仕入屋錠前屋71 一線を越えたい 1

 どうしても起き上がれない。
 誰だって、一年に何度かはそんな日がある。
 疲れすぎると眠れないのは誰でも同じだと思うが、それが度を超すとさすがに倒れる。
 実際にばったり倒れたわけではないが、数時間前に帰宅した秋野の状態はかなりそれに近いものがあって、今もまだ完全に回復したと言うには程遠かった。
 中二階に取り付けたドアホンが鳴っていたのは気づいていたし、ノック——本人はそう言っているが、実際はただの蹴り——が数度あったのも分かっていた。
 数日前に、今日、この時間に来てくれと面倒くさがる哲にしつこく言ったのは自分だ。だから、ドアを開けなければいけないのはよく分かっているのだが、身体を動かすのが本当に辛かった。
「おい」
 どうにか掴み、耳に当てた携帯から不機嫌な声が聞こえた。
「呼びつけといて留守か」
 言いながらドアを蹴っているのか、破壊槌を振り下ろしたような音が響いた。
「ドアが壊れる……」
 酷く掠れた声に舌打ちが返ってくる。
「寝てんじゃねえ」
「寝てたら話せないだろ」
「寝言じゃねえのか?」
 言いながら、もうひとつ蹴りが入る。
「ドアが壊れたら弁償してくれるか」
「頭なら幾らでも下げてやる。金はねえ」
「勘弁してくれよ。勝手に開けられるだろ。近所迷惑だから入ってくれ」
「近所なんかいねえだろうが。何だ、頭痛か、二日酔いか」
「違う。疲労」
「お年寄りめ。ジジイとは言ってねえぞ、言っとくけど」
「言ってるのと同じだろ、それは。いつまでもドアの外で喋ってないで入れって言うのに」
 ぶつぶつ言う声が途切れ、通話が切れた。数秒後にドアが開く音がする。この男と付き合っていると、家庭用の玄関ドアの鍵に果たして防犯上の意味はあるのだろうかと疑うようになる。もっとも今時のディンプルキーでもない限り、やり方さえ覚えれば錠前屋ではなくてもそれなりに短時間で開けられるが。
 薄っぺらいスマホを投げ出し、毛布をかぶり直す。薄闇のなかは酷く居心地がよく、あと数時間ここに籠っていれば楽になるのは分かっていた。もっとも、その前に出かけなければいけないこともよく分かっているのだが。
「起きろ」
「あと五分」
「ガキみたいなこと言ってんなよ。おい、てめえが耀司んとこ行くって」
「正確には違う」
「はあ?」
 毛布越しに聞こえる哲の声はくぐもっている。多分煙草を銜えたのだろう。そう思う間もなくライターの音がして、煙の匂いが漂ってきた。
「耀司のとこじゃなくて、尾山さんとこだ。利香の誕生会」
 煙を吐き出す音の後、一オクターブ高くなった声が訊ねた。
「誕生会だぁ?」
「そうだ」
 明日は利香の誕生日である。それで、前日の今日、お誕生会とかいうのをやるらしい。
 勿論、本番は明日だ。学校の友達を呼ぶとかで、さすがにそこに秋野と哲は参加できない。ついでに言えば、エリも同じだ。子供たちは泣き出すか、親を呼ぶと騒ぐだろう。今時の過保護な親なら、怪しげなお兄さん——秋野自身は三十代だからおじさんか——、更に女装の男と子供たちを一緒の部屋に入れたと騒ぐことも十分あり得る。そんな事態は誰にとっても歓迎できない。
 それで今日のうちに、いたいけな子供と過ごすのは望ましくないお兄さんたちと、戸籍上お兄さんだが見た目はお姉さんというか何というか、とにかくそれらを集めて誕生会と言う名の夕食会を催すと聞いた。家族の他は秋野と哲、それにエリ。利香が呼びたいと言った面々だ。
 いくら可愛い利香のためとはいえ、誕生会なんて勘弁してくれと思ったが、尾山に要はうちで飲むだけだから頼むと言われて仕方なく頷いたというわけである。
「俺もか」
「そうだ」
「耀司の実家で?」
