仕入屋錠前屋69 守るために向き合っている 5

 葛木が年上なのは知っているし、見た目や言動をそのまま受け取るほど、こちらも世間知らずでもない。でも、基本裏表のない葛木だから、子供っぽさを疑うこともしなかった。いや、疑う、というと言葉が悪いか。仙田は誰に聞かれているわけでもない胸の内を、それでも一応訂正した。
 葛木にこちらを騙す意図なんかないし、そこまで大袈裟な話でもない。要するに、幼い部分もたくさんあるが、葛木だって三十路の男で、年相応に大人な部分もあるということだ。
 髪が伸びたせいで、幼いというよりは若返って見える。元々年齢より若々しいが、なんというか、もっとこぎれいな感じというか。以前はその辺のチンピラのお兄ちゃんという感じだった。髪に合わせて着るものも変えたせいか——ほとんど仙田の見立てだ——、葛木自身は気付いていないようだが、最近、すれ違う女が葛木に目を留めることが結構ある。うちの子かわいくなったでしょう、と親みたいな気持ちで悦に入っていたが、こうなってみればどちらが子供だか分からない。なんだか酷く情けない気がした。
「……ほんとに見てえのか」
 訊ねると、今までの言い方と違うせいか、葛木は一瞬躊躇ってから頷いた。
「だからさっきから言ってんだろ。見たいわけじゃねえって。だけど、俺が見ないで誰が見んだよ」
 昼間姉に会ってから暫く部屋で思い悩んだが、やっぱり実家に顔を出そうと決めた。本当は今でも父親の顔なんか見たくもないが、逃げ回っていてもいつか対面しなければいけないなら、葬式で、なんていうのはあんまりだろうと思うくらいには情もあった。
 決心が鈍らないように美容室に出かけ、昔みたいに短髪にしたら益々フリが難しくなり、本来の好みの服を買って帰って着替えたらもう駄目だった。姉に会って剥がれ落ちてしまった「今の仙田」は、あっという間にどこかに引っ込み今も出てこない。
「目が腐っても知らねえぞ」
「やばくなったらキャーあっち向いてーって言う」
 葛木がへらっと笑い、少しだけ心が軽くなる。最初は仙田を嫌っていたくせに、元々面倒見がいいのか人懐こいのか、葛木は自分を友人と呼ぶようになった。身に余るなんとやら、といつも思う。銜え煙草でシャツを脱ぎ、Tシャツの裾を掴んで危うく煙草のことを思い出した。
「やべ」
「なんかそんな映画見たことある気が」
「イギリス映画だろ? あの、野郎がストリップする」
「ああ、あれ! ぴったりじゃん」
「……」
 葛木がおかしそうに笑う。それが本当の笑いなのか、そうではないのか、分からないしどちらでもよかった。
 煙草を灰皿に置いて、Tシャツを脱ぐ。
 首筋から左腕と胸を通り、腹の下へ続く青みがかった紫の蔦模様。着替えの度、風呂に入る度、いつも見ているというのに未だに慣れることがないそれを見下ろし、眉を顰めた。葛木の前で脱ぐこと自体は別に恥ずかしいと思わないが、一度見せているのに、刺青を見られるのはなぜか恥ずかしかった。いくら自己嫌悪の塊だった若い日の過ちだったとしても、度が過ぎている。
 座ったままジーンズを脱ぎ、葛木を見る。葛木が片眉を引き上げたので、溜息を吐いて下着も脱いだ。
「はい、恥ずかしがらないで立つ!」
 葛木が教師ばりに高圧的に急かすので立ち上がった。葛木も一緒に立ち上がって寄ってくる。勘弁してくれと思って顔を顰めたが、葛木は仙田の顔なんか見ていなかった。
「……仙田」
「何」
「お前」
「だから、何だよ」
 左半身の刺青は、下腹に広がってそこを通り過ぎ、腿を覆い、柄の一番先は左の膝上まである。さすがに股間と尻の間にはないが、それ以外は全面に入っている。
「いや……前も思ったけど、痛かったろうなと思って——」
 そう言ってちらりと仙田の顔に目をくれる。
「人によるみたいだけど、俺はそうでもなかった気がする。肋骨のあたりが一番痛かったけど、我慢できないほどじゃなかったな」
「熱とか出なかったのかよ?」
「最初のうちは微熱程度出たけど、一日で彫るわけじゃねえし。段々慣れてって平気になった」
 そうしてどこかが麻痺していった、と内心でそっと呟く。
