仕入屋錠前屋69 守るために向き合っている 8

「残業?」
 部屋のドアの前に誰かが立っていた。アパートの外廊下は薄暗いから顔立ちは見えなくて、シルエットでも咄嗟に誰だか分からなかった。声を聞いてようやく仙田だと気付き、自分の中ではやっぱり上書きが済んでいないと思いながら、葛木は仙田に歩み寄った。
「いや、仕事の後寄るとこあって——」
 二週間ぶりに見るが、突然見慣れた姿に戻っているわけもなく、仙田は葛木のよく知らない男のままだった。髪は当然伸びていないし、耳にも唇にもピアスはない。ショートブーツにミリタリーっぽいデザインのシャツブルゾンとジーンズ。なんだか以前の自分と格好が逆転してしまったような感じがする。
「その後飯食ってきたから。電話でも寄越せば戻ってきたのに」
「今来たとこだから」
「ふうん。退けよ、邪魔」
 葛木は仙田を押し退けるようにしてドアに鍵を突っ込んだ。
「ずっと実家にいたのか?」
「いや、一日だけ。あとは近くの友達んとこに」
 後に続いてドアを潜ったくせに三和土に突っ立っている仙田を振り返る。
「何だよ、上がれば? それともどっか行くか?」
「……いや」
 仙田は少し迷う素振りを見せたが、結局ブーツを脱いで部屋に上がった。葛木の部屋も仙田の部屋と大差ないワンルームの間取りだが、仙田ほど常に綺麗に片付けているわけでもない。畳んだまま積み上げていた洗濯物の山を足で押しやって、こちらも折り畳んだまま避けてあったローテーブルを引っ張り出す。
「また床に置いて飯食ってたのか」
 呆れたように仙田が呟いたが聞こえないふりをする。どうせここで食うものなんてコンビニ弁当くらいだ。いちいちテーブルを出すこと自体が面倒くさい。仙田は親の躾かそういうことを気にするタイプでうるさく言うが、仙田がここに訪れなかった二週間、葛木のテーブルは常に床だった。
 冷蔵庫を開けてビールを取り出し、仙田が床から取り上げた灰皿の横に置いた。
「どうだった、実家」
「どうも何も」
 仙田は煙草を銜え、手の中のライターを暫し弄びながら無言だった。ようやく火を点け、煙を吐く。
「何回か顔出して、あとは携帯の番号教えて、そんだけ。今更話し込むこともねえし」
 仙田の向かいに腰を下ろしてビールに手を伸ばし、缶を開ける。仙田の表情は特別暗くもなく、さりとて何かを吹っ切りましたと清々しいわけでもない。もっとも、そう簡単に折り合いをつけられることでもないだろうから、そんな顔をしていたら寧ろ嘘くさいだろうが。何しろ色々隠しおおせるのがうまい男で、葛木がいくら頑張ったところで読めるものでもない。
「そっか。まあ、よかったんじゃねえの。今日行ってきた。お前の絵見に」
 あっさり話題を変えると、突っ込まれると思っていたのか仙田はちょっと驚いた顔をし、それを誤魔化すように煙を吐いた。
「ふうん」
「錠前屋が来てた」
「は? 何で?」
「マツさんの知り合いの高校生と一緒に。浩太くん」
「ああ……」
「全然興味なさそうだったけどな。あ、別にお前のだけじゃなくて、展示物全部に。いかにも連れてこられました、早く帰りてえ、みたいな顔してた」
「目に浮かぶな」
「なあ、あの刺青の絵さあ」
 笑みを浮かべかけていた仙田の顔から表情が消える。葛木はビールを置いて仙田の首筋に目をやった。長袖のシャツブルゾンのせいで腕の刺青は見えないが、首筋のそれは襟からはみ出る分だけ見えている。
「何であんな、透明人間に刺青したみたいな絵になったんだよ?」
「……透明人間って久々に聞いた」
「うるせえなあ!」
 テーブルに乗り出し、手を伸ばして左肩をどつくと、仙田がまた微かに頬を緩めた。
 何で笑わないのかな、と思う。
 葛木の知っている仙田はいつも馬鹿みたいにへらへら笑っていた。葛木には判じようもないが、もし笑顔の大半が演技だったとしても、全部が嘘だったわけではないはずだ。ごく当たり前に笑うことまで、脱ぎ捨てた偽物と一緒に捨ててしまうことはないではないか。
 もう一度笑わせたくて再度肩を突こうと手を伸ばす。仙田が避け、葛木の腕が掠って、缶が倒れた。
「あ、悪ぃ」
 仙田の袖がビールで濡れた。大丈夫、と言いながら銜え煙草の仙田が缶を戻す。葛木は立ち上がり、これまた床に放置してある箱ティッシュを取って仙田の横に胡坐を掻いた。
「ちょい貸せ」
 おとなしく脱いで寄越したブルゾンの袖をティッシュで叩き、水分を拭き取って仙田に渡す。受け取った仙田は半袖で、そこだけはすっかり見慣れた腕を覆う刺青が目に入った。
「……なあ、仙田?」
「ん?」
「この間さ、俺、お前にすげえ偉そうなこと言ったかも」
「かも?」