「そうだ」
「行かねえぞ」
「そう言うな。利香がお前を呼ぶって言ってるんだ。行かなきゃ泣かせることになる」
「……」
 哲は老人と子供に弱い。好きだ、というわけではない。しかし弱いのは間違いないから、このふたつのうちどちらかを持ち出せば抵抗は大体収まると思っていい。今回も例外ではなく、沈黙は不満げに重たいが、反論はない。
「起こして」
 毛布の下から手を伸ばすと、何が起こしてだ、とか何とか不機嫌極まりない声で言っている。
「じゃあ一人で行け」
 途端に手首を掴まれ、秋野はベッドから転げ落ちそうなくらい思いっ切り引っ張り起こされた。
「人の腹に足をかけるな、足を。俺は畑の大根か何かか」
「重てえんだよ、てめえは」
銜え煙草で眉間に深い皺を寄せ、錠前屋はドスのきいた声で吐き捨て、そうして秋野の顔を眺めてにやにやした。
「……何だそのご機嫌な顔は」
「いやあ、ほんとにヨレヨレだなと思ってよ」
「うるさいよ」
 髪をかき上げながら睨みつけると、哲は更ににやついた。
「はいはい、黙りますよ。灰皿取ってくんねえか」
 ベッドサイドにあった灰皿を放り投げる。少し強めに投げつけたそれを軽く受け止めて、哲は煙草を銜えた口の端を吊り上げて笑った。

 残念ながら、哲の上機嫌もそう長くは続かなかった。シャワーを浴びた後、暴れるのを押さえつけて手早く、しかし激しく抱いてやったせいもあるだろうが、それはさておき。
 最中も散々喚き散らし、今もおっかない顔でこれから出かけるっつーのにこのケダモノ野郎とか文句を垂れながら身づくろいしていた哲は、改めて耀司の実家を訪問するという事実に思いを馳せたらしく、はたと動かしていた手を止めた。
「……今気づいたんだけどよ」
「うん?」
「耀司の実家っつーことは、当然耀司の親御さんがいるわけだよな?」
「ああ、いるだろうな」
「エリと真菜と利香だけじゃなくて」
「ああ、そうだろうな」
「……」
「利香が泣くぞ」
「すぐそれ持ち出すのやめろ、このろくでなしが」
「今更何言ってる」
「っていうか、誤魔化すんじゃねえ。今はてめえがろくでもないことはどうでもいいし、いや、よくはねえけど言ったところで改善するわけもねえだろうし」
「鋭意努力はするぞ」
「無駄な努力は要らねえ。そうじゃなくて、なんかその、家族の集まりみたいなのに俺が行くのおかしくねえか」
「利香がお前を呼ぶって言うんだからおかしくないだろう」
「でもよ」
 乱れた前髪に手を伸ばしたら、触んな、と低い声で威嚇され、唸られる。それでも指を伸ばして縺れたそれを直してやったら噛みつかれた。
「お前は嬉しくないかもしれんが、付き合ってやってくれ。尾山さんのところも親戚が少ないし、利香の血縁は誰も身近にいないんだから」
「……まあ、利香のためなら仕方ねえけどよ」
 秋野の手を払いのけつつ哲は呟き、溜息を吐いた。
「助かるよ。ああ、そうだ哲、お前あんまり上を向くなよ」
「ああ?」
 チンピラくさく語尾を跳ね上げ、眉間に深い皺を刻んで哲は秋野に横目をくれた。
「その言い方は止めろよ、品がないな。こう、顎が上がるとな、見えるから」
 秋野が自分の顎下を指差すと、哲の目が険呑に眇められた。
「……ああ?」
 どうでもいいが、言い方はまったく改善されていない。
「真っ直ぐになってりゃ見えんが」
「……まさかとは思うけど、てめえ、なんか痕……」
「ヨレヨレなもんで、配慮ってもんができなくてなあ」
 秋野の腹に向かって物凄い勢いで哲の足が飛んで来る。寸前でかわしたら、哲が怒った動物みたいに歯を剥いて唸った。
「そんな顔したってかわいいだけだよ、馬鹿だね」
 秋野は束の間疲れを忘れ、思わず声を上げて笑った。