仕入屋錠前屋70 天の岩戸 1

「なあ、台所貸してくんねえ?」
 朝っぱらから電話が鳴って起こされた。
「……今からか」
 時計を見ながら訊いた声はしわがれていて不機嫌で、我ながら明らかに寝起きの声だった。哲は秋野の安眠を邪魔できたせいか機嫌がいい。
「いや、八時か九時か、そのくらいでいい」
 だったらもっと後でかけてくればいいのに、まったく、どうしようもない。
「いいけど、何もないぞ」
 ベッドに寝転がったまま答えたせいか、電話の向こうの哲が聞こえねえよ、と言っている。
「だから、何もないって」
「ああ? 食材か? それはこっちで……」
「いや、そうじゃなくて、調理器具が」
「あー、そうか、そうよな」
 秋野の現在の住まいは店舗用に改造していた元工場だ。飲食店に改装中だったから、キッチンはそれなりに広く、設備も整っている。だが、開店前に頓挫したせいで家具すらないのに、調理器具があるはずもなかった。
「じゃあいいわ」
「待てよ」
 さっさと電話を切ろうとする哲を制止し、秋野は不承不承起き上がって前髪をかき上げた。
「用意しとくから来い」
「わざわざ買うならいらねえぞ。今日しか使わねえんだから」
「買わないよ。借りとく」
「あ、そう。じゃあ後で請求してくれ」
 それだけ言って通話は切れた。

 哲が来訪を知らせるのにドアを蹴飛ばすのはいつものことだが、今回は正当な理由があったらしい。一階の重たいドアを引き開けたら、両手ででかい段ボール箱を抱えた哲が立っていた。というか、抱えた荷物で顔は見えないが、哲だと思われる人物が立っていた。
「何だ、一体」
「何ってお前、食材だ食材」
 哲——声で明らかになった——は秋野の脇を通り過ぎ、まっすぐキッチンスペースに向かっていく。数度しか来ていない上前が見えないのに、躊躇う素振りもない。まったく動物みたいなやつだと自分のことを棚上げして呆れつつ、秋野は普段使いするには重たすぎるドアを閉めた。
「ケータリングでも始めたのか」
 入り口から覗くと、哲が振り返った。朝から声は聞いていたが、顔を合わせるのは初になると思うと何となくおかしい。いつもと変わらず愛想もクソもない顔を振り向け、哲は眉間に皺を寄せた。
「それがお前、何だと思うよ。弁当作りだぜ、弁当」
「弁当?」
 箱から野菜やら肉やらを取り出しつつ、哲は言った。
「火曜に仕事でアイーダに寄ったんだよ」
 アイーダはエリの勤めるゲイバーだ。大がかりなショーができるほど大きくもないが、そこそこの広さがあって、ホステスの数もそれなりに多い。
「あそこのママから解錠の仕事紹介されたんで、終わった後報告にな」
 哲は手に持った椎茸のパックに目をやった。
「そしたら何かエリに捕まって、土曜に紅葉狩りに行くのに弁当作れとか言われてよ。んなもんコンビニでもデパートでも行って好きなもん買えっつったんだけど、あいつら数人で俺を取り囲みやがって、みづきは嘘泣きしやがるし」
 例え女装のオカマでも、本人が女だと言い張れば女扱いする錠前屋は眉を寄せて溜息を吐いた。
「嘘泣きでも女に泣かれたら強く言えねえだろ。いや、厳密には女じゃねえけど、みづきは女にしか見えねえしどっちにしても」
「勝の作戦勝ちか」
「そういうこと。つーわけで、ナリは女でも胃袋は男の奴らが要求する三段じゃ済まねえ弁当作りに俺の部屋の台所は狭すぎんだよ」
「ボランティアじゃないんだろ?」
「おお、払うっつってんだから適当に金は取るぜ。お代を頂くからには真面目にやるから邪魔すんなよ」
 並べた食材を眺めながら腕捲りした哲は、その前に一服、と言って煙草を取り出した。

 哲と知り合って随分経つが、哲が実際に調理するのを見たのは、ほんの数回しかない。
 利香にカレーライスを作ったときと真菜が手首を捻挫したとき。あとは一度か二度、簡単なものを食わせてもらったときだけだ。
 居酒屋の厨房で包丁を握っているのだから、居酒屋メニューが作れるのは当然のことだ。ただ、弁当となると大皿料理とは勝手が違うだろう。そう思ったが、余計な心配だったらしい。紙が素材のようだが、高級感のある箱に収められた料理は、意外なほど美しかった。
天ぷらや、味噌をつけて焼いた鶏肉、茹でた海老ときゅうりを竹の楊枝に刺したもの。だし巻き玉子、人参のきんぴらにほうれん草の白和えなどはまあ当たり前にしても、薄い色に仕上げられた煮しめや柿の葉で包まれた寿司などは、玄人はだしの出来だ。よくこれだけの種類を作れると思うほど色々なものが入っている。今は全部の段が広げられているが、重ねて風呂敷で包むらしい。
 暴力沙汰と錠前にしか興味のない男にどうしてこういうことができるのか、と本気で不思議に思い、秋野は暫し言葉を失った。
「何だよ?」
 見物に来たと思ったら突っ立ったまま何も言わない秋野を眺め、哲は眉を引き上げた。松葉に刺した銀杏の実に、真っ赤に紅葉した紅葉。哲の生活からも言動からもかけ離れたそれらを、手際よく飾り付けて行く。紅葉なんかどうしたと訊いたら、わざわざ近くの公園まで出向いて採ってきたのだとか。丁寧に巻かれただし巻き玉子の薄い黄色の上に、目に染みるような赤い葉が添えられた。
「……これだけできて、お前、何で料理に興味ないんだ?」
「ああ? いや、なんつーか、料理には興味ねえけど、作る過程は嫌いじゃねえよ。解体したり組み立てたりする感じは、解錠と似てなくもねえし」
 哲は肩を竦めて紅葉の位置を直した。
「どんだけ煮たらどう硬さが変わるとか、塩が少し入ると色がどうなるとか、そういうのは面白れえな」
 常々食うもんは腹に入りゃ何でもいいと宣う哲らしく、味付けに関する言及はない。とは言え、秋野が口にした限り——回数は少ないが——哲が作る料理は不思議なことに美味かった。
「まあ、こんなもんだな」
 飾り終わった弁当箱の蓋を閉めて重ねた哲が、余っていた紅葉を手に取って何かやっている。近づいてみると、重箱の陰に隠れていたが、あとふたつ弁当箱があった。竹の皮でできていて、普通の幕の内弁当サイズと、それよりは大きい、二、三人向けのもの。重箱のものとほぼ同じ内容だが、容れ物が小さいせいか、詰められた料理の種類は若干少ない。だが、そのせいなのか、小さめの紅葉で飾られた弁当は重箱に詰められた豪華なそれと違って、小さな箱庭のように美しかった。
「きれいだな」
 呟いた秋野を一瞥し、哲はそれぞれの弁当箱の蓋を閉めた。