仕入屋錠前屋71 一線を越えたい 3

 ケーキも食い、散々大人に愛嬌を振り撒いてすっかりへばった利香は、普段の就寝時間になった途端あっという間にむにゃむにゃし始め、歯を磨きに行った。子供らしいピンクのパジャマに着替えた利香が全員におやすみを言って回る。そうしてたまたま座っていた位置の関係で最後に哲のところに来た利香は、哲を見上げて、ちょっと首を傾げた。
「どうした?」
「ううん。哲とあんまりおはなししなかったね」
 そもそも子供と何を話していいかよく分からない上、利香は女の子だ。一緒にいることがあっても話なんかそんなにしたことがない。聡い子だな、と思って、哲は利香の頭を撫でた。
「そうだな。じゃあおやすみしに行くかな」
「うん、行こう! じゃあ、おやすみなさーい」
 利香はアイドルがステージから退場するが如く居並ぶ大人たちに手を振って、空いている手で哲の手を引き寝室に向かった。かつて一時的に秋野の部屋だったというそこは、すでに以前の住人の面影など欠片もない女の子仕様だ。過度に少女趣味ではないものの、女の子らしい色合いでまとめられ、男、しかも利香にしてみれば立派におっさんであろう自分が立ち入るのは正直憚られたが仕方ない。
 少しばかり腰が引ける思いで足を踏み入れ、ベッドに頭からもそもそと潜っていく利香の、子供らしい尻を眺めて思わず吹き出す。頭隠して尻隠さずの体現だ。勿論、隠れているわけではないが。
「さて、そんじゃあ贈呈式といきますか」
「ぞーていしきって何?」
「何でもねえよ」
 利香の学習机の前にある椅子を引っ張って、ベッドの脇に置き腰かける。利香はようやく布団に上体を起こす格好に収まっていた。
「内緒だからな」
 誕生日プレゼント不要と連絡があったから大袈裟なものを用意する気はなかったが、手ぶらで行くのは何となく躊躇われた。哲は、秋野がワインを仕入れている間に知り合いの店に行って買ったおいたものをジーンズのポケットから取り出した。
 頃合いを見て渡せばいいと思っていたのだが、何せ利香は子供らしくくるくる動き回っていてなかなかそんな機会もないままこの時間だ。哲が何か言いたげなことになぜ気づいたか分からないが、利香が哲を寝室に連れてきたのは、何かを察したからなのだろう。
「誕生日おめでとう。一日前だけどな」
 ラッピングすらされていないそれを見て、利香は目を輝かせて口をアルファベットのОの形にし、内緒だと言われたことに思い至ったのか両手で口を塞ぎ、まだ小さい手の間から呼気を漏らした。
「すごい、すごい、きれい!」
 差し出された利香の両手の上にプレゼントを載せる。長いワイヤーの先端に通された直径四センチ程度の、カットされた透明なガラス玉。哲に言わせればそれだけの代物だが、正確にはサンキャッチャーと言うらしい。
「これを窓んとことかにぶら下げんだ。綺麗だぞ、きらきらして」
 陽光が玉——というか、スワロフスキークリスタル——に当たると、光が屈折するだか何だか、哲にはよく分からないが壁に虹のような模様ができる。知り合いの店は小さな雑貨屋で、この間用があって寄ったらそれが店の窓辺に飾ってあった。綺麗だなと思ったのはその時だけで店を出た瞬間にはもう忘れていたが、利香へのプレゼント、と考えたときに思い出した。女は概して光物が好きだから——勿論女ってやつを一括りにしたらどんな報復があるか分からないから断定はしないが。
 ぶら下げてやろうか、と手を出したら、利香はサンキャッチャーをぎゅっと握り、頷いた。そうして、手の中のものではなく身体ごと預けるようにして、前屈みになっていた哲の首筋に思いっきりしがみついてきた。
「うわ」
「哲、ありがとう!」
「——どういたしまして。そんな大したもんじゃねえから、おい、利香」
 小さな背中を掌で軽く叩き、思わず笑った。子供の体温は高い。こんな小さな身体のどこにこんな熱量があるのだろうと不思議に思う。
 自分にはあるべきものがない、という感覚は、十代の頃から常にあった。何かが欠けているのだ、と漠然と感じる。人として持っているべき何かが、欠落しているのだと思う。それが何で、どうしたら手に入れられるのか、と考えたことはない。ないものはないのだ、と理解しているだけだ。もしかしたらあるのかもしれないが、見つけ方も知らないのだ、と。
 利香の身体をそっと押しやり、かわいらしい顔を見下ろしながら不思議に思う。利香を、守るべき者だと感じる。それは勿論利香個人を好ましいと思うからでもあるが、多分それ以上に、利香があの男の大事な者であるからなのだ。
 利香の頭を撫で、サンキャッチャーを受け取って掌中のガラス玉を束の間眺める。
 欠けていると思い込んでいた何かがもし自分の奥底に埋もれているのだとしたら、それを引っ張り出せるのはクソ忌々しいあの男だけなのだろう。哲の中から勝手に何かをごっそり持って行った傲慢な男。持っていかれた中にもしそれがあったなら、いつかあいつが掘り出すはずだ。それこそ石英を採掘するように。
