仕入屋錠前屋71 一線を越えたい 4

 面白い子だなあ、と思いながら、尾山は改めて佐崎哲という人物に目をやった。今はキッチンで洗い物をしていて、隣で耀司がそれを拭いている。
 結婚式で顔を見てはいたが、こうしてじっくり眺める暇はなかった。
 笑顔も冗談もあくまでも控えめだが、おとなしい感じはしない。耀司やエリと話しているときはもっと砕けているが愛想がなく、真菜や利香に対してはどこか優しげだが、どちらも常識の範囲内での変化に過ぎない。
 常識的な青年と思わせるそつなく礼儀正しい態度と、垢抜けすぎてもいないし野暮ったくもない、ごく普通の外見。すべて合わせると、地味と言うわけでもないが、特別目立たない当たり前の若い男になる。
 それが、秋野と向き合ったときだけ鮮やかに変わるのが面白かった。そして、多分それが彼の普段の姿なのだろうと思う。
 商売柄、尾山も数多くの一般人とは言えない人種と渡り合ってきた。彼らの粘つくような視線とはまた異なる、乾いた熱を感じさせる鋭い目。恐らく、今日、この場だからなのだろう。鋭さはほんの一瞬ですぐに消え、彼は驚くほど冷めたような顔になる。だが、一度あの変貌を目にしたらよく分かる。その顔は冷めた顔でも白けた顔でも何でもなく、腹の底に押し戻した何かを閉じ込めている顔なのだと。
 洗い物を終えた哲が煙草のパッケージとライターを取り出しながら尾山に近づいてきた。尾山は短くなった煙草を灰皿に捨てながら哲に笑みを向けた。
「悪いね、後片付け手伝わせて」
「いえ、大した量じゃないですから」
 言いながら、煙草を銜えて煙を吐く。まだ三十前だと聞いているが、こういう横顔は妙に男くさく、そして尾山から見ても老成して見えた。
「休みの日に突然呼んで申し訳なかったかな。利香がどうしてもって言うもんだから」
「ああ、いえ。ただ——お子さんの我儘に振り回されるような方じゃないっていうのは、聞いてますけど」
 哲は一瞬唇の端を歪めて笑い、尾山から目を逸らした。
「秋野から?」
「……いえ、耀司くんから」
「そうか」
 灰皿で穂先を払う哲の手元を見て、尾山も新しい煙草を銜え、リビングに目を遣った。楽しそうに笑っている妻と勝——エリ——、携帯の画面を覗き込んで何か相談している真菜と耀司、その隣で話しかけられる度頷いている秋野。利香はすでに寝かしつけられた後だ。
 換気扇が頭上で低く唸り続ける。意外に大きな音がリビングの話し声を不明瞭にし、一瞬、別の世界を外から眺めているように錯覚した。
「俺も一遍ちゃんと佐崎くんの顔見ておきたかったからね。今日来てくれてよかったよ。大勢いる方が佐崎くんも気詰まりじゃないだろうし、できればあいつが聞いてないところで話したかったし」
 あいつとは誰だと問うこともなく、だが、しっかり尾山の目を見て、哲はちょっと首を傾げた。
「聞かれたらまずい話なんですか?」
「うちに来たとき、秋野は日本語が話せなかった」
「——急に、何です」
「君に話しておきたいだけだ」
 ゆっくり吐き出した煙が換気扇に吸い込まれて消えていく。若干の戸惑いを滲ませた、今は鋭さを感じさせない目を見つめ、そうか、彼はどこか秋野に似ているのだと唐突に腑に落ちた。
 尾山は、初めてこの家の玄関先で見た秋野のことが忘れられなかった。誰にも頼らず立つのだという決意を薄い色の瞳に漲らせ、尾山を真っ直ぐ見つめた幼い子供。
 目の前の青年は、性格も、価値観も、何もかも秋野とは違うだろう。それでも、根っこのようなもの、その本質が秋野によく似ている気がして、話してみたかったのはそれも理由かもしれないと思った。
「周りに日本人なんかいなかったんだから、まあ話せなくて当然だけどね。子供は覚えが早いし、秋野は語学的な才能があるみたいで、信じられないくらいすぐに日本人みたいに話すようになった。あいつは——」
 灰皿で灰を払い、ふと目を向けると、秋野と正面から目が合った。ほんの僅か目を眇めた秋野に笑ってみせ、そうして今はこっちに近寄るな、と牽制する。秋野は一瞬不満そうに眉を寄せたが、話しかけてきた真菜のほうを向いた。
「——あいつは、幼いなりに驚くほど色んなことを理解していて、それでも決して卑屈じゃなかった」
 秋野との言葉のないやり取りを見ていたはずだが、哲は何も言わず、自分の指先の煙草に目を向けた。
「一人にしてくれと殻に閉じこもることもなかった。俺たちの好意は素直に受けたよ。懐いてくれたし、喜怒哀楽もちゃんと表現した。怒りを内に秘め、なんてこともなかった。それでも、一遍だって何か欲しいとねだってくれたことはなかった」
 与えれば受け取った。感謝して、嬉しそうに。だが、自分から欲しがらない。それが例え、菓子のひとつでも。秋野はそういう子供だった。
「俺と同じで、耀司は忘れられないんだろう。そういう秋野を」
「……だから過保護なんですか」
「母熊並みにね」
 一瞬考え込んだ哲が吹き出し、熊って似合わねえなあ、と呟いた。