 片眉を上げて見せた仙田の口元は笑っていた。大きな笑みではないにせよ、気づかないほど微かでもない。
「偉そうっていうか、なんかよく分かんねえけど……なんか弱ったお前に石でも投げるみたいなこと。そんなつもりじゃなかったけど、俺は」
 葛木は、仙田の剥き出しの腕に目を向けた。
「……スミがねえと嫌だなんて」
 錠前屋には言わなかったが、あそこに行くのは初めてではなかった。主催者が後輩なのに甘えて——勿論、初回の分の金は払ったし、後輩が固辞しなければその後も払うつもりだったが——何度か足を運んでいた。
 初めて刺青の絵を見たとき、吐くかと思った。
 体温を感じさせない、存在感の希薄な肌を這う刺青。実際目にしたから分かる。刺青は細部まで再現されていた。間近で見ると絡み合う細密な柄は、濃淡が微妙すぎて遠目には一色に見える。だが、絵の中ではコントラストが強調されていて、すべてが露わになっていた。
 お前の一部なんだから背負って生きろ、なんて、他人のくせによく言えた。
 それがないお前なんか嫌だ、なんて。
 結局自分は自分が知っている仙田を守りたかっただけなのかと思ったら吐き気がした。友達思いみたいな顔をして、心配してやってるんだ、なんて顔をして。
「ごめん」
 今更だと思いながら呟いて、仙田の顔に目を向けた。仙田は煙草を灰皿で押し潰し、立ち上がった。腹を立てて帰るのかと思ったら、仙田はなぜか葛木の背後に回った。すぐ後ろに気配があって、座ったのかなと思ったら、仙田の腕が葛木の目の前に現れた。
「照れくさいから後ろから失礼しますよ」
「え?」
「……俺は、嬉しかった。馬鹿みたいだけど」
 後ろから抱きすくめられ、仙田の頭が葛木の肩に載る。微かに柑橘系のシャンプーか何かの香りがする。友達のところに泊っていたと言っていたが、女のところだったのかもしれない。妙に甘いその香りになんとなく和みながらそんなことを思った。
 顎の下にある仙田の前腕。間近に見える刺青の微妙な青。深い意味もなくそこに頬を寄せてみた。刺青を入れると血行が悪くなるというが、冷たくも熱くもない、ごく普通の人肌の温度だった。
 あいつにはもう会えないんだなあ、と今更ながら実感して、気がついたら知らないうちに涙が出ていた。
 今時流行らないビジュアル系かパンクロッカーみたいな格好で、宇宙人みたいに訳のわからないことを喋りまくって、いつもへらへら笑っていた。会った時から葛木を怒らせてばかりだった馬鹿な奴。唇のピアスを引っ張って千切ってやると息巻いたことが一体何度あっただろうか。その裏にある本当の仙田を垣間見てしまった後も、なかったことにしたくて、失いたくなくて、ずっと見ないふりをし続けた。まるで、悲しみや辛さを誤魔化すために、息子にひどい言葉を突きつけた父親のように。
「……俺じゃ駄目か」
 葛木の首筋で、仙田が呟く。
 気が付いたら向きを変えられ、仙田と向き合って座っていた。
「駄目も何も……」
 洟を啜りながら言う。
「あいつもお前もお前じゃん」
「……じゃあ何で泣いてんの」
「泣いてねえし!」
 はは、と声を上げて仙田が笑った。葛木が知っている仙田と同じ顔で。もしかしたら全然違う顔で。
 濡れた頬を両手で包まれ、気がついたらキスされていた。優しく、甘ったるく。最後に何度か啄み、掌で涙を拭って離れて行く。
「……お……っ前、コラ!! 人が真面目になあ! まったく、ふざけてんじゃねえぞ!」
 喚きながら蹴っ飛ばしたら仙田は両手を床について身体を支え、げらげら笑った。
「だって葛木、女子みたいに泣いてるから慰めねえと、と思って」
「うるせえ!! 三十過ぎた男捕まえて誰が女子だ!」
「おかげで止まったろ」
「まったく、変わっても変わってねえよ、お前は!」
 手元に落ちていた上着を掴んで仙田にぶつける。仙田は笑いながら布地ごと葛木の手を掴んで引っ張った。勢いで倒れ込んだ葛木ごとひっくり返り、葛木を上に乗せたまま発作を起こしたみたいに笑った。
「いい加減離せ!!」
 腕を振り払おうと葛木がもがくと仙田は急に笑うのを止め、葛木に腕を回したまま小さく呟いた。
「葛木」
「何だよっ」
「もうちょっとだけ」
「はあ!?」
「……お別れさせて、ね?」
 そのときだけ現れた「仙田」が、葛木の髪に鼻先を埋め、声を震わせた。
「……仙田」
 大きな手が葛木の髪を梳く。

「——大好きだよ」
 囁いた声が、どちらの仙田の発したものなのか、葛木には分からなかった。
 顔は見えないまま向き合って、抱き合ったまま。
 仙田の中にあるほんの小さな何かでも、守ることができただろうかと思いながら、葛木はそっと目を閉じた。