 それとも、と哲は窓に近寄りながら首を捻った。水晶を模したこのガラスのように、俺の中にあるのは紛い物だけだろうか。
「哲、利香?」
 声がしてドアが開き、耀司が入ってきた。
「あれ、どうしたの」
「哲が内緒でプレゼントくれた!」
 内緒と言いながら早速ばらしているあたり、お約束だ。耀司は利香を見てから哲の手にあるものに目を移し、済まなそうな嬉しそうな顔をした。
「哲、気を遣わなくていいのに」
「いいんだよ。これ、ここにぶら下げていいか?」
 カーテンレールを指すと、耀司は頷き寄って来た。閉まっていたカーテンを少し開け、ワイヤーに付属していた金具を使ってカーテンレールに引っ掛ける。蛍光灯の光では特別光ることもない、単なる透明なガラスだが、利香はぶらんとぶら下がったそれをうっとりと見つめていた。
「朝になったらぱあって光るかな?」
「太陽出たらな」
「そっかあ。早く朝にならないかなあ!」
「そうだな。じゃあ、俺あっち戻るから」
 耀司に声をかけ、利香におやすみを言って哲は部屋を出た。

「利香、よかったなあ」
「うん!」
 哲がそのままにしていった椅子に腰を下ろし、耀司は利香に笑いかけた。利香はにっこり笑い、枕に載せていた頭を浮かしてカーテンの閉まった窓を眺め、暫くそのままでいたが辛くなったのかばたんと倒れた。
「秋野ともいっぱい話せたか?」
「お話したよ! カイトくんのこととかねえ、アイリちゃんのことも、あと、ノリコせんせいのこともいっぱい」
「そっか」
 一番にカイトくんの話をしたなら秋野はさぞや気が揉めているだろうと思い、耀司は思わずにやにやした。カイトくんは利香の目下お嫁さんになりたい男第二位だ。ちなみに一位は少女向けアニメのヒーローキャラだからあまり関係がない。
「あとね、さっきね、エリちゃんと——」
 一所懸命話しながら、利香の目がとろんとしてきたので耀司は腰を上げた。
「ほら、もう寝な、利香。電気消すよ」
「んー、でももうちょっと」
「早く寝たら早く朝になるぞ。哲にもらったやつ、早く見たいだろ?」
「うん」
 ぱっと顔を輝かせ、利香はおとなしく目を閉じた。これは眠くないとごねるときに結構使えるものをもらったんじゃないかと思いながら椅子を戻し、立ち上がる。照明のスイッチに手を伸ばしたら、利香が突然目を開けた。
「あのね、哲がケガしてた」
「怪我?」
 訊き返したら、利香は半分閉じた目をぱちぱちさせながら、布団の中から手を引っ張り出して自分の首というか、鎖骨のあたりで円を描いた。
「うんとね、ここがまっかになってたよ。だいじょうぶかなあ」
「そうなんだ——うん、じゃあ、俺が訊いておくよ」
 こくりと頷くのを見て今度こそ照明を消す。耀司はそっとドアを閉め、リビングに戻って哲を探した。哲はシンクの前に立って腕捲りをしていた。母と真菜が食器を下げながら哲に頻りと何か言っていて、哲が笑いながら首を振っている。多分、洗い物をするという哲に、そんなの悪いわ、いえいえ、作ってもらったんだから洗います、とか何とか言っているに違いない。
 どう見ても怪我をしているふうではないし、そもそも首から鎖骨付近に怪我しているなら見えるはずだ。さっきから哲を見ているが、鎖骨近辺に傷はない。利香が半分寝惚けていたのだろう。母と真菜を追い払い、耀司は哲の横顔に立った。
「俺手伝うよ」
「おう」
「ほんと、ありがとな」
「ああ?」
「サンキャッチャー。すげえ喜んでたよ」
「ああ、いや。別に高いもんでもねえし」
「値段じゃないだろ? それに、利香のこと可愛がってくれて俺もほんと嬉しいし」
 哲は一瞬耀司を見て、何故か考えるような顔をしたが、すぐに何事もなかったような顔に戻って皿の水を切った。無言で食器を洗う哲の横で、耀司も黙々と布巾を動かす。
「——俺はお前らに何も返せねえから」
 水音に紛れるほど微かな低い声。ほとんど独り言だと分かっていたから、聞こえないふりをした。耀司が、利香が、哲を大事に思うようには、哲は自分たちを大切にしてはくれないだろう。それは哲が薄情だということでは決してない。だから、耀司はそれで構わなかった。ただ一人のことだけを特別に思ってくれればいい。あいつの手を離さないでさえいてくれたら、俺は哲が何を思っていようと気にしない。
「ほんとに、ありがとう」
 もう一度繰り返した耀司をちらりと見て、哲は頬を歪めて微かに笑い、明日は晴れだといいな、と呟いた。
 みな血縁ではないけれど、家族の愛情を一身に受け、幸せを振り撒いて周囲を笑顔にさせる利香。まるで哲がくれたサンキャッチャーのようだ、と思い、耀司は深く頷いた。
「ああ、そうだ、哲」
「ああ?」
「利香がさ、哲が首んとこに怪我してたって……鎖骨んとこらへん?」
 哲は一瞬酷く物騒な顔つきをしたが、すぐに普段通りの顔に戻って手元に目を戻した。
「怪我なんかしてねえよ」
「だよなあ?」
 子供のようにこくりと頷き、哲は何故か小さく舌打ちした。