「守ってやる必要なんかないし、本人だって望まんだろう。それは耀司も分かってるはずだ。それでも、耀司にとって秋野は、どうしても守りたい何かなんだ。できる限り、自分の力の及ぶ範囲で、あいつを幸せにしてやらなきゃいかんと思ってるんじゃないかな」
 耀司が抱えるその決意は、兄を慕う弟というよりは、子を思う親に近いのではないか。不幸と呼んでもいい生い立ちと環境の中でも揺らがない——揺らぐまいと顔を上げる幼い秋野に、それより更に幼かった息子が感じたものが何なのか、尾山にも本当のところは分からない。
 ごく普通の家庭だったし、家は大きいが金持ちだったわけでもない。自分は恵まれているから秋野を助けなければならないのだと幼い耀司が思えるような、分かりやすい差はなかったはずなのに。
 耀司が、ついこの間、尾山に言った。秋野は哲の何もかもが欲しいのだ、と。
 可愛がっている弟分のような青年がいると聞いてはいたが、秋野にとっては彼が多香子と同じかそれ以上の存在なのだと聞かされて驚いた。それが男性だったからではない。勿論驚きはしたが、性別が何であれ、多分等しく驚いただろう。
 多香子のときですら、最後の最後で秋野は引いた。それなのに、目の前に立つこの青年を、秋野は何をどうしたって手離さないのだと耀司は嬉しそうに笑った。
「もう何回も言われて食傷気味だとは思うが、あいつを頼むよ。何も背負わせようってわけじゃない。佐崎くんがもう無理だと思ったら捨ててくれたって構わないから」
「俺はもう無理です」
 突然口を挟んだ哲は歯の間から押し出すように呟いた。軋るような声に、尾山は思わず口を噤んだ。まさか今このタイミングで無理だと言われるなんて想像もしていなかったが、哲が言うのはそういう意味ではないとすぐに分かった。
「俺が捨てるのはもう無理だから——あいつが飽きてくれればいい。本当は、今もそう思ってます」
 押し潰された吸殻がばらばらになって、フィルターが剥き出しになる。まるで、急がないと曝け出せなくなると言わんばかりに早口で吐露される彼の内心のように。
「俺はあいつを大事にはできません」
「そうか」
「……その言い方、そっくりで頭に来ますね」
 意外なことに、彼の口から似ていると言われたことが単純に嬉しかった。秋野と血の繋がりはない。だが、自分にとっては耀司と、そして利香と同じくらいに大切な子だ。
「終わらせたいわけじゃないですけど、そうするのが正しいとは思います。だから、やってみたけどできなかった。あいつはしつこいし」
 苦笑してぼろぼろになった吸殻に目を向けた哲は、何でこんなことをしているのかというような顔をして、摘んだフィルターを灰皿に捨てた。
「俺は全部、引っ張り出したいんです。あいつの腹の中に手を突っ込んで、取り出したものを全部並べて見てみたい。あいつが幸せかどうかなんて正直どうだっていいし、多分これからも、気にしたりできません」
「佐崎くんは?」
「え?」
「あいつに大事にされたい?」
「……いいえ。俺は——」
 眉を寄せた顔に、ほんの束の間秋野に見せるあの剣呑な表情が浮かんだ。低く押し殺した声で呟かれた続く言葉は換気扇の唸りにかき消されるほど小さくて、尾山が聞いたと思った言葉は空耳だったのかも知れなかった。
 やけに年寄りくさい溜息を吐き、彼は諦めたように数秒天を仰いだ。その顎下に生々しい鬱血を見つけ、尾山はちょっと言葉を失った。虫に刺される季節ではないし、掻き毟った痕でもない。竹刀で突きでも食らわなければあんなところに痣はできず、しかも、その色からしてそれは真新しいと言ってよかった——痣に真新しいも何もないが。
「……あいつ、そういう子供っぽいこともするんだな」
 思わず独りごちたが、よく聞こえなかったらしい。首を傾げる哲に見えるように、尾山はわずかに顎を上げ、自分のそこを指差して見せた。
「物であれ人であれ——あいつが、俺のだって、ちゃんと宣言するのは初めてだ」
 最初は何のことか分からないという表情を見せたものの、ようやく気がついたらしく、哲はものすごく嫌そうな顔をした。
「そんなことは」
「あるんだよ、そんなことが。あれだけ恋焦がれた女のことも手離したくせにな」
「別に、進んで手離したわけじゃないでしょう」
「同じだろう、最後まで戦わなかったんだから」
 こんなことで泣きそうになるなんて、年を取ったということか。潤みそうになる目をゆっくり閉じてまた開く。
「持たないという選択と、欲しいと言えない、ということはまるで違う。俺はあいつにその一線を越えて欲しいとずっと思ってたよ。君がどう思ってようと、どんなに迷惑だろうと、父親として俺は嬉しい」
 答えを求めてのことではなかったし、彼もその気はなさそうだった。回り続けるファンが空気の流れを吸い込んでいく。煙と、音と、お互い声に出さなかった何か。何もかもが緩やかに回転しながら消えていく。ひどく穏やかな気持ちでそんなことを考えながら、尾山はもう一度口を開いた。
「だから、佐崎くんにも越えてほしい。君の中にある一線をね」
 尾山が言った途端彼の顔が険しく歪み、そして暫しの沈黙の後、いつかそのうち、と小さく呟く声が聞こえた。