仕入屋錠前屋69 守るために向き合っている 4

 葛木はドアを開けて暫し立ち竦み、ゆっくりとドアを閉めた。だが、どう考えても間違ってはいなかったので、もう一度ドアを開けた。
「……何やってんの?」
 普段より少し低い声ではあるが、それは間違いなく仙田のものだ。だが、見た目が明らかに異なっている。いや、顔の造作は仙田なのだが、それ以外は全部が違って見えた。
 まず髪型が変わっていた。サイドも襟足も短いのは元々だが、トップも短い。普通の若い会社員がしていそうな短髪だ。顎まで届いていた長い前髪がないから、額も、奥二重の切れ長の目も、意外にほっそりした輪郭も露わになっている。唇のものも耳朶のものもピアスはすべて外されていて、見慣れないせいか顔のパーツが足りていない気がした。
「突っ立ってないで上がったら」
 いつもの無駄口もない。服装も、葛木が見たこともないくらいカジュアルだ。家にいるときでも全身黒か、せいぜいデニムに黒いニットという感じだったのに、色褪せたデニムに白いVネックのTシャツ、その上に海老茶、濃い青と白のチェックのシャツという格好だった。首筋と左腕の捲り上げた袖からは刺青。そこはいつもと同じなのに、全体が妙に男っぽいせいか、全く知らない誰かの刺青に見える。
「葛木?」
「あ? ああ、えっと……どうしたんだよ、髪とか」
 仙田はそれには答えず、床に広げていた大きな紙を指した。
「額装もしてないけど、これ」
 普段はまさに機関銃のように喋っている仙田が静かだと落ち着かない。前にも一度、仙田がこういうふうになったことがあるから、尚更だ。
 本来の仙田は多分今目の前に立っているこの男で、葛木が知っている仙田は作り上げられたキャラクターだ。薄々感づいてはいても、葛木にとってはあの宇宙人みたいな男こそが仙田だった。若干腰が引けつつ部屋に上がり込み、仙田の足元の紙を覗き込む。
 素人の葛木でも、それが水彩画で、かなり上手な部類なのだということはわかった。モチーフはすべて違って花だったり水だったり景色だったりと様々だが、一枚だけ人物画もあって、葛木の知らない老人の後ろ姿だった。どれも透明なのに枯れたような色合いで、色を使っているのになぜかモノクロだと感じさせる。
「こんなレベルのもの出していいのか分かんねえけど」
 仙田は葛木を見て軽く肩を竦めた。
「一応、昼間もらった名刺のとこに纏めて送っとくから、伝えといて。見た上で要らないって言われるならそれでいいし。俺、元々油専門で、水彩は始めたばっかりで自信ないし」
「アブラ?」
「油絵のこと」
「ああ……」
 仙田は絵をまとめてクラフト紙に包んで部屋の隅に立てかけ、床の上に腰を下ろした。
「葛木」
「……はい」
 なんだかこちらも畏まってしまう。仙田はローテーブルを引き寄せ、煙草に火を点けて煙を吐き出した。そんな仕草すら別人のものに見えるのは何故だろう。
「座んないの?」
 銜え煙草でちょっと首を傾げた仙田がようやくいつもの仙田に見えて、葛木はやっとテーブルを挟んで仙田の向かいに胡坐を掻いた。
「あのさ」
「なんで俺にこの話持ってきたの」
 また髪と服のことを聞こうとしたら遮られ、一瞬何を訊かれているのか分からなくなった。葛木は自分の煙草の箱を取り出して銜え、ライターを探してポケットを叩き、ジャケットの右のポケットに発見してやっと火を点けた。
「なんでって……いつだっけ、先月? お前んとこ寄った時に絵の具とか出しっぱなしになってたから、絵描いてんだなって思ってて」
「絵の具くらい小学生だって持ってるけど」
「いや、そりゃそうだけど……どうせ、憐れまれたくねえとか思っちゃってんだろ?」
「……」
「そんなんじゃねえし。ただ、知り合いがすっげえ困ってるって言ってたから、お前の事思い出して」
「そう……」
 それ以上何も言わず、仙田はただ煙を吐いた。葛木の知っている仙田ならありえないほどの口数の少なさだ。なんともいたたまれなくて、葛木は灰皿で穂先を払いながらまた口を開いた。
「でさ、さっきも訊いたけど、その格好、何だよ? なんで急に?」
「ああ、ちょっと実家帰るから」
「実家って」
 葛木は手元をじっと見ている仙田を眺めた。詳しいことは知らないが、ほとんど絶縁状態だと言っていたのは仙田本人だ。刺青を入れ、父親に死ねと言われたと、そう聞いたのはそれほど前のことではない。
「親父が胃癌だって。今日、姉ちゃんが来て」
 仙田に姉がいたことすら知らなかった。お互いのことなんてそれほど知らないし、知らなくても友人にはなれる。それでもやっぱり驚くし、認めたくないが、教えてもらえなかったことを残念に思う気持ちもあった。
