仕入屋錠前屋69 守るために向き合っている 7

 日中は結構強い雨が降っていて、こんな日に出かけるのは面倒くさいなと思っていたら、夕方になってきれいに上がった。浩太から予定どおり行きたいけど問題ないかと連絡がきて、改めて落ち合う場所と時間を決める。一体何を着ていきゃいいのかと一瞬迷ったが、別になんでもいいだろうと普段通りデニムにTシャツ、上に羽織ったシャツだけは一応無地にして家を出た。
「あっ佐崎さん! 俺禁煙中だから!」
 顔を見るなりそう言って、浩太は哲の銜えた煙草に指を突きつけた。
「俺の前で吸うの禁止!」
「俺は大人なんだから吸いたいときに吸うんだよ」
 そうは言ったもののうるさくされても面倒だから、まだ長い煙草を携帯灰皿に突っ込んで煙を吐いた。
 初めて会ったときは赤っぽくしていた浩太の髪の色は、今はごく普通の茶髪になっている。新しく赴任してきた担任教師が茶髪は許容範囲だが赤はいかんと言ったとか。ピアスは相変わらずじゃらじゃらとついていて、ちょっと前の服部みたいだなと思ったらどうしても憎めない。
 浩太の喋りまくる内容を半分聞き流しながら——高校生なんて相手が聞いていようがいまいが関係なく喋るのだから——歩いていたら会場に着いていた。
 洒落た雑居ビルは一階がセレクトショップ、店の入り口横にあるドアから中に入って階段を上がり、三階がギャラリーだかなんだかになっていて、入り口に花が飾られたテーブルがあった。芳名帳らしきものもあって、浩太はいそいそと書き込んでいたが、哲は勿論何も書かずに通り過ぎた。受付はなく、入り口に立つ若い男が一応、という感じでチケットを捥っていた。通りすがりの人間が入ってくる場所でもなし、飛び込みの客などいないのだろう。
 待っててやるから好きなだけ時間をかけて見てこいと浩太を送り出し、哲もぶらぶらと会場を歩いた。ワンフロアすべてを使っているからか、思ったよりかなり広い。
「……あれ?」
 見覚えのある後ろ姿が白黒で撮影された海外の風景写真の前に立っている。
「よう」
 後ろから声をかけるとちょっと驚いた顔をして振り返ったのは、葛木だった。
「あ、どうも。絵とか興味あんの?」
 意外そうな声を出されて思わず笑う。誰が見ても興味がなさそうに見えるらしい。それはそうだ。
「ねえよ。あんたの勤め先の、あのおっさん、なんだっけ」
「マツさん?」
「そう。その知り合いの高校生にチケット渡したろ?」
「ああ、浩太くんか」
「親と来んの嫌だから付き合えって呼び出されたんだよ。あんたこそ、好きなのか。こういうの」
「いや、俺もよく分かんないけど」
 最初に見たときから随分印象が変わったな、と思いながら、哲は写真を見つめる葛木の横顔を眺めた。突っ立たせていた茶髪や、ダメージデニムにフライトジャケットという格好のせいもあったのか、あの頃は、そのへんにいるちょっと悪いお兄ちゃんという感じだった。今は緩くウェーブする長めの髪が雰囲気を柔らかく見せている。服装も随分違って、七分袖でオーバーサイズの紺色のプルオーバーと、テーパードシルエットのチノ素材のスラックスときれい目だ。仙田が選んでやっているのかもしれない。
「あのさあ」
 葛木が突然哲のほうを向いた。
「ああ?」
「仙田の絵、見た?」
「仙田だぁ?」
「まだ見てないなら、奥にあるから行かねえ?」
 仙田が偽造屋だということは知っているが、それ以外のことはほぼ知らない。他には、この間偶然知ったが、ものすごくいい女の姉がいるということくらいか。数日居候させていたことはあったが、プライベートなことなど興味もないから訊きもしないし、絵を描くなんていうのも初耳だった。まあ、偽造屋なんかやっているくらいだから、絵心があったところで不思議でもないのだろうが。
 どっちにしても退屈しているのだからと、両脇の壁にかかる絵や写真やそれを眺める客のことを見るともなく眺めながら葛木の後を進む。葛木が立ち止まったから哲も立ち止まり、壁の一角にかかる水彩画と思しき絵に目を向けた。
 なるほど確かに、「仙田次暢」と名前が掲示してある。他の出展者のパネルには顔写真や略歴も印刷されていたが、仙田のものは名前だけだ。
 飾ってある絵は四枚。老人の後ろ姿、花が生けられたテーブルと僅かに開いたドアだけの何もない部屋、傾いたアパートらしき建物。そして最後の一枚は、刺青の入った男の身体だった。首から下腹までが描かれているが、刺青のくすんだ青紫に比べて肌の色はほとんど透明で、人間の身体らしさは希薄だった。無言で絵に目をやる哲を一瞥して、葛木は小さく溜息を吐いた。