 葛木が仙田の正面に立ち、伸びた右手が、仙田の首筋に触れた。葛木の掌は刺青を温めるかのように触れ、ゆっくりと移動する。肩を通って、仙田の胸の上に掌が触れる。葛木が顔を上げて仙田を見た。
 真正面から視線がぶつかって、仙田は思わず息を飲んだ。葛木は目を逸らさず、仙田の目を覗き込んだまま掌を滑らせた。
 刺青のない右半身にも葛木の掌が触れている。左右対称に、同じ触れ方で。あたかも、左右の皮膚には何の違いもないかのように。仙田は、脇腹を撫で下ろす葛木の両手首を咄嗟に掴んだ。
「葛木。止めろよ」
 間近で睨みつけると、葛木も負けじと睨み返してきた。
「何だよ」
「元に戻れるか分からない」
 食いしばった歯の間から声を押し出す。葛木が眉を顰めて仙田を見上げた。
「はあ? 何?」
「葛木が友達だって言ってくれた奴に戻れるか、もう分かんねえって言ってんだ。嘘だったわけじゃねえけど……だから、そんなふうに気にかけてくれなくていい」
「……」
「親父と向き合うのは俺が自分で」
「俺が今向き合ってんのはお前の親父じゃねえ!」
 葛木は仙田に掴まれた両手を思い切り振り払った。自由になった右手で逆に仙田の左腕を掴む。物凄い力に、仙田の眉が思わず寄った。
 刺青に覆われた前腕を握り締める葛木の手に目を向ける。特別大きくもない、美しくもない、年齢相応の男の手。かさついたその感触と体温が皮膚に染み込む。葛木は仙田の腕を放し、一歩下がった。
「言っとくけど、俺の知ってるお前を守るために向き合ってんじゃねえからな」
「向き合うのはいいけど、なんか間抜けだよな? 俺は素っ裸だし」
「茶化すなよ、仙田」
 葛木は彼らしからぬ低い声で言って、怖い顔をして仙田を見た。
 そんな顔したって怖くないよ、とかなんとか言って、誤魔化すのは簡単だ。そうしたら葛木は怒り、呆れて自分を見捨てるだろうか。いっそ見捨てられたいのか違うのか、自分でももう分からない。
「茶化してねえよ。だけどもういいだろ。こんなの見ても気分よくねえだろうし」
「仙田、だから……嫌だって、後悔したって消せねえんだから、全部まとめて諦めて、自分のもんだと思って背負ってくしかねえだろ。これだってお前の一部なんだぞ」
 葛木の言葉がぐさりと突き刺さり、仙田は思わず怒鳴り返した。
「一生後悔背負って生きてけってか!? そんなのお前に言われなくたって分かってんだよ!」
 衝撃に、倒れこそしなかったがよろめいた。
 何が起こったか分からないまま脚を踏ん張る。湧き出して来たように、突然痛みが顎に広がり呆然としたままそこに手を当てた。
「そういう意味じゃねえっ!!」
 仙田の顎を殴りつけた拳を握り締めたまま仁王立ちになった葛木が、すごい形相で、呆気に取られたままの仙田を怒鳴りつけた。
「嫌だ嫌だって言いながら自分のスミの柄、お前は全部覚えてて、多分そらで描けるに決まってる!」
「いや、そ——」
「うるさい!!」
 ぴしゃりと遮られて仙田は口を開けたまま固まった。
「そのくらいお前の一部ってことだろ? ピアスとか髪型とか喋り方とは違う、もう目とか鼻と同じで身体のパーツのひとつだろ!? 入れた理由とか、後悔とか関係なく背負ってろってことだよ! 俺が知ってるお前は刺青があんだよ最初っから、だからスミがなかったらお前じゃないしそんなの嫌だ!!」
「……」
 沈黙が落ち、仙田が開けた口を閉じ、葛木は暫く視線を宙に彷徨わせて、拳を握ったり閉じたりした。
「……葛木……?」
「……帰るっ!!」
 一瞬で耳まで真っ赤になった葛木は、そう喚いてあっという間に出て行った。
 素っ裸の仙田を独り、放り出して。
 床から下着を取り上げて脚を突っ込み、ジーンズを穿いてのろのろと床に腰を下ろす。
「痛え……」
 暴力沙汰はまったく得意ではないくせに、結構腰の入ったいい一撃だった。顎をさすりながら溜息を吐き、煙草を銜え、火を点けずに暫しぶらぶらさせた。
「何だよ、まったく」
 泣きたいんだか笑いたいんだか分からない気持ちで、仙田は煙草をローテーブルの上に放り出して突っ伏し、刺青だらけの左の前腕に額を載せて目を閉じた。