「全摘して、転移ないって。だから別に、慌てて行く必要は全然ないんだけど……会いたいって言ってるらしいから」
「そっか。まあ、そしたらあの格好は確かに若干微妙だよな?」
「若干かよ?」
 いつもの仙田の口調とは違ったが、それでも僅かながら笑顔が見えて、葛木は内心胸を撫で下ろした。最初の頃は知らなかった、仙田の素顔。今もほとんど知らないが、それが案外脆いのはなんとなく知っていた。
「いや、若干じゃなくてすげえ、なのかも? わかんねえよ、俺は見慣れてるし。てか、あれが俺の知ってるお前だしさあ。でもなんか、あのけったいな格好より今の方がスミも目立たないと思う。別のジャンルのロッカーみたいだけどな。前はパンクで、今はロック?」
 ふ、と笑って、仙田は自分の腕を見下ろした。絡みつく蔦のようなそれ。以前、ほんの短時間だけ見せられた。首筋と腕一本と思っていたら腹までびっしり彫られていた。葛木は上半身しか目にしていないが、もっと下まであるらしい。
「どっちにしても、わざわざ脱いで見せるわけじゃねえし」
 そう言って煙草を吸いつけ、煙を吐き出す仙田はやっぱり仙田ではなく見えた。
「そういや、俺も全身見たことないよな」
「え?」
「だから、そのスミ。上半身だけだったじゃん、この間見たの。見せてみろよ、バーンと、全部」
「……何言ってんだよ、葛木」
「だからさ」
 葛木だって、本当は見たくなかった。今まで見えていた仙田を仙田として、知らない顔をしていたかった。けれど、それはひどく卑怯な気がした。
「親父さんの代わりに見てやるって」
 葛木が辛いときに、仙田は決して見せたくなかっただろう自分を見せてくれた。そして、あれから時々、ふとしたときに仙田の被った今の顔にヒビ割れが入るようになった気がする。仙田にとっていいか悪いかはともかく、それが葛木のせいであることは間違いない。
 それに、自分のせいだからというだけではなく、自分が馴染まないからといって本人が厭う素の顔を葛木までもが見ないことにしてはいけないと思う。少しだけでもいいから、元々持っていたものを取り戻してほしいと思うのは、的外れで迷惑な思いなのだろうか。
 展覧会の話は、半分は本当、半分は嘘だった。急に出展しないと言い出した奴がいるのは本当だが、他のメンバーの作品で穴埋めできると言っていたのを、無理矢理一人突っ込んでくれとごり押しした。主催者は陸上部時代の後輩で、葛木に世話になったと今でもずいぶん慕ってくれている奴だ。葛木自身は大した世話をしたとも思っていなかったが、今回はそいつのお陰で助かったのだから、まったく、人には親切にしておくものだと教科書みたいなことを思ってしまう。
「葛木に見せる意味が分かんねえ」
「だから、何ていうのかなあ、そうやって素の自分で実家戻るんじゃん? せっかく、何年だか何十年だかぶりに。そんならほんとは全部見せて、親父さんとも喧嘩でもなんでもしてすっきりすべきだと思うんだよな。っていってもさ、そんな簡単じゃねえだろうし、全身見せたら病み上がりの親父さんの具合悪くなっちゃうかもしれないし、だから俺が代わりに見てやるって」
「全然納得できねえんだけど」
「何でだよ? すっきりして来いって言ってんの。大体お前銭湯も行かないし、彫ったやつと付き合った女の子くらいしか見たことないんじゃないの、全体像」
「仕入屋さんと錠前屋さんは見てるけど。銭湯行ったから」
「てか何で俺を誘わねえかな?」
「……誘うつもりだったよ」
「嘘だろ、それ」
 勿論、あの二人の前では葛木と来ようとでも言っただろう。それが分かる程度には、仙田のことが読めるようになった。多分、仙田はそうは思っていないだろうけど。
「あの二人が見たからって、だからなんだよ」
「いや、別に葛木が見たって同じこと……」
「あの二人は、お前のこと本気で心配したりしてねえだろ!」
 思わず灰皿で煙草を捻り潰す。仙田の煙草の穂先から灰が崩れ落ち、テーブルの上に落ちて散った。
「だから、俺がちゃんと見てやる」
 吸殻を放り出して仙田を見上げる。
「ほんとは男のマッパなんか見たくねえけど、仕方ねえもんな? 全部見るにはそれしかねえし。ほら脱げ仙田! 男らしく!」
「葛木」
「何だよ? 盛り上がりが足んないなら音楽でもかける?」
「……酔ってんの?」
「酔ってねえ!!」
 いつものようにムキになって言い返してやると、結構わざとらしかったのに、仙田は少しだけ笑った。