仕入屋錠前屋70 天の岩戸 2

「やだちょっとなあにここ!」
 弁当を受け取りにきたエリは紅葉の保護色みたいな真っ赤なワンピースに筋肉質の身体を包んで現れた。足元は銀杏みたいな黄色いハイヒール。毎度思うが、あのサイズのピンヒールが商品として流通していることが秋野にとっては驚きだ。
 まだ昼前だというのに隙がない化粧、じゃらじゃらアクセサリーをつけて、どういう紅葉狩りなのかよく分からない。
「洒落てるのか殺風景なのかさっぱり分かんないわ! なんてコメントすべきかしらね!」
「別にどっちでもいいが」
「だけど、独りで住むわけ? いくらなんでも広すぎるでしょうよ! それとも何、ついに二人は一緒に住んだりしちゃうわけなの!?」
「俺はそれでもいいけどな」
 秋野がにやにやしながら言うと、哲はものすごく嫌そうな顔をした。
「んなわけあるか、弁当食わせねえぞ」
 銜え煙草で凄む哲に「やだやだ、冗談よう」と猫撫で声で言って、エリは料理が詰まって重たくなった重箱を軽々抱えて出て行った。
「やかましいな、あいつは」
 重たいドアを閉め施錠する秋野の横に立ち、年寄り臭く言って、哲は手に持っていた灰皿に灰を落とした。
「まったく、朝っぱらから働いちまったぜ」
 放っておけば業者にやらせると言ったが、洗い物もすべて自分で終え、哲はようやくキッチンスペースから出てきたところだった。
「バイトは?」
「今日は遅出……あ」
 秋野に灰皿を押し付け、哲は煙草を銜えたままジーンズのポケットから引っ張り出したスマホの画面を確認した。
「行くわ。猪田に弁当渡さねえと」
「ああ、それで別のを作ってたのか」
 携帯をポケットに戻した哲は頷き、秋野から渡された灰皿に煙草を押し付けた。
「なんか彼女と行楽に行くんだってよ。ああ、一人用のはお前んだから、昼飯に食え」
「俺?」
「場所代だ。レンタル料は後で——」
 哲は秋野の顔を見て怪訝そうな表情になった。
「何だよ、そのツラ? 余りもんだぞ」
「いや、それは分かってるけどな……弁当なんて作ってもらったことがないから」
 秋野も別に、哲が自分のために作ってくれたなんて誤解はしない。だが、出来あいの弁当以外を食ったことがないのは事実だった。哲は眉を寄せて首を傾げる。
「はあ? だってお前、女と住んでた時に飯くらい作ってもらってただろ」
「飯はな。けど」
「弁当はねえってか?」
「ああ」
「ふうん……」
 哲はちょっと考えるような目をして、そうか、と頷いた。
「確かに、学校行ってねえなら遠足もねえもんなあ。弁当持って通うとこで働いてたってことでもねえなら、そんな機会もねえか。俺もガキの頃の遠足くらいかもな、持たされたって言えば」
「中高は?」
「中学は給食。高校ん時は親父と、その後はじいちゃんと二人だぜ? むしろ俺が親父とじいちゃんに作ってたっつーの。いつもじゃねえけどな」
 グレた高校生の哲がせっせと弁当を作っている絵というのにはちょっと心を動かされた。
「かわいいな、お前」
「うるせえ、くたばりやがれ」
 剣呑な目つきで秋野を睨みながら吐き捨て、哲は灰皿を持ったまま秋野に背を向けた。
 そんなつもりはなかったが、ほとんど無意識に手を伸ばした。哲の肘を掴んで乱暴に引き寄せる。哲がよろけ、哲を抱えた秋野の左半身が閉めたばかりのドアに当たったが、頑丈で重たいドアは大して揺れもしなかった。
 哲は悪態を吐きながら後ろに足を蹴り上げたが、残念ながら距離が近すぎて大した威力は出なかった。哲が着ている裏毛素材のカットソーの襟元はカットオフになっていて、糸がほつれた加工と首筋のラインがなぜか扇情的だった。女の後れ毛にそそられるような感覚だろうか。襟元と肌の境目を唇で辿り、舐め回しながらきつく吸い上げた。
 不機嫌な動物のように唸り声を上げた哲が身体を捩る。右手で顔の骨ごと掴み唇を落としていた場所にかぶりついたら、哲の身体がびくりと跳ねた。
「退け!」
 灰皿でぐいぐいと脇腹を押されたが、構わず続ける。
「退けっつってんだろてめえ!」
 喚く哲の首から耳の後ろまでを舐め上げ、耳介に齧りつく。頬骨から左のこめかみへ骨の形を確かめるように指先を滑らせ、髪を鷲掴み、無理矢理振り仰がせて唇に噛みついた。何せ相手は錠前屋だ。ちょっとやそっと手荒に扱ったところで歯牙にもかけない。叩きつけるようにドアに押し付け無理矢理突っ込んだ舌を絡ませる。
 弁当を作ってもらって感激したとか、そういうことではない。
 錠前を前にするような顔をして食材をバラし、組み立てている顔を想像したら、そういう哲もすべて欲しくなったというだけだ。
「おいコラ首が痛えじゃねえか!!」
「うるさいよ、少し黙れ」
 唇に触れたまま呟き、文句を返しかけたそれに食らいつく。哲が取り落とした灰皿が、床に当たって硬い音を立てた。

 

