耀司から聞いているだろう。耀司は他人のプライベートをべらべら喋る人間ではないが、秋野の事となると心配性の母親のようになる。
「俺は何も話してないぞ、言っておくが」
「馬鹿かてめえは。あんな痕つけやがって、話してなくたって一緒じゃねえか」
 哲はこちらを睨みつけた。
「見えるとこにあんなもんつけんじゃねえっつの。利香にまで見られて、利香は耀司に俺が怪我してたとか言ったらしいし」
 まあ、耀司には見えなかったみてえだけどよ、と吐き捨て、哲はそれこそ不機嫌そうな顔になった。
「見えないとこならいいのか」
「わざとらしくそういうベタな返しするとこがむかつくんだよ、てめえは」
 秋野は哲の腕を掴んで立ち止まった。腕を掴んだ手はいつも通り乱暴に振り払われたが、哲は一応はその場に立ち止まり、歩き出そうとはしなかった。
「……何が問題だ?」
「何がって何がだ」
「俺が悪ふざけしたことは認めるし——」
 哲が眉間に皺を寄せて低く唸る。
「まあ、元々否定はしてないけどな。だけど、そんなの別に今に始まったことでもない」
 見えるところに歯型をつけたことくらい何度もある。いちいち覚えているわけではないが、多分、キスマークも初めてではない。確かに初対面に近い尾山に指摘されて多少は気まずい思いをしたかもしれないが、哲にとってそれが一体何だというのだろう。
「手に入るかどうかも分からないものに執着して俺も大概馬鹿だと思ってるし、お前がそう思うだろうっていうのも分かってる。でもまあ、どれだけ可能性が低くても、自分の中でだけでもそれは俺のだって」
 人込みの中だから、そいつは、とは言わずにそれは、と言い換えた。秋野が最後まで言い終わらないうちに、哲は突然身を翻し、大股で歩き去った。
「……何なんだ」
 不機嫌なのかそうではないのか、何だかよく分からない。哲の気分を読むのは、本人に隠す気がないからいつでも簡単だ。だが、今はまったく分からない。首を捻り、追いかけるのも面倒だから電話をかけるかとポケットに手を突っ込みかけたら後ろから声をかけられた。
「おい、秋野じゃないか? 疲れた顔してんなあ」
 振り返ると、知り合いが立っていた。すぐ近くで小さなビストロをやっている成田という男で、元々は尾山の会社の店で一緒だった。年が近いから仲がよく、たまに成田の店に行って一人で飯を食うが、道端で会うのは珍しい。
「ああ……実際疲れてるからな」
「珍しいな、疲れてても疲れてませんってツラしてんのに。つーかそもそも疲れるって機能がついてないのかと思ってた」
「うるさいよ」
 じゃあ疲れてないときに店に来いよ、と言って立ち去りかけた成田を、ふと思いついて呼び止めた。
「なあ」
「何だ?」
「お前、帰りはいつもこの辺通るのか?」
「ああ」
「あそこの交差点とこに居酒屋キャッチが何人かいるよな」
「まあ人数に変動はあるけど、大体いつもいるかな」
「赤いスマホ持った若いのがいるだろ、このくらいの背で、ブラウン系カラーの髪、わりと童顔の」
 成田は切れ長の奥二重の目をちょっと眇めて秋野を見た。
「……何かあったのか?」
「いや、何もない。ただ、今時の素人は下手なヤクザより面倒だから」
 ヤクザは嫌いだし擁護する気はまったくない。だが、彼らの暴力はある意味管理された暴力だった分、対処に迷うこともなかったし、上から抑えつけるように手回しすることもできた。それに比べて最近は、抑止するものがない上、想像もつかないことをやらかす素人が多くなった。
「ああ……たまにあるよな、断った客を追いかけて殴るとか」
「知り合いが顔見知りみたいだから、一応な」
「そいつが何かやったっていうのは聞いたことないから、大丈夫じゃないか。暴力振るわれるとか、何かされるんじゃないかって心配なのか?」
 秋野は思わず笑ってしまい、成田に妙な顔をされた。
「いや、すまん。そうじゃなくて——凶暴な奴だから、何かされたらお返しにやりすぎるんじゃないかと心配で」
 成田はさすがお前の知り合いだと言ってげらげら笑った。
「でもまあ、一応誰かに聞いとくよ」
「悪いな」
 成田の背を見送り、踵を返す。突然やけにおかしくなって、こみ上げる笑いを何とか抑えた。まったく、俺だって母親みたいだと耀司を笑えない。しかし、キャッチセールスは客を捕まえるからキャッチと言うのだろうが、哲は何だかんだ言って暴力沙汰を集め捕まえて回るし、おまけに秋野の何もかもを捕まえている。心配するのも無理はない、と自分自身に言い訳する。
 手に持ったままだった携帯に目を落とし、ちょっと考えてから哲の部屋の方向に足を向けた。不機嫌ではないというなら一体何か、言いたくないなら言わせるまでだ。アスファルトの表面を斜めに走る曲がったひび割れが線に見え、秋野は尾山の言う一線に思いを馳せた。
 欲しいと強く思うことが一線だと言うのなら、多分ずっと前に越えていた。長い間自覚はなかった。自覚した後もずっと認めたくなかったけれど、多分最初に哲に名前を呼ばれたとき、気づかず跨ぎ越したのだ。
 お前の中にも一線はあるのか。越えたいと思ったことはあるのか。あるとしたら、それは一体どんな一線だ。
 今は目の前にいない相手に問いかけながら、秋野はゆっくり歩を進める。疲れ切った身体が睡眠を要求したが、今秋野が欲しいのは、それではない。いつだって、何よりも欲しいものは決まっている。
 なんとなく立ち止まって空を見上げたら、夜だというのに白っぽく下界の光を映したそれは雲一つないようだった。集められ、拡散する光が明るすぎて星は見えない。だが、雲はない。明日の朝は晴れるといい、と思いながら、秋野はまた歩き出した。