「あいつの馬鹿みたいなのは全部上っ面で」
 それだけ言って黙り込んだ葛木の後ろで客が足を止め、仙田の絵をゆっくり眺めてまた次へ移動していく。仙田の顔も知らない客にとっては、刺青の絵も、他の三枚同様に単なる絵画でしかないだろう。例えその絵が胸を打ったとしても。
「本人は? 来てんのか」
 哲が訊くと、葛木は我に返ったように何度か瞬きした。
「ああ、実家戻ってるとかで、二週間くらい見てない」
「前も思ったけど、ちゃんと実家あんだな、あいつ」
 哲が呟くと、葛木は笑って小さく頷いた。
「俺も思った、最初。宇宙人じゃなかったのか! って」
「まあそう思われても仕方ねえよな、あれじゃ」
「ほんと」
「偽物なのか? あれ」
「多分」
 葛木は哲に一瞥を寄越した後、溜息を吐いて絵から一歩離れた。
「まるで別人っていうかさ。見かけもそうだし、言葉遣いとかも。偽造屋だからって人格までニセモノとかあり得ねえよ。あんな違うの、よくずっと被ってられたと思う」
「ふうん」
「まあ、根っこっていうか、結局中身はおんなじなんだろうけど。それにしたって度が過ぎてるし、よくないことだと俺は思うけど」
 知り合ったばかりの頃は仙田の言動にいちいち真っ赤になって怒っていたが、すっかり慣れたのか、最近は——葛木本人がどう思っているかはさておき——仲が良さそうにしていた。仙田のあの言動が偽物だろうが違おうが哲は正直どうでもいいが、友人にとっては気になるところなのだろう。
「まあ、どっちでも本人が楽に生きてけるほうでいいんじゃねえの」
 所詮他人事だ。放り出すように言ったら葛木がちょっと笑った。
「確かに。じゃあ俺、浩太くんに挨拶してそろそろ帰る」
「ああ、じゃあ悪ぃけど外で煙草吸ってくるっつっといてくんねえかな」
 頷く葛木に手を上げ、哲はとりあえず会場の外へ向かった。

 ビルの裏口にあった喫煙所——とは名ばかりの、真っ赤な缶の灰皿が置いてあるだけの小さなスペース——で煙草を吸っていたら着信があった。
「何だよ」
 無視しかけたが、この間仕事の時間の連絡を電話で受けて以来、それこそ二週間顔も見ていないから、無視してもしつこそうだと思って出るだけ出た。
「この間の件だが、問題なかったんだよな?」
 前置きなしに話し始める自分勝手さは今に始まったことではないし、人の事は言えないからそんなところで腹は立たない。
「ああ? ねえよ。時間どおり行って開けて終わった。何かあったら幾ら俺でも連絡すっけど」
「だよな」
「クレームか?」
「いや、そういうんじゃないと思うが」
「はっきりしねえな」
「俺もよく分からんが、その場にいた女が、お前に連絡を取りたいってしつこくてな」
 喉の奥を鳴らすような低い笑いを漏らしながら、秋野は続けた。
「番号、教えておくか?」
「……」
 確かに、指定された場所には女がいたが、二人いた。一人は哲よりいくらか上の割といい女で、もう一人は祖母のそのまた祖母でもおかしくない感じの強烈に派手な女だった。年配のほうは目の覚めるような黄色に染めた髪といい、目蓋全体を塗り潰す空色のアイシャドウといい、漆黒のアイラインといい、なんとかいう有名人に瓜二つだった。
「一応訊くけど、どっちだよ」
「うん?」
「だから、若いほうか、おばさんか」
「さあな。それよりお前今どこだ」
「ああ? 今なんか、高校生の付き添いで絵だか写真だかなんかの展覧会?」
「なんで疑問形なんだ」
 うるせえ、と吐き出しながら最後の煙も吐き出し、吸殻を灰皿に放り込んでビルに戻る。立ち止まって電話を肩に挟み、尻ポケットに突っ込んだチケットの半券を取り出した。
「仙田の絵があったぜ」
「仙田の? ふうん。どんなんだ?」
「分かんねえよ、俺には。未成年待たせてっから切るぞ」
「なあ、哲」
 電話を肩で押さえていたせいで、秋野の低い声が耳の中で妙に響く。哲は眉間に皺を寄せ、電話を手に持って耳から離した。
「切るっつってんだろうが」
「終わったら寄れよ」
 二週間前と同じく返しかけたが、秋野はさっさと通話を切っていた。切れた電話を暫し眺め、ポケットに突っ込み、天を仰いで数秒後。哲はビルの壁を力いっぱい蹴っ飛ばしながら悪態を吐いた。