仕入屋錠前屋69 守るために向き合っている 6

「いつまで突っ立ってんのよ?」
 玄関ドアが突然開き、姉の瑞穂が出てきたから仙田は慌てて一歩下がった。
 今日は身体のラインが一切出ないコクーンシルエットの上質そうなワンピース。黒に近いネイビーカラーのせいか、ワンピースだが甘い感じはまるでない。多分、職場から直接来たのだろうと思ったが、一応訊ねた。
「……何でいるんだよ。仕事は?」
「抜けてきた」
「俺が来るって」
「和泉くんに聞いた」
 仙田は昨日から友人である和泉のところに転がり込んでいた。和泉は大学の同期生で、仙田の身体にスミを入れた張本人だ。美大を卒業後結局彫師になって、今はインディーズバンドで歌っている彼女と同棲中。全国ツアー中だという彼女の留守に——彼女の諒解を得て——泊めてもらっている。
「何で和泉と連絡取ってんだよ、姉ちゃんが?」
「あの大騒ぎの後、うちに来たのよ、謝りに」
 瑞穂はちょっと背後を気にするように振り返り、ドアを閉めて外に出てきた。足元だけが母親のつっかけなのがおかしいが、それでも迫力というか威圧感はちっとも薄れない。義兄はどちらかというとおっとりして夢見がちな男で、どうしてこんなおっかねえのと長年円満な夫婦でいられるのかと毎度不思議に思う。
「お父さんには会わせらんないと思って、私が色々話聞いてね。それ以来たまに連絡取ってんの。あんたと会ったら様子教えてくれたりして。まあ彼の名誉のために言っとくと、元気でしたよ、くらいのもんよ。具体的なことは訊いたって言いやしないわ、まったく」
「……ふうん」
「まあ今回はあんたが来るっていうんだから、隠すことないと思ったんでしょ。責めるんじゃないわよ」
「言われなくたって分かってる、んなこと」
「髪切ったのね」
 瑞穂はちょっと首を傾けて目を眇め、仙田を眺めた。見た目は女らしいのに、姉は時々男みたいな仕草を見せる。
「まあ……あのナリじゃちょっと」
 ピアスは全部取ってきた。というか、髪を切った日に全部捨てた。服も、ヴィンテージ加工されたくすんだ赤のコットンニットに色褪せたジーンズ、上着はグレーのパーカーというラフなもの。昔はいつもこんな格好だった。
「私はこっちのほうが好きだけど、あんたがあの妙ちくりんな格好のほうがよかったんなら変えることなかったのよ」
「妙ちくりんって最近あんまり聞かなくねえ?」
「うるさいわよ」
「まあ……あれはなんつーか、衣裳みたいなもんだったし」
「そう。まあ、どっちにしても見えちゃうしね」
 浅いVネックからは刺青が見えている。タートルネックでも着ようかと一瞬思ったが、今更そんなことをする意味も分からなかったから結局止めた。
 瑞穂はそれ以上何も言わずに玄関のドアを開けて中に入った。仙田も姉に続いて入る。数年ぶりの実家の玄関に、特に変わった様子はない。三和土に並んでいる靴も、飾り棚に飾られた小物も少しずつ違うけれど、それでも何も変わっていないように見えた。
「お父さん、次暢来たよ」
 瑞穂が声をかけながら居間のドアを開ける。一瞬でも考えたら逃げ出しそうだったから何も考えずさっさと入ってソファに腰を下ろしてから顔を上げた。
 一人用のソファ、定位置に座っている父を目にしてものすごく驚いた。
 痩せてしまったと聞いてはいたが、想像以上だ。しかも、仙田は父に瓜二つなのだ。自分が骨と皮だけになったらこうなるのだろうと思ったらそれもまた衝撃だった。
「……どのくらい経ってんだよ?」
 それなりに動揺したのだろう。自分でも何を訊いているのかよく分からなかったが、父は訊き返すこともなく平静な声で答えを寄越した。
「退院して一ヶ月近く経つかな。本当は手術前にお前に連絡しようと思ってたんだが、バタバタしてたし、瑞穂が探してもなかなかつかまらなかったらしいしな」
 謝るべきなのか、どうすべきなのか、分からなかった。
 父の暢隆は子供の頃から遠い存在だった。一目見て父子だと分かるくらい似ている。だが、内面が似ているのか違うのかは分からない。判断できないのではない。知らないのだ。
 財務省に勤務していて、いつも忙しかった。忙しい、なんて言葉では多分表現できないのだと思う。深夜まで帰宅しないことは当たり前で、休日出勤も常態だった。それでもできる範囲で家族と向き合っている人だって大勢いるだろうが、父はそういうタイプではなかったから、仙田にとって父は知らない人と言ってよかった。
 美大に行きたいと訴えたのが、初めての父に対する自己主張だった。結局反対を押し切って自分のしたいようにしておきながら、分かってもらえなかったと拗ねる気持ちがいつの間にか澱のように腹の底に溜まっていって、そうして馬鹿なことをしでかした。