 猪田がメッセージを送って十五分後、哲は簡素な紙袋をぶらさげて現れた。
「哲!」
「よう。待たせたか?」
「いや、全然」
 ライトグレーのカットソーにスリムなデニムを穿いた哲は普段通りだったが、どこか違っている気もした。それが何か分からなくて、猪田はまじまじと友人の顔を眺めた。
「……何見てんだ、ぁあ?」
 眉を寄せた哲は、わざとらしく品がない物言いをする。
「そういうチンピラ口調やめろよな。いやぁ、何かなあ」
「何だよ」
「うん……や、別に何でもねえ。それ弁当?」
 紙袋を指すと、哲は頷いて袋を差し出した。
「言っとくけど、頼まれて作ったやつの余りだからな。あんまり期待すんなよ」
「哲の手料理なんか初めてだよなあ。ありがたく頂きます!」
 拝みながら受け取ると、哲はちょっと笑った。
「大袈裟だな、どいつもこいつも」
「えぇ? 頼んだ人も?」
「ああ、いや、そうじゃなくて……」
 どうやら失言したらしく、僅かに言い淀んだ哲は、結局諦めたらしく語を継いだ。
「俺んとこじゃさすがに台所狭くて色々作れねえから、ちょっと場所借りて——余ったやつ置いてきたら妙に驚いたからよ」
 誰が、とはっきり言わないから、逆に秋野という人のことだと知れた。哲は凡そ曖昧とか遠回しとかいうことと縁がないが、猪田が色々知ってからは彼について話したがらない。本当は話したくなかったという哲の気持ちを聞いてからはある程度は自粛しているが、それでも猪田がいちいち突っ込んでくるのに答えるのが面倒なのだろう。
 普段だったらやっぱり何かしら訊ねたかもしれないが、弁当を頂いたことだし、今日は勘弁してやろうと思って「そうか」とだけ言っておく。哲は猪田の考えていることなんか丸分かりだという表情を浮かべた。
「彼女は?」
「もうちょっとしたら来るよ」
「ふうん。そんじゃあな」
「うん、ほんとにありがと……」
 踵を返しかけた哲の襟ぐり——僧帽筋のあたり——が目に入って、猪田は思わず哲を呼び止めた。
「あー……っと、哲?」
「ああ?」
 振り返った哲の肩口を指さす。
「肩んとこ、見えてる」
「何が。Tシャツか?」
「あ、いや、そうじゃなくて多分……来る前、だ——何かにキ、いやその、噛まれた?」
 微かに残る歯型と、濃い鬱血。生々しいその痕は、数日前についたようなものではない。そう思ってよくよく見れば、哲の髪は乱れ気味だ。
 哲は猪田の顔を見て、自分の肩口を見下ろし——勿論見たって見えないところにそれはあるが——また猪田の顔を見た。
「いや、何ての? ええとそれはアレだ、誰かっつーか何かの意志だからお前がどうこうじゃないけど!」
「何が言いてえんだお前は?」
「哲、嫌なら絶対つけさせないよな? そんな痕」
 哲はぽかんと口を開けて放心したような顔を見せた。
「はあ? いや、別にそんなんじゃねえよ。あのクソ馬鹿の噛み癖は今に始まったことじゃねえし、動物に噛まれんのと変わんねえし」
 誰につけられた痕なのかあっさり——いや、多分うっかり——白状した哲は顔を顰める。
 確かに、噛み痕については哲の言うとおりなのかも知れない。
「……でも、今俺が言ってんのは歯型の話じゃなくてな?」
「ああ?」
「それはキスマークってやつでしょうよ。明らかに、誰も触んな俺のだから、って書いてあります。ご馳走様」
 一瞬うろたえたように視線を泳がせた哲はすぐに能面のような無表情になり、そのツラで猪田を暫く凝視した後突然険しい顔に変わって「……野郎、ブチ殺す」と低い声で吼え、大股で歩み去った。
 猪田は思わず一人でにやにやした後、紙袋をぶら下げたまま暫しその場に突っ立って、ぼんやり考えた。今のおっかない顔は別として、普段と変わらないはずの哲に感じたいつもと少しだけ違う何かがどういうものか、何となく分かった気がした。言葉にしろと言われても無理だが、何となく。
「お待たせー」
 後ろから腕に触れられて、振り返ると彼女が立っていた。付き合い始めてそろそろ半年、彼女とはこのままうまく行きそうな気がしている。
「どうしたの、ぼーっとして。あ、それお友達が作ってくれたっていうお弁当? もしかしてすれ違い? お礼言いたかったなあ」
「今度紹介する」
 にっこり笑った彼女が猪田の顔を見上げて首を傾げた。
「何笑ってるの?」
「ああ、いや、そいつがさ、なんか人並みに照れてたの初めて見た気がしたんだけど……あーでも、やっぱ違うかも。よく分かんねえや」
 天の岩戸、という言葉が脈絡もなく頭に浮かんだ。哲は誰かに騙され扉を開けるような奴じゃない。入りたければ入って出てきたければ出てくるタイプだ。神話と哲に何の関連性もないけれど、連想したのは扉が少しだけ開いた、と感じたからだ。頑丈な重たい扉に僅かな隙間が開いたのは、誰かが体当たりしたせいか、それとも哲自らが開いたのか。
 どっちにしても、あんなあからさまに所有権を主張するような印、哲ともあろう人が、本気で嫌なら甘んじてつけさせるわけがない。
「今度、九州行こうか」
「どうしたの急に?」
「天の岩戸って見てみたくねえ?」
「あっ、行きたい! 宮崎だっけ? そしたら他にも……」
 弁当を左手に持ち替えて彼女と手を繋ぐ。華奢な手の、滑らかであたたかい肌の感触に猪田はだらしなく頬を緩めた。
 少なくとも、俺の扉は今、開けっ放しだなあ、と思いながら。