 あの時、息子に死ね、と言った父の気持ちを推し量ることは今もできない。だが、今、死病を得てなんとか踏み止まった父にそれを訊ねることも仙田にはできなかった。
「……ごめん」
「……」
 母の裕子が台所から出てきて、テーブルの上にお茶を置いた。仙田を見て目を細めて少し笑い、何も言わずに離れた。姉と二人でダイニングテーブルに陣取って、とりあえずは介入してこない、という姿勢のようだった。
「で、俺に会いたいって……何だよ?」
「仕事を辞めてな」
「ああ、姉ちゃんに聞いた」
「人生を賭けてきたと思ったのに、辞めたらもうどうでもよくなった。そんなものだったな」
「……」
 父の口調は仙田の知っているものと変わらない。
「なくたって、生きていけるとわかった。まあ、癌で死ななきゃな」
 どうも冗談だったらしいが、笑えない。そう思ったら、背後から姉の声が飛んだ。
「お父さん、笑えない」
「そうか?」
 父は相変わらず冗談とは無縁みたいな顔で瑞穂を振り返り、何事もなかったように仙田の方に向き直った。
「そう思ったらな、お前のその何だ、みっともない刺青もあれだ、まああったっていいんじゃないかと急に思ったんで、言っておこうと思って」
「……」
「次暢、とりあえず見せてみろ」
「やだよ」
 仙田は咄嗟に立ち上がった。
 葛木に見せるのだって恥ずかしかった。父になんて見せられない。すべてではなくても、左腕一本でも。これ以上、自分の愚かさを噛みしめたくなんかなかった。
「どうしてだ。前は見ろって言っただろう」
「あの時はだって……!」
「次暢、座りなさい」
 父は弱々しい外見に似合わぬ強い声で言った。仕方なく腰を下ろし、俯いて両手を握り合わせた。ニットの袖口から僅かに覗く青みがかった紫の蔦模様。それが自分を締め付け、がんじがらめにしているのだと感じ、おかしくなりそうだと感じることが今でもたまにある。
「お前にひどいことを言った」
 父の声が静かに響く。
「罪滅ぼしにはならないが、ちゃんと見るくらいはする」
 自分の親指の先をじっと見た。油絵をやっていた頃は、よく指や服に絵の具がついていた。今は水彩絵の具だから、指先は綺麗だった。洗えば落ちる絵の具のように、何もかも水に溶け、流れて行ってしまえばいいのにと思う。
「友達が」
 絞り出した声は自分のものではないように掠れていた。
「友達が……親父の代わりに全部見るって言って、全部見せた」
 葛木の掌の感触を思い出す。乾いていて暖かかった。性的な要素はひとつもなく、ただ温め、触れていくだけの他人の感触。
「まだ知り合ってそんな長くねえから、最初から俺には刺青があって」
 仙田は、あの時葛木がしたように、袖の上から左腕をきつく握り締めた。
「刺青なんか、目鼻と一緒で単なるパーツだって。だから……そいつが、これがなきゃ俺じゃないって。そんなのやだって言って、だから俺」
 仙田はゆっくり立ち上がって、父を見下ろした。肉は削げてしまったが、骨格が変わるわけではない。
「……また明日来る」
「分かった」
 父は小さく溜息を吐いたが、それは単に疲れただけ、という感じで、感情的なものではないようだった。靴を履いてドアを開ける。閉まったと思ったドアがすぐ開いて、煙草を銜えた瑞穂が出てきた。
「ちょっと」
「何だよ」
「煙草付き合いなさいよ」
 相変わらず母のつっかけサンダルで、瑞穂は眉を寄せて煙草に火を点けた。仙田もパッケージを取り出し、一本抜いて火を点ける。黙って吐き出した二人分の煙が中空で一旦わだかまり、急に気が変わったように解けて消えていく。
「友達って誰?」
「ああ?」
「さっき言ってた。彼女? 作り話?」
「ああ、いや、ほんとに友達」
「ふうん」
「……すげえ後悔してた」
 仙田は灰を払いながら呟いた。
「何を? 堅気なのに馬鹿みたいなモンモン背負っちゃったこと?」
「ああ、そう、容赦なく言うとそういうこと」
「だからあんたは馬鹿だっつーのよ」
「だよな」
 煙草をつまんだ指先に目を遣って、左の袖口に目を移した。ずっと後悔し続けて、だから、葛木が指摘したとおり、自分の見える範囲で仙田は全部覚えていた。肌の上を這う絡み合う蔦。繊細な濃淡、細かい線の重なりまで、すべて。
「でも消せねえなら持って歩くしかねえよな」
「そうねえ」
 瑞穂は煙を吹き上げ、長い髪を払った。
「それがなきゃ嫌だなんて言ってくれる友達がいるんならよかったじゃない」
「一人だけどな」
「いないよりマシでしょうが? あんた昔よりずっとずっと幸せなのよ」
 言い返そうと思った喉がつかえ、仙田は思わず足元に目を落とした。瑞穂が仙田の背中を思いっきり平手で叩き、泣くな、男だろ! とバカでかい声で言った。
「泣いてねえ!」
 わざとらしく乱暴に頭を撫でる瑞穂の手を払いのけて、仙田はようやく少しだけ笑った。